高瀬京香
プランターには星型の花弁に紫色の花が植えられていた。
以前ここに来た時も、何か花が植えられていたのを思い出す。周辺の家屋に明かりが灯り、虫の音が微かに響いていた。
僕は中島不動産のドアを開ける。室内は薄暗く、人の気配が感じられなかった。
「ごめんください。山内です」
声をかけると、奥からパタパタと走ってくる音が聞こえた。
「はい、はーい。ちょっと待ってね」
パチンという音とともに、蛍光灯が音を立てて明かりが灯った。頭を下げる。
「お久しぶりです。こんな夜分にすみません」
「どうせ残業してたから問題ありませんよ」
高瀬さんは手でオッケーのマークを作る。
「で、あの、雫なんですが……」
「目が覚めない……でしょ?」
言いたいことを先回りされてしまった。
「私も雫はモニタリングしているから、状況はわかっているつもり。ただ、わからない事もある」
「SNSのフェイクポルノ炎上事件の件はご存知ですか?」
「そこまでは掴んでる。でも、事件が沈静化して大分後になってから様子がおかしくなったじゃない。その理由がわからなくてね」
少し躊躇ったが、佐藤先輩からのメールの件を伝えた。雫の塞ぎ込んでいる様子、僕も彼女をフォローできていなかったことを話す。
「そのメールの件は気が付かなかった。全部の記憶をチェックしているわけではないからね……。とはいえ、武田さんらしくないな」
口を尖らせながら眉間に皺を寄せる。武田さんとは同僚だろうか。雫を一人で管理するのは無理だろうし、他にも関わっている人がいるのだろう。
そんな事よりも高瀬さんの所作が雫みたいに見えて微笑ましく思った。
「……なんか、仕草が雫と似てますね」
「そうかな? 初めて言われたかも。ところで、そのメールを確認した日時って分かる?」
「あっ、はい。メールを雫に転送してもらったので、送信日時を確認すれば……。これです」
「ありがとう。この時間の動画の解析を急がせる。ちょっとメール打つから待ってて」
そう言うと、高瀬さんはスマホをぱたぱたと操作し始めた。メールを打ちながら、話しかけてくる。
「山内さんは江ノ電が好きなの?」
「いや、僕じゃなくて雫が」
「やっぱり、そうなんだ」
「やっぱり……ですか?」
高瀬さんは申し訳なさそうにこちらを見る。
「二人が楽しそうに鎌倉デートしているの見ちゃったからね」
「えっ?」
「モニタリングって、そういうことだよ。ごめんね」
顔の前に両手を合わせて、ごめんねのポーズをされた。雫の癖はこの人に倣ったものなんだと改めて思った。
「実はね、この短期間で江ノ島、江ノ電、鎌倉の映像が12875回動画再生された形跡があるの」
「い、一万?」
高瀬さんはこちらに顔を向け、首を縦に振る。
「分かっていると思うけど、雫は自己学習をするタイプのAIなの。通常はある程度学習して、最適な結果が得られるようになると学習を停止するアルゴリズムが入っているのよ」
何か、三神教授の授業で聞いた覚えがある。機械学習やディープラーニングでは学習させすぎると思うような結果が出なくなるとか……。
「|Early Stopping《早期停止》ってやつですね」
高瀬さんは目をパチクリとさせていたが、すぐに手をポンと叩いた。
「そうか、山内さんは西条大学の学生さんだっけ。なら、過学習に陥った場合の対処方法も分かる?」
「……いえ、わかりません」
三神教授が対処方法についての講義も雑談程度で話していたような気もするが思い出せない。
そもそも、ディープラーニングも基礎的なことしかやっていないので理解しているとは言えない。
「端的に言うと学習前の状態に戻すか、学習しすぎた部分を除去するくらいしかない」
「……それって、どういう」
高瀬さんはうつむき、申し訳なさそうに話し始めた。
「君と出かけた、江ノ電、江ノ島、鎌倉……この辺の記憶を無かったことにする」
「僕との思い出が無くなる……そういうことですか?」
高瀬さんは小さく頷いた。
「君の意志は関係なく、この辺のデータ消去は開始しているの……ごめんね」
「あ、いえ……」
思い出の無くなった雫は果たして僕の知っている雫になるのだろうか。
いや、問題はそこじゃない。
僕は大事な人が大変なことになっているときにゲームに現実逃避をしていたのだ。
元に戻るも何も放置した自分のせいだ。自業自得ではないか。
胸の奥に大きな鉛の鉄球でも詰め込まれたような、重く、息苦しい気分になっていく。
「あとは……私たちに任せて。暫くしたら雫は目を覚まして、いつもの雫に戻るはずだから」
「いつもの……ですか?」
高瀬さんの瞳は微かに揺れていた。小さな声で「そう」と言った。
雫が嘘をつく時とそっくりだ。きっと元には戻らないのだろう。
「でも、綺麗に江ノ島や鎌倉……その辺だけのデータを除去できるんですか? できなかったらどうなるんですか?」
「大丈夫、これでもプロだからね。任せて。……そうだ、渡したいものがあるの」
