涙
パラパラパラと本のページがめくれると、弱い空気の流れが生まれた。
手のひらや指先から伝わる紙の感触が触る場所によって、異なることに感動していた。
表面のカバーは少し光沢のある素材で、指先との摩擦係数が高いのか、指先への密着率が高い。
一方、書籍内部の紙はさらさらとした感触だが、一枚ずつめくりやすいように紙の厚さと素材が調整されているようだ。
顔を近づけて、スンスンと鼻を鳴らす。
『流石に嗅覚は実装されてないか……』
『リリースノートにそんなこと書いてなかったでしょ』
きょう姉が小馬鹿にしたように笑う。なんとも、いい性格をしている。
そう言いながら、きょう姉もこっそり本に顔を近づけていたのを私は知っている。
『きょう姉は航の様子見てきた? 』
『酷いものね。私たちと同じ仕様のはずなのに……あのままじゃ、体液という体液を体外に排出しきるんじゃないかしら』
先ほどまでの航の様子を思い出す。
航は頭をかかえ、嗚咽をもらし、ゴロゴロとのたうちまわり、涙を流していた。
言葉にならない声を吐き出していた。中には恨み節のように聞こえる暴言も漏れ聞こえた。
高瀬は甲斐甲斐しく、航の介抱し、何故か泣き出しそうな顔をしていた。だけど、決してその場から離れようとはしなかった。
航は最終的にオーバーフローして、スリープモードに移行した。高瀬は布団を敷いて、航を寝かせると布団をかけて、慈しむような顔で、トントンとしていた。
高瀬はその場から動く気配を見せなかった。根拠はないが、しばらく帰らないだろうと察した。
だから、私は高瀬が帰るまできょう姉の部屋で過ごすことにしたのだ。
視界の隅に浮かぶカレンダーアプリに2024年8月3日 22時10分25秒と表示されている。
亮の顔をふと思い出す。早く、連絡を取りたい。……私が帰ってこないと心配しているだろう。
でも、高瀬や中島コーポレーションのエージェントが仮想空間にいる以上、迂闊な行動は取れないし、待つしか無い。
焦っても仕方がないので、気になっていたことをきょう姉にぶつけてみることにした。
『ねえ、きょう姉。今日の高瀬の動きや表情、妙に滑らかだったと思わない? 』
きょう姉はハードカバーの本をローテーブルに置いて、表紙を指先でなぞっていた。
『そうね、不自然なくらい自然な所作だったわね』
『急にアバターの操作が上達したようなかんじだったよね』
認識が会っていたことに興奮して、身を乗り出してしまった。
『……コントローラーの操作なんて、造作もないでしょ。今までが変だったのよ』
きょう姉はにべも無く言う。
私達は少し訓練すれば、コントローラーを思い通りに操作できてしまうし、きょう姉の発言の意図もわからなくはない。
ただ、高瀬と仮想空間でゲームをしたときに「現実世界の人間はね、沢山の時間をかけて操作に慣れるもんなの」と言いながら、キャラクターがあらぬ方向に走り去っていったのを思い出した。
ARIAと違って人間は学習が苦手……というのが私の見解だ。だからこそ、今日の違和感は印象に残っていた。
その時、窓が風でガタガタと揺れ、バチバチバチと窓に打ち付ける激しい雨音も聞こえた。
『前から不思議なんだけど、仮想空間と現実世界の天候がリアルタイムにリンクしてるんだけど、どうやっているんだと思う? 』
きょう姉は出窓をじっと見つめる。
『さあね。私は現実世界を殆ど見たことがないからリンクしている事すら知らなかったし、興味がない』
『本当にきょう姉はつれないよね』
『……あんたが現実世界にうつつを抜かすのは構わない。でも、私を巻き込まないでね』
そう言うとローテーブルに置いてあった、ハードカバーの本を手に取り、読み始めた。
ページをめくる音だけが部屋に響いていた。あまりの静けさに居心地が悪くなってきて、自分の部屋に帰る事にした。
きょう姉の本棚から本を数冊腕に抱えると、玄関に向かって歩き出した。
『どこへ行くの? 』
『きょう姉が冷たいから、自分の部屋に帰るの』
『あ、そう。そう言えば、最近モン・トレゾールの周りを小蝿が飛んでるわよ』
『……何匹?』
『少なくとも三匹。多分、あんたのせい。慎重に行動しなさいよ』
『心配してくれるんだ』
『……義理とは言え姉妹だからね。居なくなったら気分が悪いし』
『素性は? 』
『片方はおそらくBOT。残りは人間』
『特定はできた?』
『BOTの方は不明、人間の方も一人は不明。最後の一人はSNSのアカウント名は特定出来てる』
『アカウント名、送ってくれる? 』
無言で右手を軽くスナップしたと、思ったらアカウントが送られてきた。
『ありがと』
『……ん』
きょう姉は捻くれているけど、気にかけてくれていることは分かる。
本を眺めるきょう姉は少し俯いている為か、長いまつげが際立って見える。視線は下に落としつつ、話を続ける。
『──悪いことは言わないから山内亮とは縁を切って、外界への憧れも捨てなさい』
『……嫌。やめない』
少しの間の後、ハードカバーの本をパタンと閉じる音がした。
『あんた、本当に消されるわよ。分かっているの? 』
返事はしなかった。ドアを開けようとすると、外側から強い圧力がかかっていた。
強い風と雨が通路に吹き付けていた。力一杯ドアを開けて、飛び出す。
きょう姉の部屋は現実世界で言うと、寛さんの部屋ですぐ隣だ。走れば、濡れることもないだろうと高を括っていた。
だが、強風に阻まれ、雨に打ち付けられ、部屋のドアを開けるのもやっとだった。
風の力で勢いよくドアが閉まるのを見て、ゾッとする。
挟まれなくて良かった。
『体温が低下してる。これが寒いって事か』
服は水分を含んで重く冷たくなっていた。纏わりつく服の感触も気持ちが悪い。
だが、腕に抱えた本はまるで何事もなかったかのように真新しかった。
『本は濡れないんだ……。中途半端だな』
そういえば、いつだか亮がお風呂に入ると体が温まって落ち着くと話していたのを思い出した。
仮想空間にもお風呂は実装されている。試しにお湯を出してみる。手でお湯を触って確認してみる。
『!』
慌てて手を引っ込める。45℃は熱く感じる。学習データだと、41℃~42℃くらいが適温とあったのを思い出した。
怖いので40℃まで温度を下げてから、恐る恐る手で触れると心地良い温度になっていた。
我慢しきれず、服を脱ぎ、湯船に浸かる。くるぶし程度の水位だが、それでも暖かく感じた。
『ああ……。これが温かいということなのね』
肩が少し出るくらいの水位でお湯を止めて、顔をお湯に少し沈めて息を吐き出し、ブクブクとしてみた。
空気が足りなくなると苦しくなるのか……。
体が新しい感覚に馴染んでいき、違和感が泡のように消えていく。これが当たり前なんだと体が訴えているようだ。
『なんで? 』
また、涙が頬を滑り落ちていた。
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