ディープダウン
「ミス佐藤……どうしてこんなことをしたんだ?」
三神教授の静かな問いかけに、佐藤は答えなかった。ただ、彼女の唇が微かに震え、涙が頬を伝い落ちていく──
──あのダイレクトメッセージを見るべきではなかった。でも、無視することができなかった。
『木下貴一を追い詰めました。彼が今どこにいるか、知りたくありませんか?』
その言葉は、私の心の奥深くに響いた。ずっと抑え込んでいた怒りや絶望、悲しみが、一気に溢れ出してきた。
事件の主犯である木下を「追い詰めた」というメッセージに、私は藁にもすがる思いで目を通した。
事件以降、私は誰にも守られていないことを思い知らされた。
「お前みたいな奴が、この大学にいるなんて信じられない」
「西条大の経済学部の■■■です。動画見ました。ド変態で欲求不満なんですね。よかったら、俺と○○○しませんか?」
「お前の貧相な体なんて誰にも必要とされない。こんなものを晒して、恥ずかしくないのか?」
SNSの悪意に満ちた言葉を反芻するたびに、私は過呼吸に陥り、涙を流しながら暗闇で溺れているような気持ちになった。人の目が怖くなり、大学に通えなくなっていた。
一度、勇気を振り絞って友達に相談してみたこともあった。
しかし、彼女は笑いながら、スマホを弄り「そんなの気にしなくていいのよ。あんたの顔に裸をくっつけただけの動画でしょ?」と言った。
彼女の言葉に、私は自意識過剰だと非難されているように感じ、友達だと思っていた彼女との間に、埋めることのできない深い溝があることに気づいた。
被害に遭っていないから、そんな酷いことが言えるんだ。
気がつくと、彼女を着信拒否にしていた。
疑心暗鬼に苛まれ、人を信じられなくなった頃に、あのメッセージが届いた。
絶望の壁に閉じ込められていた私には、その言葉だけが光をもたらすように感じた。
『木下貴一を追い詰めました。彼の居場所を知りたくありませんか?
私もあなたと同じく、フェイクポルノの被害者です。あの事件以来、毎日がSNS上の誹謗中傷との戦いでした。
根拠のない噂や憶測が飛び交い、クラスメイトの視線さえ恐ろしくなり、キャンパスを歩くことすら困難になりました。
許せなかった。木下を。
だから執拗に追い続け、ついに奴を捕らえることができたのです。
あなたの痛みが、私には痛いほど分かります。私たちが味わった苦しみを、今度は味わわせてやりませんか? 共に。
証拠として、木下の現在の居場所と彼の姿を捉えた動画のURLを添付しました』
メッセージには、木下の居場所と動画のURLが添えられていた。何度も自分に言い聞かせた。
こんな怪しいメッセージを信じるな、と。
しかし、彼を罰することで、私自身が少しでも楽になれるのではないかという、暗い期待もあった。
私がそっとスマホをテーブル置こうとしたときだった。
ディスプレイに親指が触れると、画面がスルスルと上にスクロールしていく。まだ文章が続いていることに気がついた。
『追伸:報復が完了したら、明後日の午前中に警察に木下を引き渡そうと思います。それまでには来てください。待っています』
時計を見ると午後11時を回っていた。
憎しみ、恨み、そして復讐の衝動が胸の中で渦巻き、激しい濁流となって、自制心という名の蓋が吹き飛んでいった。
私は気がつくと、原付きバイクでK&K Industriesに向かっていた。
罠とも知らずに。
深夜0時の少し前に工場に到着した。鬱蒼と生い茂る草に加えて暗闇で工場はほとんど見えなかった。
しかし、私は何かに導かれるように叢の奥へと進んでいった。
工場の前まで来ると、工場内に仄かに灯りがともっていることに気がついた。私はその灯りを頼りに、瓦礫で足を滑らせ、何度も転んだ。
でも、不思議なことに痛みも、恐怖も何も感じることはなかった。
灯りの元へ行くと、背もたれのついた木製の椅子に後ろ手で縛られ、俯いている木下と思しき人物が座っていた。
顔は汚れ、口元が腫れ、髪は埃で白くなり、服は破れ、汚れ、乱れていた。すでに報復を受けた後の姿だった。
足元には報復に使われたと思われる道具が散らばっていた。金槌、鉄パイプ、瓦礫、糸鋸、包丁やメス、注射器……どこで手に入れたのか分からないものまで落ちていた。
道具にはところどころ、黒く固まった血液らしきものがこびり付いていることに気がついた。
私は金槌を手に取った。金槌はズシリと重く、私の憎しみの象徴のように感じた。
勢いに任せて金槌を振り上げると、槌の部分を誰かが抑えつけたかのようにさらに重く感じた。
両親や三神教授、高瀬さん、木崎さん、山内くんや、西園寺さん、色んな人の顔が頭を過った。
「ミス佐藤のフェイクポルノはネット上から必ず駆逐する。大学も君の味方だ」
「佐藤先輩、私は先輩の味方です。先輩が苦しんでいるのは分かってます。他人事じゃなくて、ちゃんと……分かってます」
「佐藤が拒絶しても、俺は何度でもお前の元を訪れる。いつでも、なんでも話してくれ──」
ポロポロと涙が溢れ出し、手の力が嘘のように抜けて、ゴトンと金槌が床に落ちる音が聞こえた。
私がするべきことはこんなことじゃない。木下の元へ歩み寄り、生きているか確認をした。
目は虚ろで手を振っても反応はない。でも、呼吸はしているし、今すぐ死ぬほどの怪我じゃない。
そうだ、救急車を……
着の身着のまま出てきてしまったから、スマホを自宅に忘れて来ていることに気がついた。
今すぐ、工場を出て助けを呼ばないと。そして、私を呼び出した、女の子を止めないと。
周囲を見回したが見える範囲には木下しか見当たらない。
「ねぇ、私を呼び出した人、いるんでしょ。出てきて! こんなこと、絶対に駄目だよ」
木下の苦しそうなゼーゼーという呼吸音以外聞こえて来なかった。
誰もいないのかもしれない。そう思って、立ち去ろうとしたときだった。
ジャリッという、物音が聞こえた。その音は次第に大きくなり、何も無い暗闇からぬうっと大きな黒い影が蠢いているように見えた。
大柄の真っ暗な人型の影の方から声が聞こえてきた。
「興醒めだな。佐藤梢。お前の憎しみはそんなものか? 」
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