手紙
GoBを一度始めてしまったら、一日、数十分のつもりが数時間に、数時間が数十時間に……と転落していくのが分かった。
僕はこういう物に依存する傾向があるから、自制していた。
──あれは高校二年生の夏、このゲームに嵌って引きこもるようになってしまった時のことだ。
ヘッドマウントディスプレイを被り、両手にコントローラを握る。視覚と聴覚を塞がれただけで、浮世から隔絶した別の場所にいるように感じた。
だから、仮想空間に逃げ込み、依存してしまった。気がつくとフレンドからは「お前、いつ来てもいるな」とか言われてしまう始末だった。
転勤族の父親に連れられて、日本全国津々浦々の学校に転校を繰り返していたから、なかなか学校に馴染めず、一人で過ごすことも多かった。
でも、GoBにいれば、誰かしらフレンドはいるし、居心地がよかった。ただ、フレンドにも生活はある。
僕と違って、皆外の世界へと帰っていく。それが堪らなく僕を不安にさせた。
鬱々とした気持ちで過ごしていたある日、僕の部屋の扉を蹴飛ばして入り込んだ奴がいた。
あまりの激しい音に思わず、ヘッドマウントディスプレイを慌てて外すと、そこには咲夜が立っていた。
「あんな、GoB勧めたんは世界は広いって伝えるためや。引きこもるためちゃうねん」
そう言うと、彼女は僕の胸ぐらを掴んだ。
「なんで学校に来ぇへん? 」
「……僕なんかいなくたって、誰も気にしないよ」
「私が気にしとるわ。ボケッ」
そういうと、咲夜は僕の耳を引っ張った。
「ええか、耳の穴かっぽじってよく聞け。あんたがここにおっても、そこにおっても、あの辺におっても、繋がることができるんや」
「あの辺ってどの辺だよ……」
「そういうツッコミは要らへんねん。つまり、あんたのことが好きやって話をしてんねん」
「………えっ?」
咲夜は顔を真っ赤に染めて、恥ずかしさを紛らわすように大きな声でがなり立てた。
「彼女になったる……だから、部屋から出て来い。そういう話や」
「あ……はい? えっ、どういう話?」
「まどろっこしいな自分。ええから、こっちへ来い」
全然意味が分からなかった。
だが、力いっぱい外の世界に引っ張り出されて陽の光を浴びたら、つまらないことで悩んでいたことに気が付かされた──
咲夜のおかげで、僕は少しずつ前に進むことができるようになった。
彼女の存在が、僕にとってどれほど大きなものだったかを、今になって痛感している。
だから、GoBで咲夜に再び出会えたことが嬉しくてたまらなかった。確かに世界のどこにいても繋がることができるんだと。
でも、それと同時に振られた理由が遠距離恋愛になったからという理由で、その矛盾した態度が納得のいかない自分もいる。
今まで封印されていたトラウマの蓋がカタンと外れ、溢れ出してきた。
そんな事を考えていたら、フレンドリストの「Blooming Night」がオンラインに変わった。
数分もしない内にメインフロアに咲夜がやってきた。
「鬼軍曹、いつ寝てるん? いつ来てもおるやん」
「いや、たまたまだよ」
何となく、後ろめたくなって嘘をついてしまった。
咲夜のアバターは女性ではなく、男性で褐色の肌に筋肉ムキムキのキャラクターなので、声のギャップが凄い。
「ぷっはっはっ。キャラと声があってないよ」
「アホか。この上腕二頭筋がええねん。なんで、わからんかな。ギャップ萌え~やろ、普通」
こんなやり取りをしていると昔に戻ったみたいだ。
「……なあ、鬼軍曹、この前は悪かったな」
口ひげを生やした濃い顔の外国人がかわいらしい声で謝る様に呆気に取られて、何の話をしているのか分からなかった。
「この前って、いつの話?」
「その春先に電話したやろ。……あれ、な」
その会話で引っ越し当日に咲夜とした電話の内容がフラッシュバックする。咲夜からの意味不明な電話と沈黙。
そして、あの日、雫を連れて初めてアパート横の小さな公園に行った事を思い出した。
雫と最後に話したのはいつだったか。
GoBに夢中になってアプリを一週間も起動していない。急に焦燥感が全身を包み始めた。
