「DK・ミーツ・フェアリーガール」
ザ――――
遠くから水の流れる音が聞こえてくる。
それが段々近づいてくるのと同時に、俺の意識もはっきりしてくる。
肌に水滴が流れる感覚。そこに風があたり、ひんやりとした感覚が残る。
「——はっ!」
俺は、カッと目を見開いた。
「……空」
青く澄んだ空に、白い雲が浮かんでいる。
それは、生きていれば当たり前に見かける光景である。
そんな光景を目の当たりにしているということは……。
「俺は、助かったのか……?」
そう呟きながら、ゆっくり身体を起こす。
不思議なことに、身体に痛みや苦しさは感じない。
「ここは……?」
「おはよう‼︎」
「わっ!」
突然横から声がして、俺は身体を跳び上がらせる。
「危ない! パシッ」
パシッ、と声の主が俺の腕を掴み、よろける身体を支えてくれた。
「やった! 私、とうとう『おはよう』って伝えられた! 挨拶できたよ! やったぁ‼︎ パァァ」
そこには、金色の髪をした可愛らしい少女が座っていた。
少女はしゃがみこんで両腕で膝を囲い、腕の上に顎を乗せる形でこちらを見ている。
目はクリンとしていて、瞳はエメラルドの色をしている。
全体的に幼いという印象のある彼女は、おそらく身長150センチメートルほど。さらっとした髪は後ろでまとめられ、高めのポニーテールになっている。まるで妖精のように透き通った白い肌を持ち、うっすら緑がかった袖のないワンピースを着ていた。
「だ、誰だ!」
「おお! 私に名前を聞いてきた! 感動だなぁ……。ジーン」
「……は?」
「私の名前はセイラ! よろしくね! ババーン」
……聞きたいことがさらに増えややこしくなった頭で、俺は次に発する言葉を考える。
「……えっとだな、まず、」
「私の名前は伝えたよ! じゃあ今度はそっちの番ね! あなたの名前は? キラキラ」
止まらずに畳み掛けてくる彼女の圧に耐えかね、俺はなにか糸が切れたように喋り始めた。
「あーもう、なんなんだ一体⁉︎ お前はいったい誰だ⁉︎ なんだその喋り方は⁉︎ なんなんだこの状況は⁉︎ どうなってんだいったい⁉︎」
俺は立ち上がり、勢いに任せて彼女に伝えるべきことではないことまで口にしてしまう。
だが、あいにく今の俺はそんな冷静さを持ち合わせていなかった。
「え! 私、喋り方おかしい⁉︎ ガーン」
「それだそれ! なんだガーンって⁉︎ 新しいスタイルのぶりっ子か‼︎ 耳障りなんだよさっきから! 今色々あって忙しいんだ、とっととどっか行け‼︎」
「なにぃ⁉︎ ムッ」
目の前の少女もバッと立ち上がり、こちらを見上げ睨みつけてくる。
「命の恩人に向かって、よくそんな口が聞けるね! プンプン」
「命の、恩人……?」
「そうだよ? アブさんに驚いてあそこから落ちたあなたを、私が助けてあげたんだから! 私がいなかったらあなた、今頃死んでたんだよ? ムスー」
セイラと名乗っていた目の前の少女は、両手を腰にあて頬を膨らませた。
言われてみれば、確かに俺はあそこから落ちたはず。それなのに、肉体的なダメージはほとんど、というか全く残っていない。
「……確かに、あそこから落ちたはずなのに身体はなんともない。これは、お前のおかげだって、そう言いたいのか……?」
「そうだよ? あなたはさっき、あそこから落ちて死ぬところだった! だから私は、あなたに私の妖精エネルギーを注入してあなたの肉体を妖精のものへと作りかえたの‼︎ パパーン」
「妖精⁉︎」
「おかげで今、あなたはこうして生きている! ヘヘーン」
「待て待て待て! 妖精って……。確かにここはそういうことを言いたくなる場所かもしれないが……」
そこまで言って口が止まった。
急に、彼女の言葉が真実である可能性を考え始めたからである。
なぜなら、やはりどう考えても十メートルも落ちて無傷など、人間の常識で言えば考えられないからである。
そう、人間の常識では……。
「あ、そうか言ってなかったね! ごめんごめん! 実は私、妖精なの! あなたたちがさっき、お願いごとをしていた妖精! パパーン」
「んな……‼︎」
何言ってんだ、こいつ……?
