第十八話
顔の上まで被っている布団に手をかけ、恐る恐るめくっていく。
それを確認してすぐ、恵太は立っていられなくなってその場にくずおれた。
その現実を処理しきれずに、頭が殴られたようにがんがんと痛み出す。
理解が追いつかない。
だが目の前の現実は、あまりにも無慈悲に恵太の前に転がっていた。
冷たい。いおりの体は冷たかった。
体が冷えていたからとか、そんな体温ではない。
氷のように冷たくなっていたのだ。
床に手をつくと、ぺちゃりと粘着性のある音が聞こえた。
見ると、手のひらに赤黒い液体がべったりとこびりついている。
「なんだよ、これ……」
震える足をどうにか動かして体を起こすと、いおりを覆っている布団を取り除く。
そうして、赤黒いものが何なのか理解した。
いおりの手に握られたもの。
ナイフの鋭い刃先は自らの胸に深く突き刺さっており、そこから広がるようにしてベッドを濡らしていた。
「なんで……?」
ふと、いおりの顔のすぐそばに一枚の写真が置いてあるのに気付いた。
幸せそうな笑顔を浮かべる両親の間で、満面の笑みを浮かべている女の子の姿がある。
三人は仲睦まじそうにぎゅっと肩を寄せ合っていて、とても幸せそうに見えた。
その写真を手に取ろうとしたその時、恵太の後ろで物音がした。
振り返ると誰かが立っていた。
三十代半ばほどのエプロン姿の主婦。その姿に、恵太は見覚えがあった。
昨晩いおりの家に入る時に見かけた隣の家の奥さんだ。
いおりとも楽しそうに話していたのでそれなりに親しい間柄なのだろうと思っていた。
恵太に対してもにこにこと話しかけてきてくれたのでよく覚えている。
だが、今の恵太を見るその目は驚愕に見開かれ、怯えきった表情をしていた。
「それ、何……?いおりちゃん、どうしちゃったの……?」
「これは、俺が来た時には、もう……」
「近寄らないで!」
その敵意をむき出したような声に身がすくむ。
それ以上言葉を続けることができなかった。
「警察を、呼ぶから。だから、そのまま何もしないで、じっとしていて。いいわね?」
刺激しないように、安心させるかのような言葉を言って、逃げるように部屋を出て行く。
「なんだ。なんだよ。どうしてだ。なんで。なんでこんな……」
何もわからなかった。
何も考えられなかった。
何かに心を握りつぶされそうになって、床にうずくまる。
息が苦しい。
吐き気が収まらない。
眩暈がする。
頭が割れるように痛い。
何かに押しつぶされる――。
気づいた時には、恵太は逃げ出すように部屋を飛び出していた。
マンションの階段を飛び降りるように駆け下り、道を阻む人々を無理やり手でどかして無様に走る。
サイレンの音がどこか遠くから聞こえ、見知らぬ誰かが怒声を上げながら恵太を追いかけてきていた。
逃げてはいけなかった。
あの場に残って、何があったのかちゃんと説明するべきだった。
でも、頭ではわかっているのに、体はまるで言うことを聞いてくれなかった。
まるで何かに操られているように、恵太の足は止まってくれない。
近くで冷たくなっているいおりの存在がただただ恐ろしかった。
すぐ近くにある明確な『死』を意識するのが怖かった。
目の前の現実を受け入れられるほど、恵太の心は強くなかった。
何より、また明日といって笑っていたはずのいおりの顔が、何も感じていないただの人形のようになっていたのが怖くて怖くてたまらなかった。見ていられなかった。
右も左もわからず、ただがむしゃらに走って道路に飛び出た瞬間、恵太の体は何かに吹き飛ばされる。
一瞬の衝撃の後、世界が二転三転し、地面に勢いよく叩きつけられる。
不思議と痛みは感じない。
だが、体を動かそうとしてもまるで自分の体じゃないかのように指一本動かせない。
自分の中から何かが流れ出て行くような感覚と、どうしようもないくらいの息苦しさだけがある。
コヒュー、コヒューと穴の開いたボールに息を吹き込んでいるような音が定期的に聞こえ、それが恵太の胸から出ていることに気付くまでに時間はかからなかった。
瞼が重い。
ただただ寒かった。
体の感覚はないのに、震えているような気がする。
突然電気が消えたように目の前が真っ暗になった。
水の中に入ったときのように何も聞こえなくなる。
心臓の鼓動も、徐々にその感覚を長くしていく。
そしてようやく、恵太は自分が死に向かっていることに気付いた。
でも、気づいた時にはもう全てが遅い。
絶対になくしてはいけないものが、手のひらの上から零れ落ちていく。
それを拾おうとして手を伸ばそうとしても、届くどころか恵太の身体は動いてもいない。
それでも精一杯伸ばして掴み取ろうとする。
なくしてしまえばもう二度と手に入れることのできないそれに、必死になって手を伸ばす。
でも、それは何の前触れもなく、何の突拍子もなく、唐突に、恵太の前から姿を消してしまった。
恵太には、もう何もない。
全て、なくなってしまった。
―――明日死にますけど、どうしますか?
聞こえなくなったはずの耳に、誰かの声が聞こえた気がした。
それに答える前に、恵太の意識はテレビを消した時のようにぷつんと消えてなくなる。
後にはもう、何も残らなかった。




