河内菊水商店街物語
p1 河内とは大阪東部一帯を云うのであって、地名、町名ではない
エーさては一座の皆様へ
ちょいと出ました私は
お見かけ通りの若輩で ヨホーイホイ
まかり出ました未熟者お気に召すようにゃ
書けないけれど 七百年の昔より
唄い続けた河内音頭にのせまして
せいこんこめて語りましょ
ソラ ヨイトコサッサノ ヨイヤサッサ♪
〈河内〉に行きたいのやけど、JRに乗ったらいいのか、向かいの近鉄に乗ったらいいのか、どっち?と天王寺駅で訊かれた。河内とは大阪東部一帯を云うのであって、地名、町名ではない。河内長野ですか?と訊いたけど「河内」「河内」の連発で…「お兄ちゃんともかく河内に行きたいのや・・」と今にも泣きそうな老夫婦。その老夫婦は今東光*(こんとうこう)のフアンだという。ともかく「河内」に行きたいという。それならJRの八尾で降りなさいと教えた。
河内は北河内、中河内、南河内と3つに分かれる。八尾は中河内に属する。大和川を隔て南向こうが藤井寺である。南河内の入口みたいなところだ。奥にかけて羽曳野、富田林、河内長野各市や、楠公不落の城、千早赤阪村がある。
私は小学校4年生から、高校に入るまで住んだ懐かしい町だ。藤井寺市は近鉄南大阪線の始発、阿倍野ターミナル(今やあの日本一高い『あべのハルカス』で有名)から準急で30分ぐらいで、大阪市のベッドタウンとなっているが、河内独特な地の臭いを色濃く残している。この近鉄阿倍野駅を道一本隔てて向かいが、JR天王寺駅で、八尾に行くならここから学園都市線(当時関西線)に乗る。
道一つでどうして駅名が違う?いい質問だ。でも大阪人はさして疑問に思わない。〈すでにあるものには、疑問は感じない〉という合理主義を持っている。でも、一旦あったものが無くなると「なんで?なんで?」とやたらうるさい。「なんで、あの店はなくなったん?」「亭主がバクチで店潰したんやてぇー」「いいや、女房が男を作って出て行ったらしいでぇ…」
あっ、そうだ正解は道の向こうは阿倍野区でこっちが天王寺区というだけ。「しょうもな」とはいわないこと。世の中は、たいていしょうもないことで成り立っている
「なんで、この人がお父さん?」と考えても仕方がない。「疲れることはやめとこぅー」というのが大阪人。特に河内ではこれが極端だ。
***
立派な顔して説教たれはるけれど、あんたのしずくで生まれたのには違いない。その時だけは「お前だけを、愛してる~」とか一瞬云ったりしてたから、僕は〈愛の結晶〉の成れの果てだ。名前は多村勝治、俗称は真ん中をとって「ムラカツ」と呼ばれている。
「こら、勝治!レジから売上ちょろまかしたやろ!」と、怒っているのは僕のお母ーはん、田村良子。「呼び名は一緒でも字が違うやんケー」これには深いわけがありまして…そのうち分かりますと言っても、河内人間は気が短い。手短にさっさと言おう。4番目の母で、父の籍には入らない。入っていないのではない。「入らない」のだ。
初代は産みの母、和子という。2番目の名前は思い出せない、そして3番目は鉄子さん。初代は23で僕を産み、いま35のはずだ。僕が小学校にあがる前の年に男を作って出ていった。だから小学校入学の桜の下の写真は2番目の〈思い出せない〉さんと、写っている。
4代目となると年々若くなって、良子は25才だ。僕は今、小学校5年生で12才。少々ませているらしい?朝礼の整列は前から2番目、成績も2番目だ。後ろからではない、前からだ。1番は同じ商店街の〈トマト〉の夕子ちゃん。僕の恋人だ。結婚の約束はまだない。
「ムラカツ、お前のお母―はんは、若ぅーてええなぁー」とクラスの奴らは冷やかしやがる。クラスの吉田君のママと道で会って、「あら~、お姉さまとご一緒?」と言われたので、「はい」と答えたら、帰って、良子に思い切りビンタを食った。「籍に入ってのうても、うちはお父ちゃんの立派な女房や。せやからあんたはうちの立派な子なんや・・分かったか!正座30分」良子はイイ女だけど、短気が欠点だ。
自分の母をいくら継母と言え、呼び捨ては良くない。僕の心の中では〈親愛の情〉を込めて〈良子〉なのであるが、ついそれが出てしまう。一度「おーい、良子」とやってしまった。「なんやとー、もういっぺんゆうてみぃ!痩せても枯れてもうちはあんたの母親や!親を呼び捨てにする奴があるか!!」目から星が☆☆☆つも飛び出すビンタ一発決められた。
