「日常 その1」
「お、パイナップル五パーセント引きじゃん」
俺は、スーバーマーケットに並ぶカットパインのパックを見て呟いた。
平日の昼過ぎということもあってか、あまり人は多くない。ましてや学生服の人間など、俺をのぞいて他に誰もいない。
最寄り駅と自宅の間にあるこのスーパーは、主婦はもちろんのこと、近所の子供たちや中学生たちも利用する人気のスーパーである。
家事を手伝うことが多かった俺も、昔からよく通っていた。家事をすることが減った今でも、こうしてなんとなく足を運んでいる。
今日は高校の前期期末試験最終日だった。
そのため帰宅時間がいつもより早く、こうして昼間からスーパーに来ているのだ。
「……せっかくだし買っていくか」
そう呟くと、俺は妹の好物であるパイナップルのパックを一つ手にとり、レジに向かった。
試験期間を終えすっかり開放されたこの気分を、少しでも分けてあげたい、そんな風に思ったのかもしれない。
もっとも、妹は中学三年生。これから受験という時期で、彼女にとっての開放の日はまだ少し先だろうが……。
そんなことを考えながら歩いていると、進行方向の先に学生服を着た高校生がいるのを発見した。
「マジかよ……」
こんな時間に高校生がスーパーに居られるはずが無い。いるとすれば、学校をサボっているやんちゃ者か、試験期間で早く下校時間を迎えた俺のような者くらいだ。
そう、その男子高校生は俺と同じ高校の制服を着ていた。しかもよく見ると、同じクラスのクラスメイトである。
「あっ……」
俺が相手をクラスメイトだと認識するのとほぼ同時に、向こうも俺の存在に気付いた。
俺も相手を直視していたため、互いの視線は完全に交わり、二人は動きを止めた。
「っ……!」
「えーと……」
二人の間に沈黙が流れ、どちらかが口を開くか視線を切らねば動けない、という状況になった。それは長さにすると一〜二秒だったが、本人達にとっては倍近くにも感じられた。
先に目線を切ったのは俺だった。
特に言葉を交わすことなく、身体ごと視線を切って近くにあったカゴを取ると、そのまま元来た道を引き返しその場を後にした。
「やれやれ……」
クラスメイトに遭遇するという事件に見舞われたこと、そしてそれを事件としてしまうような自分のコミュニケーション能力及び人との接し方への恥とで、思わずため息が出た。
俺——鹿野雅紀は決して昔からこうだった訳ではない。小学校の頃から一人でいることは多かったが、友達はそれなりにいたし、クラスメイトと外で遭遇しても、挨拶くらいは平気で出来た。
しかし中学生の頃、ある出来事をきっかけに俺は人と関わるのを避けるようになった。
そんなわけで、今は色々と人間関係がうまくいっていないのだ。
先程も、本当は感じ良く挨拶して会話の一つやふたつをしたかったのかも知れない。心の奥底では、人とのつながりを求めていたのかもしれない。
けれど実際は、わざわざ心理的ハードルを乗り越えてまでするほどのことでは無い、と思ったのだろう。
俺の頭の中は、段々とごちゃついてきた。
「……まあいいや」
——忘れることにしよう。
そう決めて、俺はレジに並んだ。
道を引き返したついでに、カゴの中のパックを二つに増やしていた。
* * *
「ただいま〜」
俺は、ドアが閉まる音とずらして帰宅を示す言葉を放った。
神奈川県にある二階建ての一軒家、俺が子供の時からずっと住んでいる場所だ。
スーパーも近く、駅からも遠くなく、日当たりの良い部屋も多い。
俺は結構良い家だと思っている。
「おかえり〜」
奥の部屋から母さんの声がした。
俺はパイナップルのパックを冷蔵庫にしまうためキッチンへ向かった。
「……今日も早いのね」
「期末試験だったからね。でもそれも今日で終わりだから、明日からはまた帰りが夕方になるかも」
「そう……」
途中、ドア越しに母さんと会話をする。
バタンッ
冷蔵庫にパイナップルをしまうと、俺は二階の自室へ向かうため階段に向かった。
俺が再びドアの前に差し掛かったタイミングで、母さんの声が聞こえた。
「……ねえマサ、別に、もう早く帰ってこようとしなくていいのよ? 私も前よりずっと元気だし、今はお父さんもいるんだから……」
