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第五十話

 タクシーを先に降りたのは玲奈だった。


 片手をあげて帰っていく玲奈の背中を見て、急に寂しいという気持ちがこみ上げてくる。


 自分がこんなにも欲張りな人間だったなんて思ってもみなかった。

 だから何も言わずに手を振るだけで答えた。

 そんな気持ちが、玲奈に伝わらないように。


 前を向こうとして、コンコンと何かを叩く音が聞こえた。

 見れば、窓越しに玲奈が覗き込んでいる。

 何か忘れものでもしたのかと思って不思議に思っていると、頭の後ろをガシガシとかいてから、


「またね」


 と、そう言って走って行ってしまった。

 それだけで寂しさが消えてしまうのだから、自分は随分と単純な人間なんだと思った。


 それから少しもしないうちに、タクシーはいおりのマンションに到着した。


 清算して短くお礼を言ってから、自分の部屋を目指す。


 今日一日で、いおりを取り巻く世界はがらっと色を変えていた。

 色あせて見えていたはずの階段も、場所によって汚れていたり、虫がせっせと歩いていたり、ところどころ直した痕があったりと、色々な表情を見せてくれる。


 理由はもちろんわかっていた。

 でもそれを口に出したりはしない。

 出してしまったら、なくなってしまうような気がしたから。


 今は、せめて今日一日くらいは、胸の内で高ぶったままのこの気持ちを、じっくりと堪能していたい。

 寝られなくなっても構わない。

 何度も何度も思い返して、顔はにやけてしまうかもしれないけど、誰もいないいおりの家でそれを咎める人がいるわけもない。

 気持ちが浮ついてしまうのを止めることはできなかった。


 だから、気づかなかったのかもしれない。


 鞄から鍵を取り出して、鍵穴に差し込む。

 左に回すと、それほど新しくもないそれは金属のこすれる音を抑えようともせず、ギギギと嫌な音を立てた。


 ドアノブを回して、扉を開く。


 だが、いおりが思っている以上に、扉は勢いよく開いた。


「え?」


 何が起きているのかわからないまま、でも確かに何かに背中を強く押されて、いおりは家の中に付き飛ばされる。


 振り返ろうとする前に体に何かが覆いかぶさってきて、身動きが取れなくなった。

 そして口に何かを詰め込まれる。


 どっどっどっ、と心臓が高鳴り、呼吸が荒くなる。


 逃げなきゃ。 


 心よりも早く身体が反応した。


 だが、じたばたともがいても、いおりよりもずっと重いものに抑え込まれて身動きが取れない。

 大声を出そうとしても、恐くてかすれた声しか出て行かなかった。


 扉が閉まる音が聞こえて、ガチャリと鍵がかけられる。


 一瞬の静寂の後。


 知らない男の声が耳元で聞こえて、いおりは全身が凍り付いたかのように動けなくなった。


 一週間ほど前から誰かにじっと見られているような気はしていた。

 このあたりに不審者が出没しているという話をお隣さんから聞いてはいたけど、きっと気のせいだと自分を無理やり納得させて、でも警戒は怠らないようにして、家に入るときには細心の注意を払うようにしていたのに。


 でも、今日は嬉しいことがあった。

 いおりにとって、これまで生きてきた中で一番、泣きたくなるほどに、嬉しいことがあった。


 だから気が緩んでいた。

 灰色だった世界が突然ぱっと色づいたように、何もかもが新鮮に見えて。

 色んなものが見え始めたから、見落としてしまったのかもしれない。


 無理やり立たされて、部屋へと連れていかれる。

 男はいおりが生活している部屋すらも把握しているようだった。

 ずっと見られているように感じていたのは気のせいなんかじゃなかった。

 でも今更そんなことに気付いたところで意味なんてない。


 抵抗しようとしてじたばたともがくと、突然お腹を殴られた。

 その純粋な暴力に、一瞬にして体は怯え切ってしまう。

 ガタガタと震えるだけで、抵抗しようなんて気はすぐになくなってしまう。

 恐怖が全身をあっという間に支配していった。


 そんないおりの様子を見て満足げに笑うと、男はいおりの手足を縛ってベッドに放り投げる。


 懐から短いナイフを取り出すと、鞘をその場に投げ捨てた。

 薄暗い部屋の中でも鈍く光るそれを見て背筋が凍る。


「……っ……っ」


 声が出ない。

 体も言うことを聞いてくれない。

 心臓だけがうるさく脈動していた。


 怯えるいおりの様子をじろじろと眺めながら、男がすぐ傍までやってくる。


 それを、ただ見ていることしかできない。

 手も足も縛られている。

 声も出すことができない。

 どうにかしなきゃいけないとわかっているのに、それを考える肝心の頭も真っ白になってしまっている。

 あれだけ高ぶっていた心は、冷や水をかけられたかのように小さくしぼんでしまっていた。

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