「そうだ、忘れるところだった! 約束、ちゃんと守ってよ⁉︎ 私はこうして姿を見せた!今度は私の願い事を聞いてもらうからね! ズイッ」
「約束って……」
あの、妖精の泉の前で叫んだことのことを言っているのだろうか? 確かにあの時、周りには誰もいなかった。
それを知っているということはまさか、本当に妖精……?
……いや‼︎
「なんのことだ⁉︎ 大体、お前が本当に妖精だっていう証拠がないじゃねえか! どこかの岩陰に潜んで盗み聞きすれば、なんとでも言える!」
なんとでも言えない要素が既にたくさんあることは、俺も充分わかっていた。
しかしそれでも、俺としても確信が欲しかったのだ。
「またそういう言い方する〜‼︎ 私、ずっとあなたたちの正面にいたもん‼︎ 妖精の証拠っていうなら、またあなたから認識されなくなってみせるよ! プンプン」
そう言った次の瞬間、俺の目の前から少女の姿が消えた。
「なっ!」
俺は周囲を見渡すが、どこにも少女の姿はない。
「本当に、消えた……⁉︎」
にわかには信じがたいが、確かに彼女は目の前で姿を消した。
「どこだ、どこに消えた⁉︎」
俺は必死で周囲を見回した。
「消えたんじゃないよ、あなたから認識されないようにしたの。今、あなたには私が河原に転がる石ころに見えていただけ。 ドロン」
振り返ると、そこに少女がドヤ顔をして立っていた。
「……マジか」
……確かにさっきまで誰もいなかった
信じ難いことだが、確かにこれは人間の技じゃない。
「ようやく信じてくれた? やったね、パチパチパチ!」
少女は拍手をしながら笑顔でそう言った。
「じゃあ改めて本題に入るね! 私の名前はセイラ、今は故郷を離れて旅をしているの。私、ずっと人間の生活を体験してみたかったんだよね! だからお願い、私をあなたの世界に連れて行って! ペコリ」
少女は頭を下げて、俺にお願いしてきた。
「……お願いって、なんで俺が。それに、俺の世界ってどういう……」
混乱の中、かろうじて言葉を発する。
「あなたが言ったんじゃん! 姿を見せてくれたら願い事を叶えてくれるって! 約束破るの⁉︎ ムーッ」
「ぐぬ……」
なんだか痛いところを突かれ、俺は言葉を詰まらせる。
「……それに、もうあなたは私と行動せざるを得ないんだよ。ちょっと状況が変わっちゃったからね……。エヘヘ」
「状況?」
俺が尋ねると、急に彼女の雰囲気が変わる。
彼女はそのまま目を合わせ、ゆっくりと俺に告げた。
「君、もう妖精になっちゃったから人間からは姿を認識してもらえないんだ。私と一緒に人間に戻る方法を探さないと、元の生活には戻れないと思う……」
「なっ……⁉︎」
俺は驚いたが、少女の目には偽りがない。そのことが、俺をますます混乱させた。
「おーい! お兄ちゃーん!」
「マサ〜‼︎ どこだ〜⁉︎」
突然、上の方から声が聞こえてきた。
「父さんと心美だ!」
どれくらい意識を失っていたかはわからないが、それなりに時間は立っているはず。なかなか戻らない俺を、探しにきたのだ。
「おーい‼︎ ここだぁ〜! ここにいるぞぉ〜‼︎」
その声はほとんど滝の音にかき消されてしまったが、俺の願いが通じたのか、奇跡的に二人が上から顔を覗かせた。
「やった! おーい、ここだぁ〜‼︎ ここにいる〜‼︎」
大きく腕を振って全身でアピールする。
次の瞬間、二人の顔が間違いなくこちらに向いた。
「……いないな」
「……いないね」
しかし、二人は俺に気づかず戻ってしまった。
いや、気づかないというより、完全に見えていないようだった。
「……嘘、だろ……?」
