「日常 その2」
キーンコーンカーンコーン、キーンコーンカーンコーン。
三時限目の終わりを告げるチャイムが鳴り、俺は静かにカバンから読みかけの小説を取り出した。
本は良い。休み時間という皆が自由に会話し動き回る時間に、どう過ごせばいいのか迷わずに済む。不用意に人と目が合ってしまうことも避けることができる。
たとえその姿を人に見られ、冷たい視線や蔑む視線を向けられたとしても、それにさえ気付くことなく過ごすことができるのだ。
本は、教室で生き抜くために必要不可欠なものである。
「よっ! それ何読んでんの?」
背後からの声と同時に、背中をポンと叩かれる。
振り返ると、そこには俺とほぼ同じくらいの身長——175センチメートルくらいの、優しい顔立ちをした人の良さそうな爽やかイケメンが立っていた。
運動部らしい広い肩幅と引き締まった身体、まくったワイシャツの袖からは青春の色気をプンプンさせ、いかにもモテる男、という感じだ。
「……小説」
「へえ! 鹿野、小説好きなんだ。なんてタイトルなの?」
この男の名前は陣内海斗、同じクラスの男子だ。
小さい頃から祖父の影響で剣道をやっていたらしく、真面目で義理堅く、運動もできる上に人当たりもいい。
そのため、クラスでも男女両方から慕われるハイスペックな男だ。
それ加え、休み時間に一人でだんまりモードを決めこんで明らかに近寄り難い空気を出している俺に対してさえもこうして気軽に話しかけてくるのだから、本当にいい男としか言いようがない。
嫌味の一つでも言ってやりたくなるほどだ。
「……陣内、お前最近休み時間のたびに俺に声かけてきてるけど、いいのか? こんないつも一人でいるようなクラスの変わり者を相手にしてて」
「は? 別に関係ないだろ。俺は鹿野と仲良くなれると思うし、それに鹿野だってなんだかんだ俺と話してくれるしな!」
そう言って陣内はニカッと笑う。
……まったく、嫌味を言ったこっちが恥ずかしくなる。
だが、俺はどうもこの陣内海斗のことが苦手だ。俺に話しかけてくる理由もわからないこともあってか、どこか信用出来ずにいるのだ。
「陣内の青春オーラに当てられると、俺は浄化されて死んじゃうんだ。ほっといてくれ。」
「それ、鹿野の身体は何で出来てるんだよ」
陣内はケタケタと笑いながら言う。
キーンコーンカーンコーン、キーンコーンカーンコーン。
「お、時間だ。じゃあまたな!」
「またはない」
「へへ、またな!」
そう言うと陣内は自分の席へと戻っていった。
俺も本を閉じ、カバンにしまった。
「爽やかイケメンめ……」
俺はその背中につぶやいた。
——ガチャン。
一階の昇降口付近にある自販機は、お昼休みになると多くの人が訪れる。
側には購買のパン屋があり、お腹をすかせた学生が列を作るのである。
俺は自販機からレモン味の炭酸飲料を取り出すと、パンを求める生徒達をよそに人がほとんどいない中庭へ向かい、そこのベンチに座った。
中庭——ここは風通しがよく、木が影をつくってくれるので比較的涼しい。おまけにあまり人目につかない。
俺の憩いの場である。
俺は持ってきたお弁当袋からおにぎりを取り出し、口に入れて頬張った。
お昼の時間はここで一人、風を感じながらご飯を食べる。それが俺のルーティーンである。
「……今日も良い天気だな」
俺は木々の隙間から溢れる太陽の光と、吹き抜ける風を感じながらそう言った。
周りには人がおらず、やたらと話しかけてくるクラスの人気者もいない。
やはりここは、俺のオアシスなのだ。
「……マサ、あなたこんなところで何しているの?」
突然背後から声がして、俺は振り返った。
するとそこには、身長160センチメートルくらいの黒髪ロングの女子生徒が立っていた。
着崩されることなくきっちりと身につけられた制服、真っ直ぐと対象を見つめる瞳が、彼女がとても真面目で実直な人間であることを物語っている。
「……なんだ、咲か」
彼女は神林咲。