俺は一瞬足を止めたが、そのまま黙って歩みを再開し、階段を登った。
二階には主に、俺の部屋、妹の部屋、父さんの部屋の三つの部屋がある。
俺が二階へ上がると、ちょうど父さんが自分の部屋から出てくるところだった。
「……おかえり!」
「……ただいま」
他愛のない挨拶をして、俺たちはすれ違った。
「マサ……、学校は、順調か?」
部屋に入ろうとした時、父さんが後ろからが声を掛けてきた。
俺は振り返って、
「順調だよ。試験も今日で終わった」
と返した。
「そうか……!」
「……じゃあ」
父さんはまだ何か言いたそうだったが、掛ける言葉を必死に探しているという雰囲気が少々面倒に感じて、俺はそのまま自分の部屋に入った。
扉を閉めてしばらくすると、父さんが階段を降りていく音が聞こえた。
「……なんだか今日は、こんなことばっかりだな……」
同級生と遭遇するわ、父さんとぎこちない会話をするわ、俺はこんなにも人間関係に問題を抱えているのかと改めて認識させられる。
俺がぼやくと、トントン、と部屋のドアがノックされる音が聞こえた。
俺が返事もする間もなくそのドアは開き、
「お兄ちゃん! おかえり〜!」
と、妹の心美が入ってきた。
「お前……、なんのためのノックだよ」
「待ったって返事なんかしないでしょ?」
「アホか! するわ普通に! 時々返事するのに都合が悪い時があって、その時は遅れちゃうだけだ」
妹の心美は中学3年生、かなり行動的でアクティブな性格である。中学ではソフトボール部に所属している。
髪はショートで、兄の俺がいうのもなんだが顔は結構可愛い。兄弟同士の仲は良く、俺にとっては良き相談相手だったりもする。
「お兄ちゃん、さっきそこでお父さんと会ったでしょ〜?」
心美が愉快そうにニヤニヤしながら聞いてきた。
「……会ったよ。それがなんだよ」
「別に〜! ただ、告白翌日の男女みたいな空気が流れてたから面白くて」
笑いながら心美が言う。
「なんだよそれ……。お正月に久しぶりに会った親戚のおじさんと子供、の方が近いだろ」
「そうかもね!」
何が面白いのかわからないが、とにかく楽しそうにケタケタと心美が笑う。
それを見ていると、色々とモヤモヤしていた俺の心もどこかスーッと晴れていくようだった。
「……まあ何にしろさ、」
笑い終えた心美が、改まった口調で続けた。
「お父さんの話も聞いてあげなよ……?」
「……俺は聞いてるよ」
「はいはい」
本当はそれを言いにきたのだろう。
心美は能天気のように見えるが、実はすごくしっかりと人を見る力がある。根はしっかりものなのだ。
本当に、とても優しい自慢の妹だ。
「……そうだ心美」
「ん?」
俺は部屋を出て行こうとする心美に声を掛ける。
「冷蔵庫にパイナップルあるから、食べていいぞ」
「えー⁉︎ やったあ‼︎」
心美は飛び跳ねると、そそくさと一階に降りて行った。
「そうだ、お兄ちゃん!」
「ん?」
パイナップルを持って二階に戻ってきた心美が再び俺の部屋に顔をのぞかせる。
「今度の休みの日、妖精の泉に連れてってよ!」
「妖精の泉……? どこだよそれ」
「え、お兄ちゃん知らないの⁉︎ 最近また話題になってるパワースポットだよ‼︎ ウチから車で三十分くらいのところにある綺麗なところ‼︎」
心美は興奮した様子で、俺にスマホの画面を見せつけてくる。
「パワースポット?」
「そう‼︎ しかも噂だと、この泉には妖精さんが住んでいて、泉に訪れた人の願いを何でも叶えてくれるんだって!」
「妖精……。なんだか急に信憑性に欠ける話だな」
「いいじゃん細かいことは! 私今年受験だし、無事勉強頑張れるようお願いしたいの。ついてきてよお兄ちゃん!」
心美の顔は、一瞬の内に興奮した表情と真面目な表情を行き来する。
この緩急のつけ方で迫られると、思わず首を縦に振ってしまうものだ。
「……わかったよ。今度の休みの日な」
「やった! じゃあ決まりね!」
そう言うと、心美は意気揚々と部屋を出ていった。
……あいつ、車で三十分って言ってたよな? でも、ウチで車を運転できるのは……。
これはひょっとして、妹の作戦だろうか?
……まあいい。
ひとまず俺は、次の休みを待つことにした。