掌に残った物は
「興醒めだな、佐藤梢。お前の憎しみはそんなものか?」
そこには見知らぬ男が立っていた。背が高く、肩幅も広い。身体つきは、普段から運動しているのだろう、引き締まっている。
身の危険を感じた。
考えるよりも先に身体が動いた。出口に向かって全力で駆け出す。
ラインを避ける必要があるため、回り道しなければならなかった。
周囲が暗くて見えず、瓦礫に躓いて転倒した。頭が真っ白になる。
捕まったら絶対に逃げられない。力であの男に勝てる気がしなかった。
必死に立ち上がると、右足に激痛が走る。
躓いたときに足を捻ったのだろう。
でも、今はそんなことに気を取られている暇はない。歯を食いしばり、足を引きずりながら出口を目指す。
視界には出入口が見えている。あと少し……!
しかし、またしても転倒した。焦るが、思うように起き上がれない。
ジタバタしていると、身体ごと持ち上げられ、肩まで担ぎ上げられた。
視界が高くなり、入口から徐々に遠ざかっていく。手足をバタつかせ、担いだ男を叩いたが、びくともしない。
「逃げるなよ。君の復讐を手伝ってやる」
「嫌っ、離して!」
「……大人しくしていろ。逃げるなら、両足の腱をそこの糸鋸で切断する」
男の声は淡々としていた。お菓子の封を切るくらいの軽さで、逆にそれが怖かった。
身体から力が抜け、最早、抵抗する気力もなかった。
木下がいた場所まで戻ってくると、私はその場に降ろされた。
男はスマホを取り出し、私の視界に入るように画面を見せてきた。そこには、私が金槌を握り、木下を殴ろうとしているところが映っていた。
「ここまでは良かった。表情もいい。人殺しの目だ。だから使わせてもらったよ」
ゾッとした。この男は隠れて一部始終を撮影していたのだ。
でも、この動画は奇妙だった。映像の中の私は金槌を振り上げていたのだ。
そして、振り上げたかと思ったら、あっという間に木下の頭に振り下ろしていた。
脳天に直撃し、木下の頭から血が吹き出す。何度も金槌を振り上げ、滅多打ちにしていた。
胃の中のものがこみ上げてきて、その場で吐き出してしまった。口の中に嫌な酸味が残り、頭がクラクラする。
その時だった。パン、と音がして、顔が真横を向く。遅れて頬がジンジンと痛みだした。
「汚ねぇな。あと、勝手にもどすな。辻褄が合わなくなるだろうが」
涙が止まらず、再び吐き気がこみ上げてきた。
また、頬を叩かれた。
なんで私は叩かれているのか。なんで、身に覚えのない殺人動画を見せられているのか。なんで私はこんな場所にいるのか……。
考えても答えが出ないことが頭の中をグルグル回り、自分の嗚咽でわけが分からなくなっていた。
吐くたびに叩かれ、罵られ、早く、この悪い夢から覚めてほしいと願った。
「吐瀉物だらけじゃないか。……まあ、いい。考えようによってはこの方が真実味がある」
武田はおもむろに床に落ちていた金槌を手に取る。そして、私の両手にその金槌を握らせた。
「……人間ってのはな、体感していないことは説得力に欠けるんだ。なんでだと思う?」
私は男の顔を見上げた。ランタンの灯りが男の顔を照らし、その半分を影で覆い隠した。
「君が手に持っている金槌の重さ、埃っぽい空気、吐瀉物の味、絶望に沈む気持ち……五感のすべてで味わった感覚を言語化すると、言葉に魂が宿る。体感していない言葉が薄っぺらく感じるのは、そのせいだ」
何を言いたいのか分からない話に気が遠くなる。でも、あることに気がついた。私の動画は後から作られたもなのだ。
つまり、フェイクポルノと同じだ。
「……あなたなの? フェイクポルノを作ったのは」
武田はニイッと笑った。
「この状況でその結論に至るとは……だから頭の良い女は好きだ。君を捨て駒にするのは勿体ないが……背に腹は代えられない」
そう言うと、武田は私の両手を包むように押さえつける。そして、私の両手ごと金槌を上に振り上げた。
「い、いや……」
「人の頭蓋を砕く感触は……やはり、実際に体感しないと分からないからね。頭蓋を砕くことで君の証言は真実味を増すんだ」
強い力だった。振り上げられた腕に力を込め、全身を左右に振り、全力で抵抗するが、それでも抗うことができなかった。
そして、腕は無常にも振り下ろされた。
「いや、やめてぇぇぇぇぇ──」
──手に残った感触が消えない。
「三神先生……私は木下を……こ、ころ……し……」
三神先生は私をそっと抱きしめてくれた。その優しい温もりで、涙がとめどなく溢れた。
涙に滲んだ世界に、一掬いの水を得たように感じた。
そうか、私を救う言葉は身近にあったんだ。なんで気がつかなかったんだろう。
私は三神教授の背中に手を回した。
温かい……。
いや、温かいだけじゃない。手にぬめりのようなものを感じた。
はっとして、顔を上げると、滲んだ視界に黒い影が映った。そこには悪魔が立っていた。
「武田……」
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