小学校の頃から同じ学校のいわゆる幼なじみというやつで、クラスに仲の良い人もろくにいない俺にとっては、数少ない友人である。
俺のことを「マサ」と愛称で呼ぶのは、学校では彼女だけである。
「一体何の用だ? 見ての通り、俺は今忙しい」
「教室から逃げて一人で寂しくご飯を食べている様にしか見えないのだけれど、一体どこが忙しいのかしら?」
「刻一刻と変化する風の動きを余すことなく全身で感じることの忙しさがわからないとは……、陳腐だ」
やれやれ、と俺は首を振ってみせる。
「あなたねぇ……」
まったく……、というような呆れた表情で咲は首を傾げる。
「それで、本当に何の様だ? 責任感の強い学級長様は、クラスで孤立している俺を見かねて慰めにきてくれたのか?」
「そんなわけないでしょ。そんなこと、学級長の仕事に含まれていないわ。」
真顔でこちらを見つめてそう言ってくる。
「冗談の通じない奴だ……」
「あなた昨日、ちゃんと掃除はした? チェック表に名前がなかったから、確認しておこうかと思って」
「あー……」
チェック表とは、当番制でやってくる放課後の教室掃除の際に使うチェックリストのことである。基本は掃除箇所のチェックリストなのだが、そこには名前を記載する欄もあり、掃除にきちんと参加したかどうかのチェックリストも兼ねている。
とはいえそんな厳密なものではなく、教員の確認などはない。学生たちが自己申告程度に行うものである。
そのため、学生の多くはこのチェック表を重要視しておらず、大抵の場合は忘れてしまう。
昨日の俺もその一人で、つい自分の名前を記入せずに帰ってしまった。
掃除係は他にも居たので、きっと誰かが書いてくれるかと思ったのだが、どうやら誰も書いてくれなかったらしい……。
「……悪いな、昨日は友達と妖精の泉に遊びにいく用事があって慌ててたんだ。知ってるか? なんか有名らしいぞ?」
「……マサに友達なんていないでしょ?」
俺が自虐の意も込めて放った言葉を、咲は一蹴してみせる。
「他の人にはそれぞれ確認が取れたの。あとはあなただけ。あなたも記入忘れってことで良いのかしら?」
なるほど、どうやら彼らは俺の名前だけ書かなかったのではなく、自分の名前も書かなかったらしい。つまり全員記入忘れということだ。
「なんだよ……」
なんだかホッとした気分になる。
しかし、だとするとコイツ、全員に確認して回っているということだろうか?
あんな適当なチェック表にそこまで真面目になれるとは、コイツ本当にクソ真面目だな。
「……ちゃんと掃除には参加した」
「そう、わかったわ」
俺がそう言うと、咲は淡々と手に持った紙にチェックをつけた。
「……それにしても、あなたが妖精の泉なんて場所に興味を示すなんて思わなかったわ」
紙に何かを書きながら、咲は呟くように言ってきた。
「いや、ねえよ興味は! 妹から聞いて存在を知っていただけだ」
まあ、今度の休みに行くことになっているのだが……。
「咲こそ興味ねえのかよ? 妖精の泉で願い事をすると願いを叶えてくれるっていう伝説、クラスの女子の間でも話題になってるんじゃないのか?」
「私、その手の噂話は信じないの。所詮、そういう御伽噺が好きな子たちの作り話よ」
おおよそ俺の予想通りに、咲は冷静な目つきでどこか呆れるようにそう言った。
「ふーん、咲は否定派なんだ。……なあ陣内、お前は肯定派だったよな?」
「——え! 海斗くん⁉︎」
咲がパッと後ろを振り返る。
しかし、もちろんそこには誰もいない。
……こいつ、こんな分かりやすい手によく引っかかったな……。
カマをかけられたと気付いた咲が、赤面しながらこちらを睨みつけている。
「あなたねぇ〜……‼︎」
「さ、咲こそ、妖精に助けて貰った方が良いんじゃないか?」
「うるさい‼︎」
俺が決死の冗談を言うと、咲はバッと後ろへ向き、そのまま逃げるように校舎に戻って行った。
「ほんとわかりやすい奴だな……」
彼女も一丁前に、女子高生をやっているというわけだ。
「頑張れよ……」
スタスタと去っていくその後ろ姿を見て、俺はつぶやいた。