p2 雨あめふれふれ母さんは・・
昼から曇り空、「嫌な予感…」、午後の授業の途中から雨・・。
良子が真っ先に傘ご持参。去年は鉄子さん。継母はこんな時の行動は素早く、どこの母にも負けていない。いくら家が近いと云っても、空中を飛んできたとしか思えない早さだ。何時も一番乗りだ。
「雨、雨ふれふれ、かあさんが、ジャノメでおむかえうれしいな!ピチピチ、ちゃぷちゃぷ、ランランラン・・」冷かし合唱が始まる。教室の廊下側のガラス戸が開いて、「勝治ここに置いとくからな!」良子さんの元気な声。僕はクラスメイトの顔を窺う。
ひどい奴は「来年は誰が持ってくるねん」と云いやがった。僕はそいつの金玉を蹴り上げた。「多村君、あそこは男の子の大事な所でしょう、男の子やったらわかっているでしょう」と、メガネ美人の先生に放課後2時間立たされた。
僕の店「婦人服飾タムラ」は藤井寺駅前、と云っても、駅前は銀行2店。駅前銀行裏と云ったほうがよい。菊水商店街の中にある。店舗数8店舗、向かい合って4店舗が並ぶ、アーケードのある小さな商店街にある。
藤井寺と言えば「娘、道明寺」で有名な道明寺がある。それから、藤井寺球場がある。かつて、近鉄(現在オリックス)バッファローズがホームグランドにした所だ。その昔、近鉄球団は〈近鉄パール〉とか称して、名前からして弱かった。何で〈パール〉?近鉄は、伊勢志摩まで行っている。だから〈パール〉。そんな弱いときからのホームグランドであった。
昔、藤井寺は道明寺の門前町であった。近年、大阪からの郊外流入が激しく、人口が急激に増え、ベッドタウン化してきた。東住吉の商店街の衰退の先を見越し、父が支店をここに2年前出したのだった。店舗探しをしていたら、大阪の同じ商店街にあって、この商店街にいち早く店を出していた呉服の「えり正」さんにばったり出会って、「多村はん、ここは高級品が売れまっせ」と話している最中に「あら、多村のおっちゃんやー」と、えり正さんのお客さんに声をかけられた。東住吉の本店のお得意さんの娘さんだった。新世帯をこの藤井寺に構えたのだった。
父は即刻支店を出す場所を藤井寺に決めた。「どっか物件おまっか?」とえり正さんに聞いた。「隣が一軒まだ決まってまへん」ということで、8軒のラストの物件を買った。即金で買ったというから立派なものだ。
父は月賦だの、この頃から取り入れられたローンが嫌いであった。モノを買うときは貯めてから買う。貯めることは大変で、大抵は途中でやめる。それはいらないもので、貯めきって買ったものが本当にいるもので、そうすればいらないものは買わなくて済む、と店の従業員に話しているのを、食事中横耳で聞いた。食事の時間は従業員教育の場でもあるのだ。僕だったら食べた気がしないと思うのだが、店の女の子は〈タイショウー〉の話を結構興味を持って聞いている。
藤井寺の店の2階は2室にキッチン、小さいながらも、バス、トイレ付きで、一応寝泊りが出来る。
***
支店を出すには、もう一つ理由があった。
鉄子さんと良子さんの仲が険悪になったのである。二人とも本店「タムラ」の販売員で、当時は〈住み込み〉というのがあった。親方の家で寝食を共にして働くのだが、店が終わっても、初代母(母が何人も登場するので以降初代和子とか和子さんと呼ぶ)がいた時でも一緒に台所や掃除を手伝った。
和子さんは穏やかな人で、住み込みの人に優しかった。鉄子さんにも料理を教えた。良子さんに料理を教えたのは鉄子さんである。だから、僕は母の味を食べられ続けられた。初代が、いや2代目がいなくなってからは、鉄子さんが食事、洗濯、家事一切をせねばならなかった。だから、父と一緒になるのはなんの不思議もなく、すでに僕に取っては、半分母であった。
本店の2階は二間しかなかったので、裏にあるアパートの一部屋を従業員用に借りていた。そこに鉄子さんと良子さんが一緒に住まいしていた。鉄子さんは販売力抜群で、先輩、後輩、最初二人は仲がよかった。
鉄子さんが父のお嫁さん、ということは僕のお母―ちゃんになったわけで、良子さんに取っては、鉄子さんは女将さんになった訳で、二人の仲良しは壊れた。良子さんはグラマー(今こんな言葉あるのやろか)な美人で、父がやたら優しい。二人とも優秀な販売員であったが、店で口もきかなくなっては、店の雰囲気も悪く、客はあざとく噂をする。
