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第三十九話

 頭の後ろに柔らかい感触があった。


 固すぎず柔らかすぎずのいい塩梅。

 首から後頭部にかけて温かさがじんわりと伝わってきて妙に安心する。

 こんな枕があったなら毎晩のように熟睡できることだろう。


 そんなことを考えていると突然前髪に何かが触れた。

 頭の上から前髪にかけて何度も往復する。

 撫でられているのだと理解するのと同時に、じんわりとしみていくような温かなものが体中に広がっていくのが分かった。


 起きたくない。

 このままずっと眠っていたい。

 でも、目覚めないわけにはいかなかった。

 恵太にはやるべきことがあるから……。


 ゆっくりと目を開くと、人の顔が見えた。

 恵太が起きたことに気が付くと、屈んで顔を覗き込んでくる。

 そして優しい声音で、いつものように語り掛けてきた。


「やぁ、おはよう」


 三度目ともなれば、さすがに見ず知らずというわけにもいかず、もはや聞き馴染んだといってもいいほどに、あまねの声はすっと耳に入ってくる。


「何やってんだよ、お前は……」


「膝枕さ。頭撫で撫でサービスはオプションで別料金」


「頼んでもいないのに金をとるんじゃない」


「その割には随分と気持ちよさそうに寝ていたみたいだけどね」


「そんなわけないだろ」


 そう言いつつも、恵太はしばらく動くことができなかった。

 ひんやりしているあまねの手のひら。

 その手で撫でられる度に心の中に燻っていた不安や恐怖が薄らいでいくような気がした。


 だが当然いつまでもそんなことをしているわけにはいかないので、恵太はゆっくりと体を起こす。


「……っ」


 突然胃の中からこみあげてきたものを必死になって呑み込んだ。

 自分が死んだ瞬間が、暴風となって何度も何度も脳裏を過っては意識を搔き乱していく。

 呼吸が荒い。

 心臓が暴れる。

 目が焼けるように熱い。

 気を抜くとまたあまねの膝に倒れ込んでしまいそうだった。


 そんな恵太に、あまねは天使のような悪魔の言葉を囁いてくる。


「いいんだよ。休んだって、誰も文句なんて言わない」


 その言葉を聞いて気を失いそうになる。

 それができたらどれほど楽だろう。

 この地獄のような苦しみが終わってくれるのなら縋りついてしまいたかった。


 でも、そういうわけにはいかない。だから虚勢を張る。


「得体の知れない奴の膝でいつまでも眠っていられるか……」


 大きく息を吸って吐く。

 それをたっぷり五回繰り返した。

 その間、あまねは恵太の背中をさすってくれていた。

 そうしていると気持ちが落ち着いてきて、思考も視界も鮮明になっていった。


 最後に息を大きくついてから周囲を見渡す。

 いつもの見慣れた恵太の部屋。

 十数年生活してきた部屋は当然だが何も変わりない。

 枕元に置いてあった携帯を手に取ると、すぐに日付が表示される。

 都合三度目の同じ日付。

 それは、恵太が再び戻って来たということを示していた。


 ふぅと息を吐いて、あまねに問いかける。


「なぁ、あまね」


「言えないよ」


「まだ何も言ってないだろ」


「聞かなくてもわかるさ。ボクはキミのことならなんでも知ってるんだから」


 得意げにそう言って、あまねは恵太の隣に腰掛けると手を握ってくる。

 肩が触れる距離。なのに嫌だとは思わなかった。

 最初は警察を呼ぼうとしたほどなのに、今はどこか居心地のよさすら感じる。

 あまねがこの部屋にいることが当たり前のように感じてしまう。

 単に弱っているところに付け込まれただけかもしれないが、それでも一人でいるよりはずっとマシだった。


 そんな恵太の気持ちを知ってか知らずか、あまねはいつものように子供っぽい笑みを浮かべながら言った。


「そして、なんでも知っているからこそ、これからキミが何をするのかも知ってる」


「わかるわけないだろ。お前は俺じゃないんだから」


「まったく、疑り深いね。そこまで言うなら当ててみようか?」


 本当にわかっているとでも言いたげなあまねの物知り顔。心の中を読まれているようで胸のあたりがむず痒くなる。


 立ち上がったあまねは、いつかと同じようにクローゼットを開けて恵太の制服を取ると、何かを言いたげににやりと笑いながら恵太の方に突き出してくる。

 それがどういう意味なのかは聞かなくてもわかる。

 確かにあまねは恵太の考えていることを的確に当てていた。

 でも、それを簡単に認めてしまうのも悔しくて、しばらく口を結んでいた。


 そんな恵太を見て、勝ち誇ったような顔であまねは言う。

 

「あれ、違ったかな?音守ちゃんを助けるために、やる気になってるって思ったんだけど」


「全然違う。お前はなんにもわかってない」


 そう言って制服を受け取ると、あまねに向かって言い放つ。


「やる気になってるんじゃない。やる気満々になってるんだ」


 一つだけ恐れていたことがあった。


 それは、いおりが本当に死にたいと思っているんじゃないかということ。


 もしそうなら、どうしていいかわからなかったかもしれない。


 でも、そうじゃない。そうじゃなかった。


「俺は音守を助けられなかった。だからまたこうして戻ってきた。それはつまり、死ぬことが音守の本当の願いじゃないってことだ。そうなんだろ?」


 これまであまねは何も教えてはくれなかった。

 前回も、前々回も、そのスタンスは変わらない。


 でも、一つだけ教えてくれたことがある。

 それは、いおりを救わなければ恵太も死ぬということ。

 言い換えれば、恵太がこうして戻ってくる限り、いおりは救われていないということ。


 恵太の言葉を聞いても、当然のようにあまねは頷きも否定もしなかった。

 ただ同じ言葉を繰り返すだけ。


「音守いおりを救うこと。そうすれば、キミは死なない。ボクが教えられるのはそれだけだよ」


 でも、今はそれでよかった。それだけでよかった。

 まだ希望があるんだから。


 携帯のアラームが鳴る。その音を合図に、あまねは部屋を出ていこうとする。


「あまね」


 その背中に声をかけた。


「なんだい?もしかして、愛の告白かな?」


「違う。お前みたいな得体のしれない奴を好きになるわけないだろ」


「なんだ、残念。優しくしてあげたから、好感度爆上がりだと思ったのに」


「その言葉で色々台無しだよ」


「まぁなんにしても、今ボクがキミに言えることは一つだけさ」


 そして、あまねはもったいぶりながら、じっくりと時間をかけて、噛みしめるように、言い聞かせるように、その言葉を言った。


「明日死にますけど、どうしますか?」

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