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第四十五話

 屋上へ続く扉を開けると、肌寒い風が恵太の体を撫で付けていく。

 ほとんど一日前のことだというのに、ついさっきも同じ風に当てられていたような気がする。


 そんなことを思いながら、夜に変わる前の空を見上げる。

 以前玲奈と見た茜色と夕闇とが溶け合う景色も中々に幻想的だったが、はっきり境目がわかる空も綺麗だと思った。


 でも、そんな綺麗な景色の中に寂しさも感じてしまうのは、一日の終わりをはっきりと意識してしまうからかもしれない。

 明日が来てしまえば、今日という一日は忘れ去られてしまう。

 今日あったことも、明日になればもう昨日の出来事になっていて、明後日にもなればもう過去のことになる。

 だからこそ、一日の終わりを実感してしまうこの時間が物悲しいと思ってしまうのだろう。


 風が一際冷たくなり、夕焼けもその姿を山の裾に徐々に隠していく。


 このまま無事に一日が終わってくれればいい。

 そう願わずにはいられなかった。

 でも、そうなってはくれない。


 髪を緩やかな風に遊ばせながら、いおりは沈んでいく夕日を以前と全く同じように、屋上の縁に立って眺めていた。

 恵太の存在に気付いても、いおりは振り返ることもせずにただじっと空を眺め続けている。


 声をかければ届く距離まで近づいてから立ち止まる。

 そうしてようやく、いおりは口を開いた。


「これを書いたのはあなた?」


 いおりが手にしていたのは一枚の紙切れ。

 そこにはたった一行、『助けてやるから屋上に来い』とだけ書いてある。

 念のため保健室に残しておいたいおりに向けての置手紙だった。


「ああ、そうだ」


 隠す意味もないので正直に答えた。

 少しだけ間をおいてから、いおりはゆっくりと言葉を紡ぐ。


「さっき、櫻坂さん達と話した。もう何もしないって。それと、ごめんなさいって。あれもあなたの仕業なの?」


「ああ」


「私はあなたのことをよく知らない。それなのに、どうして助けてくれるの?」


 薄っぺらな言葉を言うつもりも、回りくどいことを言うつもりも、もうなかった。


「俺が助けたいと思ったからだ」


「そう」


 恵太の言葉を聞いたいおりは、ただ頷くだけだった。

 そして、風に遊ばれる髪を手で押さえながら恵太の方を振り向く。

 その顔には寂し気な微笑が浮かんでいた。


「ありがとう。助けようとしてくれて」


「俺は大したことはしてない」


「そんなことない」


 首を振って、いおりは再び星空を見上げた。


「私はずっと一人なんだと思ってた。でも、あなたも、琴城寺さんも、そんな私を助けようとしてくれた。無口で、無表情で、不愛想な私なんかに、優しくしてくれた。それだけで救われた気分だった」


「じゃあ……」


「でも、もういいの。私には生きる意味なんてないから……なくなってしまったから」


 両親の世間体を保つためだけに生まれて、それを守るために生きてきた。

 それがいおりの生きる理由で、生きてきた理由。

 淡々と、いおりは前回聞いたのと同じ話を聞かせてくれた。

 何度聞いてもやりきれない話を……。


「でも、だからって死ぬ必要はないだろ。もしかしたら両親だっていつかお前と向き合ってくれるようになるかもしれないじゃないか」


 自分で言っておきながら、それが気休めにもならない言葉だとわかっていた。


 ずっと悩んできた。

 でも何も変わらなかった。

 変えられなかった。

 だからいおりはこうしてここにいる。

 何もかも終わらせようとしている。


 いおりが柵を掴む手に力が込められたのがわかった。


「わかったようなことを言わないで」


 冷たく震えた声。

 いつもの抑揚のない声とは違う、明らかな敵意が込められた声。


 初めて見たいおりの強い感情は、酷く悲しいものだった。


「昨日両親から手紙が来た。私宛の、初めての手紙。中には一枚の写真が入っていた。そこに写っていたのは、両親と、そして二人の間に立って満面の笑みを浮かべる女の子。顔も名前も知らないはずなのに、私にそっくりだったから一目でそれが妹だと気付いた」


 真っ赤になるほどに強く手を握り締めて、いおりは声を震わせる。


「両親は私が知らない間に生まれていた妹と一緒に幸せな家族を築いていた。見栄も、建前もない、仮面を脱いだ本当に幸せそうな家族を。ぎゅっと身を寄せ合っているその隙間に、私の入る場所なんてなかった。私はもう必要ないって、そう言われたような気がした。だって、そうでしょ?私は両親が仮面を被るために生まれて、仮面を被り続けるために生きてきたんだから。それが必要なくなったのならもう私に生きている意味なんてない。だから、私は……」


 生まれたときから両親の子供であるという事実だけが生きる理由だったいおりにとって、それ以外の生きる意味なんて考えられなかったんだろう。

 いおりには両親の言葉が全てだった。

 両親の言葉をただ真っ直ぐに信じて、守り続けてきただけなのに、たった一枚の写真で全て壊される。自分の全てを否定される。

 そこにどれだけの絶望があったのかなんて、今いおりがしようとしていることを見ればわかる。

 死にたいと思いたくなるほどに、辛くて、悲しくて、苦しくて、怖いことだったのだろう。

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