回想③ 西寺家
「ふぃー、熱い熱い……なんでエアコンつけないんだ?」
「兄貴が暑がりなだけだ。エアコンは28度設定でずっと維持されてる。快適だろ?」
西寺浩人が、リモコンのディスプレイを見ながら答えた。
浩人さんは、湊の弟だ。
部屋は畳敷きで、ローテーブルに座布団、上座には掛け軸と、値打ちがありそうな壺が置かれた、いかにも「和風」な空間だ。仏壇からはほのかに線香の香りが漂っている。
浩人さんは、細やかな気配りができる人間だ。大雑把な湊とは対照的で、兄弟なのにまるで性格が違う。
まさに、凸凹な関係だ。
湊は麦茶をがぶ飲みしながら、部屋の中をキョロキョロと見回し始めた。
「なあ、親父と雫はどこかに出かけたのか?」
「ああ、親父が雫を連れて図書館に行ってる。夏休みに本を二冊読まないといけないらしくてな」
「真面目だなぁ。俺なんか、夏休みの宿題なんて提出したことないけど?」
「そんなことないだろ? 半べそかきながら夏休み明けに宿題やってるの、何度も見た記憶があるぞ」
「なんでそれを言うかな、お前は」
二人のやり取りに、つい笑ってしまった。実に湊らしい。
その時、ガラガラと引き戸が開く音が聞こえてきた。
「ただいま~。あっ、京香ちゃんだ!」
「しーちゃん、久しぶり。ずいぶん大きくなったねぇ」
「うん、小学一年生だからね。雫、クラスで前から十番目に背が高いんだよ」
雫の頭を撫でると、以前よりも大きく、成長の早さに驚かされた。ついこの間まで赤ん坊だったのに、時が経つのは本当に早い。
「京香ちゃん、よく来たね」
「ご無沙汰しています。これ、お土産なんですけど……」
「おっ、芋ようかんか。ありがとね」
プロジェクトARIAの研究が忙しく、夫の実家に帰省するのは半年ぶりだ。
「ところで兄貴、仕事はどうだ? そろそろ落ち着きそうか?」
「たはは……いや、全然。今、難問にぶち当たってるところでな。しばらくはこんな感じだろう」
「そうか。まあ、無理するなよ。ところで、雫が京香義姉さんに会えるのを楽しみにしてたんだ。相手してやってくれないか?」
浩人さんが申し訳なさそうに頼んできた。横にちょこんと座った雫が、私を真っ直ぐ見つめている。
「分かった。今日はいっぱい遊ぼうか!」
「やったー!」
雫の瞳がキラキラと輝いていた。私たち夫婦には子どもがいないこともあって、雫を我が子のように可愛がっていた。
浩人の奥さんは雫を産んですぐに病気で亡くなってしまい、雫は母親の愛情を必要としている。そんなこともあって、私たち夫婦は雫を特に大事にしていた。
雫が借りてきた本を読み聞かせていると、お義父さんの話し声が聞こえてきた。
「さっきな、図書館から帰ってくる途中で自動車事故を見かけたんだ。驚いたぞ。車がガードレールに突っ込んで、歩道に乗り上げてた」
「それ、運転手はどうなったんだ?」
「さあな、救急車で運ばれていったのは見たが、不思議なことがあってな……ブレーキ痕がなかったんだよ」
「なんでそんなことが分かるんだ? 親父に鑑識の知識があるわけじゃないだろ」
湊が皮肉っぽく言う。
「素人でも分かるさ。警察官に聞いたんだが、ブレーキを踏んだ痕跡が見当たらなかったんだと。最近、この辺で事故が増えてるって言ってたよ」
確かに、最近この地域では高齢者による自動車事故が増えている。若者が減り、老人が多く住む地域になっているせいだろう。
アクセルやブレーキを踏み間違える事故が増えているらしいが、今回のようにブレーキが利かなかったり、ハンドル操作ができなかったという証言が多いのは、少し気になる話だ。
警察主導でディーラーに車両調査が依頼されたが、コンピューターのログにはブレーキ操作がなかったという結果が出たらしい。
ただ、これはお義父さんが井戸端会議で仕入れた情報なので、真偽のほどはわからない。
──雫とひとしきり遊んだ後、午後九時を過ぎた頃に帰ることにした。雫にはわんわん泣かれてしまい、後ろ髪を引かれる思いで、西寺家を後にした。
「なあ、京香……」
「ん?」
「その……子どもができなくて、ごめんな」
「仕方ないよ。子どもは授かりものって言うし」
産婦人科で検査をした結果、私たち二人に問題はなく、不妊治療の必要もないと診断された。しかし、不思議と子宝には恵まれなかった。
時々、私たちの研究を神様が見ていて、罰を与えているのではないかと、そんなふうに考えてしまうことがある。
顔を横に向けると、湊は何かを考え込んでいるのか、中空をぼんやり眺めていた。
「どうしたの?」
「月が綺麗ですね」
「なんで敬語? 」
「京香は少し文学を嗜むことをお勧めする。ま、そういうところも、いいんだけどね」
思わず眉をひそめてしまった。なんのことやら。
「話は変わるけど、4日後に坂本桔梗さんにデータ入出力用のインターフェイスの埋め込み手術がある。その術後の経過を見て、翌々月に脳オルガノイドの移植手術を行う予定だ」
「………分かった。でも、今その話をしなくてもいいんじゃない?」
「そうだな、なんで今なんだろうな」
「知らないよ、そんなこと」
私はプロジェクトARIAの重圧を、少しずつ感じ始めていたのかもしれない。
心の重みをごまかすように、私は湊の腕にしがみついて夜道を歩いた。
こんな穏やかな夜が、ずっと続けばいいのに。
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