70.後悔先に立たず
「私ね、子供が産めないってずっと言われてきたの。私の中の【当たり前】はそうだった。だから周りの【当たり前の妊娠や出産】は別世界の話だと思っていたのよ。私にはそのチャンスすら来ない、って。でも……ずっと劣等感を感じていた私の当たり前がこの妊娠で全部ひっくり返ったわ。私が、私の子を。産むことが出来て、育てて、成長を見ることができるかもしれないのよ」
モレーナは伏し目がちに、でもこの今の状況をとても喜んでいた。
「私と、私の愛する人との子供なんて……夢のまた夢でしかなかったわ。前の夫とはどれだけ願っても絶対に叶わなかったんだもの。私は私の命が危なかったとしても、絶対にこの子は諦めない。夫とオリバーと、そしてこの子と幸せに暮らしたいの。想像するだけで嬉しくて夜も眠れなくなっちゃうのよ」
頑張れば成果が出ることと頑張っても運しかないことがある。妊娠して無事に出産出来るのは確実に後者だ。すべてが奇跡の積み重ね。
将来を見据えるほどに彼女はレイヨン公爵、そしてこの家を愛している。これはもう公爵が言ったところで諦めるわけがないし、私的にもモレーナ自身の思いを優先してあげたいと思っている。
「ジェシカ様もきっと同じだったのよ。私ほど不妊に悩んでいたわけではなかったとしても、もうすぐ出産のタイミングで『命が危ないかもしれない』と言われたら、自分の命に代えても愛する夫との子を産みたい、って思ったはず。だけど私やジェシカ様の意見が絶対に正しいわけじゃない。泣く泣く諦める人だっているわ。そもそも妊娠って命がけなのよ」
「でも自分が死んでしまったら、子供の顔を見ることはできなくなってしまいますよ……?」
確かに気持ちはわかる。でも自分の命を優先して考えてくれるレイヨン公爵のことを考えないのか?という意味も含める。
「私が諦めたら確実にお腹の子はいなくなる。お腹の子だって人間なのに、私が一人で選択するのってずるいじゃない?だからといって、子供を諦める決意をした次の日に馬車で轢かれて私が死んじゃったら何も変わらないわ。この子を守れるのは私だけ。出産後に私が生き残ればこれ以上の奇跡なんてないし。私だけじゃない、子供を産む女性はその奇跡をずっと信じているわ」
言われてみればそうだ。どんな女性も、無事に出産するまでずっとずっと自分の命とお腹の中にいる命を守るために過ごしている。出産するまで取り出すことのできない状態で、食べ物も段差も靴も服も嗜好品も気を使う。我慢だってたくさんある。
それでも自分のお腹に宿った命を守りたいからだ。
モレーナはすべての覚悟を最初から持ち合わせていた。子供ができないと言われた体で、妊娠がわかったときから迷いなくそう決めていたんだろう。
これは絶対にお互いの気持ちを話さないとダメだ。
「その言葉をそのまま、レイヨン公爵様に伝えてください。公爵様はモレーナ様がただワガママで状況も理解せずに産もうとしてると思っています。今、モレーナ様が仰った【覚悟】をきっと公爵様はわかっていないです」
「でも全然話を聞いてくれないわよ。全部、駄目だ諦めろ産むな、だもの」
モレーナは全くその気にならないようだ。公爵と話すのは諦めモードになっている。
彼女はきっと死なない。ゲームでは生きているから。だけど私が転生してここに来たことで何かが狂ってしまった可能性がある。ほんの僅かな可能性だって出産には命取りになる。もし……お互いが誤解をしたまま
万が一なことがあったら……。私が関わっている人が、近くにいるのに何も出来ないままそんな悲しいことになるのは嫌だ。
「お願いします……、二人で話す時間を作ってください。おそらくジェシカ様は産む前の医者の忠告に対してモレーナ様と同じ覚悟だったはず。それをちゃんと公爵様に伝えたからこそ、今でも公爵様は落ち込むことなくジェシカ様のことを明るく話せるんです。ですがもしこのまま子供を産んでモレーナ様が亡くなれば、レイヨン公爵はモレーナ様を理解しないままですよ?」
理解しないまま今生の別れなんて悲しすぎる。
「ちゃんと話して、万が一のことがあっても『妻は命をかけてこの子を産んでくれた』って言ってほしくないですか?話をしないままで『この子が産まれたから妻が死んだ』っていう気持ちをほんの少しでも公爵様に残していくんですか?そんなことを公爵様がぼやいても、モレーナ様はもう注意できないんですよ?」
レイヨン公爵が、前妻のジェシカが出産の選択したことを後悔してるとオリバーは言っていたけれど、レイヨン公爵はオリバーをとても愛しているのは私でもわかる。オリバーが公爵様の独り言を聞いたのはきっと何かの一部だけだと思うのよ。
