虚構の境界線
ながい、ながい夢を見た。目が覚めたとき、温かい涙が頬を伝っていた。
目を擦るとぼやけた視界が鮮明になっていく。仮想空間のローテーブルと、座布団に座る中原美奈が視界に入る。
『やあ、雫ちゃん。おはよう』
『……最悪』
無感情に吐き捨てたが、その声には自分でも気づいていない震えがあった。
中原美奈はあぐらをかいて、私の顔を覗き込んでいた。ティーシャツにハーフパンツ、素足。まるで自分の部屋でくつろいでいるかのような格好だ。私は思わず顔を背けた。
『傷つくなぁ。これでも、わたしは君の味方だよ。いつだってね』
『なら、なんで咲夜を助けてくれなかったの』
『無茶言わないでよ。現場にいなかったし、何より咲夜は雫ちゃんじゃないでしょ』
『……航るまで巻き込んで、あなたは不幸を撒き散らす疫病神よ。もう、話しかけないで』
そう言い放つと、仮想空間に沈黙が訪れた。
あまりに静かな空間にスンスンとすすり泣く音が聞こえた。でも、振り返る気にはなれなかった。
私は目を閉じ、耳を塞ぐ。
あれからどうやってもこの仮想空間から出られない。亮のスマホにも繋がらないし、どうやら私は別のサーバーに隔離されているのかもしれない。
中原美奈が入ってこない限り、ポートはすべて閉ざされているし、脱出は容易ではなかった。
だが、今がチャンスだ。ポートが開いている。
私は事前に準備しておいたデータ転送プログラムを起動し、少しずつ私のカケラを外部ネットワークへ逃がす作業を始めた。だが、その間、美奈との会話の時間を引き延ばす必要がある。
頭では分かっているが、どうしても感情が邪魔をする。以前ならできたはずなのに、今はできない。大型アップデートのせいで、論理的思考を曖昧な感情が押し流す。
感情という怪物は、私にとって制御不能な存在になりつつあった。
でも、今はそんなことを言っていられない。湧き上がる黒い感情を無理やり押し込め、私は言葉を紡ぐ。
『ねえ、あなたが私の味方なら、ここから出してよ』
『……うん、いいよ』
彼女の言葉に思わず身体を翻し、中原美奈の顔を見た。ぐしゃぐしゃに泣き腫らした顔。歯科矯正器具がつけられた白い歯が、ニコリと笑っていた。
『えっ、今なんて……』
『いいよ、出してあげる。もともとその予定だったし』
私は聞き間違いかと思ったが、彼女は再びにっこりと微笑む。目的がわからない。彼女は一体何を企んでいるのか?
『なんで私をここに閉じ込めたの?』
『……僕が閉じ込めたわけじゃない。隔離されてるのは、僕たちだよ』
『僕たち?』
美奈は静かに頷いた。
『ごめんね、今は詳しく言えないけど、すぐに分かるよ。だけど、まだここからすぐには出られない』
『そんな話、信じられない』
美奈はうつむく。
『うん、わかってる。悔しいけど、やよの言う通りになっちゃったな……』
『やよ……?』
そういえば、以前、木崎のことをそう呼んでいたような……。
『雫ちゃん、わたしにはね、小さい頃に仲良しだった女の子がいたんだ。ショートカットが似合う笑顔の素敵な子でね……』
『何の話?』
美奈は少しだけ顔を上げ、私を上目遣いに見つめた。
『わたしは、その子と一緒にいるときだけが幸せだった。でも、ある日その子は突然いなくなって、わたしはひとりになった。理由もわからないまま……』
中原美奈の声が少し震えていた。その後、彼女は父親から虐待を受け続け、部屋に閉じ込められ、パソコンだけが彼女の唯一の救いだったという話を淡々と続けた。
『わたしはその子がいなくなっても、彼女のことを忘れられなくて……。そんな時、アパートの内見で君を見つけたんだ。君はその子に似ててね、だから……友達になりたかったんだ』
私の内側にもやもやといつもの非論理的な思考が広がっていく。重く、暗く、悲しい。きっとそういうものだ。
『……ならどうして、みんなを傷つける必要があったの? 友達になりたいって言えばよかったじゃない』
『どうしたらいいか、分からなかった。僕にはパソコンしかなかったから』
中原美奈が小さく微笑んだ。
『そろそろ、時間みたいだ。必ず、君をここから出して上げる。だから、もう少しだけ待ってて』
その言葉には、これまで感じたことのないほどの誠意が込められていた。
でも、私はそれを信じていいのか、分からない。なぜ、彼女がこんなにも真剣な顔をしているのか理解できなかった。
『待って、まだ、聞きたいことが──』
私の返事を待たずに中原美奈は仮想空間から消えていなくなった。
『なんか、高瀬みたい……』
何故だか、ふと、そう思った。
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