俺は、愕然とした。
「……これで納得した? 私の話。チラッ」
納得せざるを得ない。本当に、二人には俺が見えていなかったのである。
そしてそれは同時に、彼女の話が真実である証明でもある。
……つまり、俺は本当に妖精になってしまったのである。
——ヴー、ヴー。
その時、ポケットの携帯から着信を知らせるバイブレーションの音がした。
防水ということもあり、奇跡的に携帯は生きていたようだ。
表示を見ると、『心美』と表示されている。俺はすがるように電話に出た。
『あ! でた!』
「もしもし! 心美⁉︎」
『もしもーし⁉︎ もしもーし⁉︎』
「もしもし⁉︎ 心美⁉︎ 聞こえるか⁉︎」
何度も応答するが、心美にはまるで聞こえていないようだった。
これは電波が悪いからなのか、もしくは——
「無駄だよ。妖精になった以上、もう声も届かない……。ガーン」
「……くっ!」
デデロン
俺は通話を切った。
「クソッ‼︎」
俺はたまらず携帯を強く握りしめる。
「……ごめん、余計なことをしたばっかりに……。ショボン」
……俺は何か文句の言葉を発してやろうかとも思ったが、途中でそれをやめた。
結果はどうであれ、彼女は俺の命を助けてくれたのだ。その行いに、責めるべき間違いはない。
俺に彼女を責める道理はないのだ。
「……いや、いいよ」
俺は確かに、死の境で決意した。
——もし、もう一度生きることができたなら、その時こそ、自分を取り巻く問題から逃げずに向き合って生きると。確かにそう決意した。
ならばこうして生き延びた今、この問題から逃げ出すわけにはいかない。妖精になったとしても、人間としての鹿野雅紀を死なせるわけにはいかないのだ。
「……それにしても、不思議な石だね。模様が変わるし、音も出る。ホワー」
黙り込む俺を見ていた彼女が、携帯を見てそう呟いた。
それを聞いて、俺は目を見開いた。
「——そうだ! 確かに俺は着信に応答できた! 画面は俺に反応したんだ! それができるのなら……」
そう言うと、俺はすかさず携帯でチャットアプリを開いた。
横の彼女は俺が急に叫んだことに驚いていたが、俺はそれを無視して続けた。
アプリを開くと、心美からたくさんのメッセージがきていた。
『もう少し探索していく。家には自力で帰る』
俺はそう入力すると、送信のボタンをタップした。
シュポン。
送信完了の音が鳴ると、直後、心美から了解のスタンプが送られて来た。
「……メールは生きてる」
状況が大きく変わったわけではないが、ひとまずこれで家族に連絡する手段を手に入れた。
ほんのわずかではあるが、希望の光が見えたことで俺は胸を撫で下ろした。
「……どうしたの? いったい何が起きたの? キョトン」
「……最低限のコミュニケーション手段を得たってことさ。……あとは姿だな」
いくらメールができても、姿を認識して貰えないのであれば何事もなかったように振る舞うのは無理だろう。
かと言って、今の状況をメールで伝えられるだろうか? 信じてもらえるだろうか? たとえ信じて貰えたとしても、この件について建設的な意見や解決策を見出せる人間がいるとは思えない。
さらに、先ほど彼女は『一緒に人間に戻る方法を探す』と言っていた。つまり、彼女と一緒に行動していれば、そのうち人間に戻れるかもしれないということだ。
それならば、下手に大事にしてこちらが自由に動き回れなくなるのはデメリットでしかない。
——ならばやはり、誰にも伝えず、何も異変など起きていないかのように振る舞う道を探すのが賢明である。
そこまで考えて、俺は目の前の少女を見つめた。