「……あんな、鬼軍曹……いや、亮、私な……」
「ご、ごめん、咲夜。用事があることを思い出した。ログアウトする」
「えっ、ちょ、待って! 」
「……どうしたの? 」
「明日も会える? 」
考える意味のないことが頭の中を巡り、はじめから分かっていたことを口にした。
「……ごめん、分からない」
「なあ、それって……」
咲夜の声がしぼんで小さくなっていくように感じた。
「うん? 」
「なんでもない。そっか、またな」
「ああ、またね」
僕はログアウトして、自分のスマホを手に取った。
すぐにアプリを起動する。
アプリの起動画面が中々切り替わらず、画面を指先でタンタンタンと落ち着きなく叩いてしまう。
暫くするとカメラが起動し、室内を投影し始めた。
リビングには雫はいなかった。玄関、ユニットバスも見て回ったが見当たらない。スマホを持つ自分の手が湿っていることに気がついた。
そうだ、まだロフトを見ていない。慌てて、ロフトの梯子を登ると、足を滑らせて下まで転落してしまい、スマホもガタンとフローリングの上に落としてしまった。
「くそ、痛てて……」
今度はスマホをポケットに入れて慎重に梯子を登る。梯子から最上段付近でスマホを取り出す。
頼む、ここにいてくれ。
祈るような気持ちでロフトにカメラを向けると、スースーと寝息を立てながら眠る雫の姿があった。
さらさらの黒髪と均整のとれた目鼻立ち。肩出しのトップスに七分丈のジーンズを履いていた。
「良かった……寝ているだけだ」
一瞬、愛想が尽きて居なくなってしまったのかと思った。雫の寝顔を見ていたら、無性に話がしたくなった。
やっぱり、ちゃんと話そう。このままじゃ、だめだ。
仰向けになっている雫の顔の目の前に、江ノ電の映像が流れているのが見えた。
思わず、苦笑いしてしまった。
僕は雫が起きるのを待つことにした。ロフトに上がって、雫のいるあたりをスマホで映す。
雫が起きたらなんて声をかけようか。
そんな事を考えているうちに僕は眠ってしまったらしい。目を覚ますと部屋は真っ暗になっていた。
流石に雫も起きただろうと思い、スマホを見たが暗くてよく見えなかった。
仕方なく、ロフトを降りて明かりをつける。でも、雫の姿はない。ロフトに戻って、スマホをかざすとまだ雫は眠っていた。
ループ設定しているのか江ノ電の映像は止まることなく再生し続けていた。
……止めた形跡がない? そもそも、雫はいつから眠っているのか?
そうだ、江ノ電の映像の上に再生時間が載っていたような。
雫の頭上にある再生画面は横から覗き込むと潰れた平行四辺形にしか見えず、時間がよく分からない。
雫の顔を上から見下ろすようにスマホを構えると、映像がしっかりと確認できた。
もっとも、反対側から映像を見ているから鏡文字になっていて読みづらい。
「えっと、6……2…1…345? 」
62時間13分45秒……二日半も再生されっぱなしになっている。
「雫、起きて!」
大きな声を上げたり、音楽をかけたり、意味もなくスマホを振ってみたり、できることを色々と試したが起きる気配がない。
どうする、どうしたら起きる?
「桔梗さん、いたら返事をしてください。桔梗さん! 」
桔梗さんの連絡先を知らないから、叫ぶくらいしかできる事はない。僕の声が虚しく部屋の中で反響しただけだった。
何か、方法はないか?
考えろ、考えろ。
「……あっ、手紙」
僕はロフトを降りて、いつも使っているリュックを漁る。あれから、ずっと入れっぱなしになっていた筈だ。
高瀬と名前が書かれた封筒を取り出す。これだ。
中の手紙には雫が僕と一緒に暮らしていることは知っていること、人間とARIAではうまく付き合っていくことが大変であること。
最後に困ったら連絡して欲しいという文章がしたためられている。確か、手紙の一番下に携帯の電話番号が書いてあったはずだ。
「えっと、080の……」
電話番号をタップする指が震えていた。
トゥルルル、トゥルルル。
早く繋がれ。リングバックトーンが煩わしい。
「もしもし、高瀬です──」