そう言うと立ち上がり、部屋の奥に引っ込んでいった。暫くすると青色の箱を両手で抱えて持ってきた。
「これ持って帰ってくれない? あ、貸すだけね」
「はあ、いいですけど、これ……ゲーム機ですよね。僕、同じの持ってますよ。ていうか、何のためにこれを僕に?」
「うーん……お守り? 後、このスマホも。スマホは山内さんへのプレゼント」
最新のハイエンドモデルのスマホだ。雫のアプリを考慮するとこのくらい高性能なものが必要だとは思ってはいたが。
「こんな高価なもの貰えませんよ」
「貰ってくれると嬉しいな。そのスマホは雫の迷惑料。ごめんね、君、この春からスマホ二台目でしょ」
「そんなことまで知ってるんですか?」
「まあ、ARIAへの接触者はできる限り監視しているからね。ごめんね」
少し驚いたが、当然といえば当然な気がする。雫は高瀬さんにばれないように対策をしている……とよく言っていたが、やはり子どもの浅知恵だった。
高瀬さんの掌の上で踊らされていたということか。雫が知ったらがっかりしそうだ。
いずれにしてもスマホ問題はこれで解決できる。お言葉に甘えて、スマホを貰うことにした。
その時、とある事を思い出した。
「あの、僕のことを監視していたなら通り魔事件も見ていたんですか?」
「ええ……事件自体は知っている。だけど、監視していた人間はかなり離れた場所にいたから詳細までは……」
「そうですか……」
何か犯人の手がかりでも分かればと思ったが、そう都合よくはいかないか。
「でも、その件もあったから屈強な人間があなたを監視しているから安心して」
「なら木崎さんも?」
「もちろん。主要な人物には監視をつけているから多少外出しても問題ないわよ」
気分も滅入っていたので外出できるのはありがたい。
「あと、このゲーム機なんですが、何に使うんですか?」
「私の力でどうにもならないことがあったら、山内さんに協力してもらう。そのための必須アイテム。その時が来たら説明する」
「はあ……」
「特殊な改造がされているから、こちらから連絡するまで電源は入れないでね。今日は遅いからこの辺にしましょう」
置き時計の針が10時を指していた。確かにいい時間だ。
「あの、高瀬さんはいつから僕と雫が接触している事を知っていたんですか?」
「山内さんが引っ越しで鍵を受け取りに来た日かな」
雫もあの日、高瀬さんが何か勘づいているとしきりに言っていたのを思い出した。
「なんで、分かったんですか?」
「賃貸アプリのこと覚えてます?」
「あの、赤いアプリですよね」
高瀬さんはかぶりを振った。
「青が正解。赤のアプリは私が開発したARIAシリーズ専用アプリでね。ARIAの表示機能を除いたものが、青いロゴの賃貸アプリなの」
「なんでそんな紛らわしいことを」
「こんな便利なアプリを不動産業に利用しない手はないって中島コーポレーションの幹部がうるさくってね」
「ロゴをまたデザイナーに頼むのが面倒で、色違いで作り直してもらったの」
高瀬さんは苦笑いしていた。
「山内さんに嘘は向いてないと思う。だからこそ、雫を任せられるって判断したんだけどね」
言葉に詰まって、頭をポリポリと掻く。完全に泳がされていたようだ。黙認してくれるということは話せば分かってもらえそうなものだが……。
考え事をしている間に高瀬さんは部屋の電気を消したり、後片付けをしたりしていた。
中島不動産の外に出て、帰ろうとすると呼び止められた。
「山内さん、戸締まりしたら送っていくね」
「いえ、大丈夫ですよ」
「暗がりは監視する方も大変なんだって。さっき、エージェントからクレームが入ったから、助けると思って」
なんというか、ここまでされてしまうと流石に申し訳ない気がしてしまう。でも、これで雫は目を覚ますだろう。
***
車の助手席に座り、僕はぼんやりと外の景色を見ていた。高瀬さんは運転に集中しつつ、ちらりと僕に視線を送る。
「山内さん、今後のことだけど」
「はい?」
「雫が目を覚ましたら、まず最初に状態を確認してね。雫が元気でいることが何よりも大事だから」
「わかりました」
「それと、もし雫から何か違和感を感じたり、君に対して冷たくなったりしたらすぐに教えてほしい」
「ええ、もちろんです」
高瀬さんは微かに笑った。
「ありがとう。山内さんの協力があってこそ、私たちも最善を尽くせる」
「……高瀬さん、雫は本当に元に戻りますか? 」
彼女の瞳は再び微かに揺れた。
「正直なところ、完全に元に戻る保証はない。でも、できる限りのことをするつもり」
その言葉に、少しだけ希望が見えた気がした。雫が戻ってくるまで、僕は彼女のためにできることをしようと心に誓った。
車が家の前に到着し、僕は高瀬さんに礼を言って降りた。
「じゃあ、気をつけて帰ってください」
「ありがとう。おやすみなさい、山内さん」
「おやすみなさい」
家に戻り、スマホとゲーム機を手にした僕は、雫の無事を祈りながら、その夜は静かに眠りについた。