支店を出して、鉄子さんに任す。本店で父は良子さんと仲良くお店をやる。一石二丁を考えた次第。鉄子さんは気性もきつく、胸もペチャこいが、和服を着せたら美人だ。結構年配受けする。父の本店からは今川駅まで歩いて15分、藤井寺までは普通電車で25分。通えない距離ではないが、2階に住むことになった。その鉄子さんのお目付け役として、僕も藤井寺に転校になって、2階に鉄子さんと住むことになったのだ。
2代目は、僕と桜の下で写真を撮ってすぐに居なくなった。何だか訊いてはいけないみたいなので、いきさつはわからない。母であった期間も数ヶ月ぐらいで、名前も忘れた。嫌な人の名前は忘れたら思い出せないものだ(以降2代目としか呼ばない)。
鉄子さんの販売力は凄いもので、お金持ちのオバサンはお手の物。「あら~、奥様素敵!昔、宝塚におられたんですかあー」と声が裏返っている。そばで聞いていた僕は恥ずかしくって、店の外に出た。デモ覚えた。将来僕も大人になったとき、営業や物を売る仕事につくかも知れない。褒めるときは徹底して、途中で恥ずかしがったりしてはいけない。なら、最初から褒めずに、黙っておくことだ。中途半端は褒めたにならない。鉄子さんのおかげでたちまち、店は軌道にのった。父は「俺の目に狂いはないと」満足気であった。
鉄子さんは料理も上手いし、家事の手際も良い。僕の着るものにも気を配ってくれる。結構、教育ママで、宿題にはうるさく、眠たくても食卓台の上で最後までやらされた。いい成績を取ったら、「これ、ええのん?」と言うようなモノを買ってくれた。
以降、僕は寝言のふりして、「むにゃむにゃなんとか、なんとか」と欲しいものの名前を言った。頑張って、いい成績を取ると、「はい、プレゼント」と僕の欲しいものが出てくる。「これ、僕、前から欲しかってん!なんで鉄ちゃんは分かるの・・」とぶりっ子をした。鉄子さんはご機嫌で「ないしょ」と云った。欠点は、気分にムラがあり、機嫌を損なうと手厳しい。オカズが1品減らされ、1ヶ月、小遣いが半分になるのは覚悟だ。
鉄子さんはキツイ継母に育てられた。連れ子で来た女の子は高校に進んだが、鉄子さんは中学校を出ると、地元の紡績の女工さんとして勤めた。キツイ継母の仕打ちに耐えられず、初代和子さんの田舎の伝手で「タムラ」にやって来た。
「せやから、勝治もやさしいしたげんとあかんのやで」と和子さんに言われたのを覚えている。
僕は鉄子さんはいい母を頑張ったと思っている。それに比べれば良子はのんびり屋で・・・やめとこ、今の母の悪口は。
p3 商店街は店8軒
その、鉄子さんと良子さんがどうして入れ替わったか?それを小学生の僕に話せとはチョットつらい。その前に、菊水商店街の説明をしておこう。
駅から見て南上側、左から〈喫茶 藤〉〈果物屋 トマト〉〈呉服 えり正〉〈婦人服飾 タムラ〉
南下側〈お好み焼き 鉄板〉〈八百屋 バナナ屋〉〈鮮魚 魚常〉〈薬屋大黒堂の物件〉と菊水商店街は並ぶ、駅前の配置は下記のようになっている。
駅前(南側表口)に銀行が二つ。南北に踏切を越す道に沿って道明寺商店街、お寺がある側が南商店街、踏切を越した側が北商店街、最近北側にスーパーが出来て人通りが多くなった。道明寺南商店街を西に折れて藤井寺駅前商店街がありその延長に隣接する形で菊水商店街がある。
道明寺商店街は門前町の雰囲気を残し、古くからの店が多い。藤井寺商店街と藤井寺市場は一体となっている。このように藤井寺には商店数も多く、沿線の奥、古市、富田林あたりからもお客さんを呼んだ。菊水商店街の物件は大阪市内の不動産屋が売れ出した。入居店は地元組と大阪市内組に別れる。大阪組は「えり正」さんと、「タムラ」の2軒である。
喫茶・藤は公園の上、住宅街の中で自宅の一部を喫茶店としていたが、立地の良いここに降りてきた。50代の若かりし頃は美人で、それこそ宝塚を思わせるしっかりママと、コーヒーを入れるためだけに生まれてきたような、ヒゲのよく似合うマスターと、出前専門のウエイトレス嬢、太めの花子さん(20才)の3人でやっている。
