第五十一話
人間の本来持っている幸福の量と不幸の量は同じだという話をどこかで聞いたことがある。
嬉しいことがあった後には辛いことがあって、そしてまたその後に嬉しいことが待っている。
その繰り返し。
今日は嬉しいことがたくさん起こりすぎた。
だから、きっとこれはその裏返しで。
嬉しいと思った大きさの分だけ、辛いことが起きた。
ただそれだけのことなのかもしれない。
突然胸に痛みを感じた。
ナイフの切っ先が服を通して体に少しだけめり込んでいた。
少しでも力を入れられれば、そのまますんなり貫通してしまうだろう。
体の力が抜ける。
私はここで死ぬんだ。
そんな確信が、いおりの心にポツリと浮かんだ。
これはきっと罰なんだろう。
自分は生きている意味がないって、いつ死んでもいいんだって、ずっとそう思っていたんだから。
いつの間にか、涙が溢れていた。
怖いからじゃない。
恐ろしいからじゃない。
痛いからじゃない。
やっと出来た友達に、もう会えなくなる。
そう思うと、涙が止まらなかった。
話したいことがたくさんあった。
聞きたいこともたくさんあった。
一緒にしてみたいこともたくさんあった。
こんなときになってようやく、自分の中にこんなにも多くの願いがあることをいおりは知った。
そして、気付く。
ああ、そうか。
私は死にたくない。
死にたくないんだ……。
しぼんでしまっていた心に、小さく残っていた灯。
小さいのに、あったかくて、眩しくて、優しい気持ちにしてくれる。
その灯が、どんどん大きくなっていく。
沸々と煮えたぎるマグマのような感情の奔流が心臓からあふれ出して体中に染みわたっていく。
生きていてほしい。そう言ってくれた人がいる。
生きていていいんだって、命をかけて教えてくれた人がいる。
私なんかを、友達だって言ってくれた人がいる。
駄目だ。
約束したんだから。
死ねない。
死ぬわけにはいかない。
そう思った時には、体が動いていた。
胸に突きつけられていたナイフを受け流すように体を横にすると、すぐ近くにあった男の顔に頭を打ち付ける。
こめかみに当たってよろけた隙をついてベッドから転がり落ちて、芋虫みたいに床をはいつくばって出口を目指す。
なんとかドアまで辿り着くが、体勢を立て直した男に髪の毛を掴まれて顔を持ち上げられる。
髪の毛がぶちぶちと嫌な音を立てるのすら構わずに、一心不乱に体を暴れさせた。
壁際に追い込まれる。
立ち上がれない。
ドアノブが果てしなく遠い。
頭をドアに打ち付ける。
額から血が出て床にぼたぼたと零れた。
それでも、痛みすら忘れて、何度も、何度も打ち付ける。
諦めない。
諦めちゃいけない。
そんなことは許されない。
自分が死んだら、悲しむ人がいる。悲しんでくれる人がいる。
だから死ぬわけにはいかない。
説得力なんてないかもしれない。
ずっとずっと、死んでもいいって、そう思っていたんだから。
今更何を言っているんだって、そう思っている自分もいる。
でも、それでも生きたいと思った。
生きたいって思ってもいいんだって、そう教えてもらった。
だから……。
男の手がいおりの首を掴み、締め付けてくる。
激しく抵抗したからだろう。
男の顔には怒りが滲み、余裕がなくなっているのがわかった。
ナイフを振りかぶる。
避けられない。
咄嗟に目を閉じた、その時だった。




