第十六話
夕食を食べ終えた頃には、時刻は九時を回っていた。
玄関で靴を履き替えて扉を開けると冷たい風が吹き込んでくる。
季節は春なのにまだ夜の風は少し冷たい。
だが、食べ過ぎて気分が悪い今はそれが心地よかった。
「それじゃ」
振り返って手を上げると、玄関まで見送りに来ていたいおりが手を上げて答える。
そのまま外に出ようとしたのだが、
「待って」
と、呼び止める声が後ろから聞こえてきた。
「どうした?」
「明日は何時に行けばいい?」
「行けばいいって、どこに」
「あなたの家。一緒に登校するって言ってたから」
その言葉にいおりが何を言いたいのかを察する。
「いや、あれは一応冗談のつもりで……」
「冗談だったの?」
無表情のまま見つめてくる。
その声には幾分かの驚きと、そして多少の困惑が含まれていた。
本気で一緒に登校しようなんて思っていなかったし、無理にしてほしいとも思っていない。
それはいおりもわかってくれたものだとばかり思っていたのだが、どうやらそれは恵太の思い込みだったらしい。
答えに窮する恵太を横目に、どこか悲しそうな声でいおりは頷く。
「そう。わかった」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
何が『わかった』のかはわからないが、少なくとも良い理解でないことだけはわかる
。恵太は焦って矢継ぎ早に言葉を紡いだ。
「八時、八時だ。八時に大通りの交差点集合にしよう」
「でも、それじゃあ最初から一緒に登校したことにならない」
「ちょっと細かすぎない?もしかして一から百までやらないと気が済まないタイプなの?」
「やっぱり冗談だったんだ」
「違う、それは断じて違うぞ音守。わかった。お前は俺の家を知らないだろうから、俺がここに来よう。それでいい……」
いおりの顔を見て言葉が止まった。
「音守さん?」
「何?」
「なんで笑ってるんですか?」
「笑ってない」
そう断言するが、微かに口角が上がっているのを恵太は見逃さなかった。
「まさかお前、全部わかってて俺をからかったのか?」
「あなたが何を言っているのかわからない」
「無表情で言えばわからないだろうとか思ってるのなら大間違いだからな。鏡でその顔見せてやろうか」
そう指摘すると、いおりは相好を崩した。
元々はぐらかす気もなかったのか、素直に謝ってくる。
「ごめんなさい」
「いや、畏まって謝る必要はないけど。でも、音守が冗談を言うなんて意外だったな」
「気を使うなって言ったのはあなた」
「まぁ、確かにそうだけど」
正直なところ、恵太はいおりのことを無表情で無口で不愛想な奴だと勝手に思い込んでいた。でもそれは思い違いだ。
不愛想なように見えても意外と感情によって表情は違っているし、話だって普通にできる。今みたいに冗談だって言う。
音守いおりはどこにでもいる普通の女の子なのだと改めて思った。
「迷惑だった?」
「いや、迷惑じゃない。でも覚えとけよ。俺は根に持つタイプだからな。この借りは必ず返す」
「うん。ちゃんと覚えておく」
「いや、音守が覚えておくことじゃないだろ」
「そうかもしれない。でも、覚えておく」
多分、こうしていおりが笑ったり、冗談を言ったりするのを知っている奴は恵太の他にはほとんどいないんじゃないだろうか。
そう思うと、なんだか誇らしい気分になっている自分がいた。
今度こそ帰ろうとすると、いおりがまた呼び止めてきた。
「明日葉くん」
「今度は何だ」
「また、明日」
「……ああ。また明日な」
そんなやり取りはまるで本当の友達のように思えて、なんだか気恥ずかしくなった恵太は振り返ることもせずに歩き出した。
マンションの階段を下りながら、今日あったことを思い返す。
考えるのは当然いおりのことだ。
夢に出てきたあまねという女はいおりを救えと言い、その言葉のとおりいおりは事故に遭いそうになった。
まさか、本当にお告げだったとでもいうのだろうか。
そんなことはあるはずがない。
常識的に考えればそのはずなのに、どうしても否定しきれない自分がいる。
あの夢がなければ、きっと恵太は何も考えることなく、あの交差点でいおりと別れていたのだから。
そして恵太がいおりを助けなければ、その後どうなったのかなんて今更考えたくもない。
いずれにせよ、恵太はいおりを救うことができた。
夢の真偽はどうであれ、恵太が心配するようなことはもうなにもない。
マンションの敷地から出て道に出ると、何となく振り返る。
すると、いおりが部屋の前の通路から顔を出しているのが見えた。
向こうも恵太に気付いたらしく、小さく手を振ってくる。
恵太も手を振り返すと、今度こそ家路についた。




