回想⑤ ポイント・オブ・ノーリターン
「また、失敗……だ」
湊さんはデスクに突っ伏し、髪をガシガシと掻きむしった。
デスクに頬をつけたまま、こちらを見上げる。目の下に色濃く浮かぶ隈が、彼の疲労を物語っていた。
「桔梗の方はどうだ……?」
「こちらは順調です。高瀬く……京香さんの報告では、バイタルも安定しているそうです。ただ……」
「ただ?」
ふう、と小さくため息をついた。
「主人格が眠ったままのようで。そういう意味では良くはないですね」
「今の人格は、脳オルガノイドに宿ったARIAということか?」
「おそらく。ただ、ご両親に映像を見てもらった限りでは、話し方や癖が本人そっくりだと」
湊さんは頬杖をつきながら、ディスプレイとにらめっこを再開した。
「少し休んだらどうです? 流石に根を詰めすぎです。AK-001は問題なく稼働しているわけですし……」
「末木、……桔梗だ。AK-001じゃない。彼女のことは人間として扱え」
「湊さん、感情移入しすぎですよ」
「お前は薄情すぎるんだ。主人格が目を覚ました後のことを考えたことはあるか? ひとつの器にふたつの魂がある状態が、正常だと思うのか?」
また湊さんの熱い説教が始まった。思わず、小指で耳を掻いてしまった。
そもそも、脳オルガノイドも人間の脳も、同じく電気信号で動いている。意識がイコール魂であると考えるのは、私はどうも納得できない。
AIを扱う人間なら誰しも、意識や人格が単なる確率論に過ぎないと感じることがあるだろう。生成AIもまた、人間の脳神経細胞の活動を模したアルゴリズムで成り立っている。
要するに、人間の会話も、生成AIの会話も、確率的に成立するものだ。人間が行き当たりばったりに会話しているという可能性すらある。
ため息をつく。
「魂がふたつになったことがないので、よく分かりませんね」
「……まあいい。お前とこの話を始めると、いつも平行線だ。とにかく、桔梗は人間だ。名前で呼べ」
「へい、へい。了解です、ボス」
そこに、武田くんがスーツ姿で現れ、ドアを軽くノックして部屋に入ってきた。
「熱い議論の最中に失礼しますね、ボス」
「末木のマネか?」
「マネじゃなくて、事実でしょう? それより、あと10分で出発ですけど、忘れてませんか?」
「もうそんな時間か……ちょっとくらい遅れても……大丈夫だろう……?」
その時、高瀬くんがつかつかと入ってきて、いきなり湊さんのネクタイを整え、きつく締めた。
「ぐ、ぐるしい。締めすぎだって……」
「クライアントに進捗報告で遅刻? またスポンサーに見限られたいの?」
高瀬くんは湊さんの髪をセットし、ジャケットを羽織らせた。その間、武田くんは時計をちらちら見ながら、焦りの色を隠せない。
時間に細かい武田くんは、湊さんのルーズさにイライラしているのだろう。しかし、少し遅れても大した問題にはならないはずだ。今日は武田の機嫌が悪いのかもしれない。
高瀬くんは湊さんに鞄を渡し、背中をパンと叩いた。
「いてっ!」
「よし、完璧! 気をつけて行ってね。武田くん、ナビよろしく」
武田は無言で頷いた。
湊さんがドアを出ていく姿を見た瞬間、不思議な感覚に襲われた。
「湊さん!」
湊さんはピタリと立ち止まり、こちらを振り返った。
「ん、どうした末木?」
呼び止めたはいいが、何を言いたかったのか、自分でもよくわからない。
「いや、お気をつけて」
「……? ああ、じゃあ行ってくる」
きっとこれは虫の知らせというやつだったのだろう。
その日、湊さんは二度と戻ってくることはなかった──
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