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第三十七話

 少しの沈黙の後、いおりは言った。


「私は、望まれて生まれてきた子供じゃなかった」


 前を向いていたいおりが体を反転させて恵太を見た。

 強い風が吹いてその髪を空中にばら撒く。

 綺麗な顔が月明かりに照らし出される。

 色素の薄い白い肌が仄かに輝いて見えた。

 こんな状況だというのに、恵太はいおりの顔から目が離せない。

 こんな光景をどこかで見たことがあるような気がしていた。


「私の両親は好き合って結婚したわけじゃない。ただ世間体を気にした男女が、幸せな家族という形を周囲に見せたいという理由だけで夫婦になった。その副産物として生まれたのが私」


 いおりの顔には何の感情も浮かんでいない。

 怒りも、悲しみも、何もかもを捨ててしまったような、お面を貼り付けたような表情をしている。

 そして、聞いているこちらの方が苦しくなるような言葉を平然と口にしていく。


「あの人たちは子供がいるという事実がほしいだけだった。格好いい父親、綺麗な母親、そしてなんでも言うことを聞く子供。自分たちは誰もが羨む最高の家族だと世間に知ってほしい。そして、自分たちは誰よりも幸せなんだと周りに認められたい。ただそれだけの為に私は生かされていた。あの人たちにとって私はいてもいなくても変わらない、子供という名前の道具でしかなかった。私の生きる理由は、もう顔も覚えていない両親の自己顕示欲を満たすこと。それだけ」


「……」 


 何かを言おうとしても言葉が出ない。

 恵太にいおりが感じている気持ちなんてわかるわけがない。

 わかろうとすること自体おこがましいと思えた。


「私には生きる理由がない。だから、いつ死んでもいいと思っていた。遅かれ早かれ、こうするつもりだった」


「じゃあなんで今なんだ。どうして今じゃなきゃ駄目なんだよ。もしかしたら、この先にお前の生きる意味を見つける事だって出来るかもしれないじゃないか」


 自分で言っておきながらなんて中身のない言葉だろうと笑いたくなる。

 自分自身に問いただしたとしても答えなんて返ってこないくせに。

 恵太自身が、これから先を生きる意味なんて見出せていないくせに……。

 いおりを止められる言葉なんて、これまでただ自堕落に、無気力に、流されるまま生きてきた恵太が持っているはずがなかった。


「どうして、私を助けようとしてくれるの?」


 恵太の言葉には答えず、質問をかぶせてくる。


「私は、あなたのことを何も知らない。話しかけたことも、話しかけられたこともない。それなのに、どうして助けようとしてくれるの?どうして……そんなに必死な顔で、引き留めようとしてくれるの?」


 いおりは不思議そうな顔をしながら質問を重ねていく。


 恵太は知っている。

 無口だけど無視はしなくて、素っ気ないくせに義理堅くて、いつも無表情なのに笑顔が可愛くて……。

 たった一日の付き合いでしかなかったけれど、それでも、何も知らなかった昨日よりもずっと、音守いおりという女の子のことを恵太は知っている。


 いじめから助けようとしたのだって、あまねに言われたからだけじゃない。

 いおりを救わなければ自分が死ぬからという理由だけじゃない。

 きっかけはそうだったかもしれない。

 でも、音守いおりという人間を知って、友達になって、心の底から助けたいと思ったから、恵太は今ここにいる。

 今こんなにも必死になっているのは、単純にいおりに死んでほしくないと思っているから……。


「俺は、お前と友達だったんだ」


 言葉がポツリと零れた。無意識の内に出た言葉。

 伝わりはしない。

 今のいおりは恵太のことを何も知らない。

 それは恵太の記憶の中にしかないことで、いおりは知る由もないこと。


 わかっているのに、一度言葉が出ていくと次から次へと止まらなくなった。


「鞄をぶつけて怪我させて、お詫びをしようとしても聞く耳も持ってくれなくて。そのあとトラックに轢かれそうになったところを助けて仲良くなって。怪我の手当てをしてくれて寿司も御馳走してくれて……。その時に、お前は俺のことを友達だって言ってくれたんだ。それで、別れ際にまた明日って、言ってくれたんだ」


「……」


「それが、嬉しかった。なんでかわからないけど、凄く、嬉しかったんだよ」


 今思えば、全部夢だったんじゃないかというほど現実味のない話だった。

 実際、そんな世界はもうどこにもありはしない。

 でも、なくなりはしても、残っている。

 恵太の心の中に、いおりの不器用に笑う姿が焼き付いている。


 いおりはただ静かに恵太の言葉に耳を傾けていた。

 頷くわけでも、首を振るわけでもなく、ただただ、聞いていた。

 そして、全てを聞き終えると、ポツリと呟くように言う。


「その時の私は、笑っていた?」


 いおりはじっと、恵太の答えを待っている。だから、正直に答えた。


「ああ、笑ってたよ」


「そう」


 そして、いおりは空を見上げた。

 まだ少しだけ明るい夜の空に、星が点々と光を放ち始めている。


「いつ笑ったのかも、もう思い出せない。だから、あなたの前で笑っていた私は、きっと幸せだったんだと思う。きっと、救われていたんだと思う」


 それならなぜいおりは自ら命を絶ったんだろう。

 救われていたというのなら、どうして死を選ばなければならなかったんだろう。


 空から視線を移し、いおりは恵太を見つめた。


「ひとつ、お願いしてもいい?」


「なんだ?」


「私を助けてほしい」


 言っている意味が分からずいおりを見つめる。


「背中を押して。そうすれば、私は救われるから」


 一瞬いおりが何を言っているのか理解できなかった。


 今この場でいおりの背中を押す。

 それはつまり、恵太に殺してくれといっているのと同じだ。


「何、言ってんだよ」


「自分で飛び降りるのはやっぱり怖い。だから、もしあなたが私を本当に助けたいって思ってくれているのなら、背中を押して、勇気付けて。私を、私の生きる意味の無いこの世界から救い出して」


 あまねはいおりを救えと言った。

 それは、こういうことだったのか?


 だとしたら馬鹿げている。

 そんなもの救いでもなんでもない。

 たとえいおりがそれを本気で望んでいたとしても、そんなこと恵太に出来るわけがない。


 ガシャ、と柵が揺れる音がした。


 はっとして顔を上げると、いおりはその手を柵から離していた。


 風が吹く。


 いおりの髪が揺れていた。


 その一本一本が月明かりに照らされて、まるできらきらと輝いているように見えた。


 いおりが何かを口にする。何を言っているのかは聞き取れない。


 近付く。


 近付いた分だけ、いおりは恵太から離れて行く。


 そして、瞬きをした一瞬のうちに、いおりの姿はもうどこにも見当たらなくなっていた。


「おと、もり……?」


 その呟きは誰に届くこともなく、夜の闇の中に吸い込まれていった。

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