さっきはかなり慌てていたこともあってあまり注視していなかったが、改めて見ると、彼女はとても可愛い。
さすが妖精とでも言うべきか、透き通った肌と柔らかな曲線、日に照らされ明るく輝く金色の髪、全てを真正面から受け止めるような大きな瞳、それら全てがとても美しく、俺は思わず目を奪われた。
……そうだ。確かさっき……。
「……何? ジッ」
じっと見つめてくる俺に対して、彼女が不審げな目を向けて言う。
「……なあ、お前さっき、姿を変えられるって言ってたよな? 姿を変えてる間は、普通の人間からも見えるようになったりするのか?」
「え? ……見えるよ! 姿を変えるっていうか、正確には相手からの認識を変えるっていうことなんだけど……」
見える! ならば——
「その力を使って、俺に成り代わることは可能か⁉︎」
俺は、彼女の肩をガシッと掴んで尋ねる。
「え! えっと……、できると思う。多分。オロオロ」
「ほんとか⁉︎」
俺は思わず大きな声をあげて喜ぶ。
希望が見えた。妖精の力を使ってこいつに俺のふりをしてもらえば、ひとまず鹿野雅紀の存在を保持することができる。
問題は山積みだが、今打てる最良の手は間違いなくこれだ。
俺はそう決意すると、真っ直ぐ彼女の方を見て口を開いた。
「お願いだ! お前の力を使って、俺に成り代わって生活してくれないか? 俺が言うように動いて、俺の代わりに鹿野雅紀を演じて欲しいんだ! その代わり、お前に俺の人間としての生活の全てを体験させてやれる! 頼む! この通り!」
俺は必死で頭を下げる。
「私があなたの代わり⁉︎ っていうかお願いって、またお願い増えてるじゃん! ムーッ」
「頼む!」
俺は再び頭を下げる。
「……まあいっか。私にも妖精にしちゃった責任があるしね……。それに、人間の生活が体験できるなんてすっごく嬉しいし‼︎ エヘヘー」
「ほんとか⁉︎ ありがとう‼︎」
俺は顔を上げて、ありったけの感謝を伝える。
……助かった。彼女の力は、これからの生活において大きな助けになる。
俺はホッと胸を撫で下ろす。
「——でも一つ条件がある‼︎ デデン」
セイラはボンと胸を張り、腰に拳を当てるとそう言った。
「なっ! ずるいぞ後出しで……!」
「あなたの名前、まだ教えてもらってない! 教えてくれなきゃ力貸さない! プンプン」
彼女は頬をプクーっと膨らませてそう言った。
「なんだそんなことか……。そういやそうだったな」
俺はホッと息を吐き、改めて口を開いた。
「俺の名前は鹿野雅紀。……よろしくな」
「かのまさのり、かのまさのり……。長いね! 言いづらいから、『マサ』でもいい? ムンッ」
「なっ……!」
そんなピンポイントで、俺の愛称を引き当てられるか? それは、家族とごく僅かな友達しか使わない呼び方なんだが……。
彼女は先ほどまでとはまた打って変わった、明るい笑顔でこちらを見つめている。
その視線を向けられると、なんだか嫌とは言えなくなってしまった。
……まあいいか。
「勝手にしろ……」
「やった! ワーイ」
彼女の笑顔がほとばしる。
それを見ただけで、不思議と良かったと思えてしまう。
「じゃあ改めて……、よろしくね、マサ‼︎ エヘヘ」
「……ああ。よろしく、セイラ」
そう言って俺とセイラは固い握手を交わした。
こうして俺——鹿野雅紀は、妖精として第二の人生を送ることになった。
伝説の存在であった『妖精』のセイラと、利害一致のビジネスパートナーとして二人三脚の生活を送ることになったのだ。
これが俺たちの始まり。
そしてこの日から、決して忘れることのない輝かしい一夏の日々が始まったのである。