医師からの宣告のとき、公爵とジェシカはたくさん話し合ったのだろう。結果的に亡くなったのは残念だったし公爵ももちろん悲しいのはわかっているけど、二人が自分たちの思いをぶつけ合って出した結果のはずだ。言わないまま終わるよりも絶対に良いに決まってる。
「………私がいないときに、子供の目の前でそんなことをうっかり喋ったら誰が止めてくれるのか……そうね、間違ってもそんなことを言われないようこの子のためにも話さなくちゃね……」
「早めに話し合ってくださいね」
「子供に諭されるとは思わなかった、うふふ」
モレーナは優しく微笑む。よかった、これで少しでもレイヨン公爵家の中が丸くなればいいな。
「モレーナ様、今甘いものを控えてますよね?私、とっっっっても美味しいケーキがある店を知ってるんです。落ち着いたら行きませんか?」
もちろんロレンツの店だ。
「もしかしてそれって、ロールケーキが売っているお店かしら?以前オリバーが持ってきてくれたのよ。あぁそういえばあれはドロレスの誕生日会だったのね!平民の店で、この世のものとは思えない美味しい甘いものが食べられると聞いたのだけど、行く機会がなくて。ぜひ行きたいわ!」
「コルセット無しの平民の服で行かないとお腹がパンパンになりますから、気をつけてくださいね?」
「私は平民と同じ服で仕事していたから今でもまだ残してあるわよ?楽しみだわ!そのためにも夫と話さなくちゃね」
二人でこの先の未来の約束をした。きっとモレーナは大丈夫。レイヨン公爵もオリバーも。歪んでしまった本来の家族の形は元通りになれるはずだ。今日はその甘いものの話を少ししたあとに公爵家を後にした。
数時間後、ついに私の明確なフラグが立つことになるとも気づかずに。
「お父様……。これは、断ってもいいものですか?」
「……」
「お父様?」
レイヨン公爵家から帰宅した私の手元には、読み終わった手紙がある。いつか見たような豪華な手紙だけど、少しだけ違う。つまりは国王と同様の立場にいる者……王妃からの手紙だ。
高位貴族の令嬢数人を集めてお茶会を王宮で開くというのだ。つまりは……アレクサンダーの婚約者候補が集められるということだ。お父様が黙るのは、これが強制参加だという意味だろう。
ついにこのときが来てしまった。
私ってアレクサンダーに好意があるような行動してなかったんだけどな。でも家格的にしょうがないわよね……。
あ!むしろ、婚約者になりたいアピールをしなければいいのか!失礼のない程度にやんわりと、『私は殿下に興味ありません!』ってオーラ出そう。
お父様は私の問いになかなか言葉を発さない。私が行きたくないから言葉を選んでいる最中なのだろう。
「お父様、大丈夫です。行きます」
「ドロレス……。もしかしたら、婚約者に選ばれる可能性もあるが……それでもいいのか?お前はそれを望んでいないのだろう?」
お父様に明確にそれを言ったことはない。だけどきっと私を見て感づいたんだと思う。公爵家的にはとても喜ばしいはずだし、逆になぜ嫌がるのかと普通の貴族は思うはずだ。きっとお父様もお母様も、私自身の幸せを願ってくれているのだろう。
「大丈夫です、なんとかやり過ごしてきますので。心配しないでください」
「ドロレスが大丈夫ならいいが……。無理はするなよ?」
「じゃあ断っていいんですか?」
「………………………頑張ってきてくれ」
「………はい」
さすがのお父様でもそこは断れないのね。
私は手紙を持って自分の部屋に戻る。
「ドロレス」
部屋のドアの前でふと呼ばれたので後ろを振り返ると、お兄様が後ろにいた。
「今いいか?」
「ええ。どうぞ」
お兄様に私の部屋へ入ってもらうと、人払いをした。ソファーに座り、私は紅茶を入れる。
「どうしたのですか?お兄様」
「僕がアレクサンダー殿下の元で手伝ってるのは知ってるよね」
将来、財務部のトップになるお兄様は、経理の仕事などを王宮で手伝っていた。今年の春から学園に入ったので手伝いは減ったみたいだけど。
「王妃様からのお茶会、手紙来ただろ」
「なんでそれを?お父様との話を聞いていたのですか?」
「一応これでも殿下の近くにいるからね。……覚悟して参加したほうがいいよ」
そ、そんなに王妃って怖いの……?それ聞いたらさっきの意気込みが消えていくんだけど!やめてよそんな事前情報!
「ドロレスが婚約者だってことを他の令嬢に認めさせるためのお茶会だからね」
え?
えぇーーーー!!!?