良子さんは、店でお客が切れて一服のときは、女店員二人のも入れて、コーヒーを頼む。僕がいる時は、ミックスジュースを入れてもらう。出前に来た花子さんは、何か新しいモノ入ったと新商品を品定めして帰る。ママは商店街の会計の役をやっている。
***
果物屋の〈トマト〉は俊介さん(35才)と夏子さん(32才)の夫婦が二人でやっている。僕は学校の試験でトマトを果物と書いて×を貰ったのはここの看板のせいだ。「ややこしい名前をつけるな」と俊介さんに文句を言ったら、お金を出してくれた親父さんが占いに凝っていて、上から読んでも下から読んでも一緒の名前がいいとなって、果物で考えたが、思い当たるものがなくて一番近いトマトにしたと、「ごめん、勝チャン」と言ってトマトを1個くれた。
夫婦は2階を住居としている。ここには僕のマドンナ同級生の夕子ちゃんがいる。
隣の「えり正」さんは55才で、商店街の会長をやっている。口うるさい父も褒めて、信頼を寄せる人格者だ。奥さんは菊江さんといって和服の似合う大人しい人だ。「えり正」さんは自宅が別にある。子供は遅まきの男子が一人、克也君、同学年隣組の学級委員だ。2階を勉強部屋兼遊び部屋として使っている。僕は学校から帰ると、カバンをほっぽり出して、克也君の2階に行って宿題をしたり、ゲームをしたりする。
お好みの「鉄板」は、65才の寅吉さんと、出戻りの育子さん40才と、嫁ぎ先で妹であった寛子さん18才の3人でやっている。鉄板の名物は広島焼きと称するオムそばであった。当時は珍しかった。
育子さんは広島の尾道に嫁いだ。一人男の子を生んだが、姑とそりが合わず、離婚して帰って来た。子供は姑が離さなかったが、育子さんは別に親権まで争わなかった。寛子さんは、育子さんを慕っていて、高校を卒業してやってきた。店の2階に住んでいる。寅吉さんは公園裏の古い家に住んでいたが、育子さんのためにこの店を手当した。
昼時は買い物客で、夜は近所の商店主、女将の溜まり場になってしまう。鉄板で海鮮焼きがビールのお相手をする。
夕飯のメニューに困った時は、良子さんは「鉄板にするかぁー」という。オムそばと豚玉をぺろりと平らげ、瓶ビール2本を飲んで「帰るでぇー、勝治いつまで食べてんねん」長居はしない。居酒屋談義には加わらない。皆もそのへんは分かっていて「お休み」と挨拶する
八百屋の〈バナナ屋〉ああー、ここもややこしい名前や。本店が道明寺商店街にある。何でも、先代が露天のバナナの叩き売りから店持ちになったところからつけた名前で変えられない。この〈バナナ屋〉の店主は叩き売りから3代目の茂雄さん(38才)だ。奥さんは5年前に亡くし、見習い中の弟さん康夫さん(28才)と二人でやっている。
「えーらっしゃい!安いよ、安いよ、新鮮だよ。採れたてのこの小松菜が98円だよ。えーらっしゃい!」二人の若い掛け声は元気で、店は何時も活気に満ちている。
本店のバナナ屋は老夫婦がやっている。客足は落ちたが、昔からのお馴染みで持っている。お年寄りは、本店を、若い世帯は支店の方をと上手くいっている。
***
鮮魚・魚常をやっているのは、常吉さん(33才)、初世さん(33才)の元暴走族夫婦だ。地元の学校を、高校までズート一緒で、卒業してからも暴走族で一緒で、結婚して店も一緒で、ラブラブカップルと思うだろうが、いや~そうなのだ。でもそうでもないのだ。どっちや?はっきりせい!小学校5年生でいくらませてても、夫婦の中とか機微とかは分からない。
魚常の名物は刺身の盛り合わせだ。常さんの口上はこうだ。
「サー寄った。よった。買ってくれとは言わないよ。見ていってくれたらそれでいい。この鮮度でこの盛りでこの値段、よーく見てくれ。藤井寺中の魚屋回ってこれよりいいのがあったら、この盛り2つタダであげちゃうよ」
良子さんは云っている。「あれで口銭(こうせん、利益のこと)あるねんやろか?」
そうなんだ、夕方仕舞いがけには残っていると、それが半額になるのだ。おかげで、食卓に刺身は不自由しなかった。常さんは、早く仕舞って、銭湯でさっぱりして、阿倍野近辺に繰り出したいのだ。阿倍野近辺なんて言ったが、ほとんど飛田新地のことだ。
魚常の名物はもう一つあった。犬も食わないと言われる〈夫婦喧嘩〉だ。派手、派手、切り身は空中を泳ぎ、刺身の〈けん〉は客の頭に乗り髪の毛になり、船はよろしく帽子になる。まー、それはそれでいいのだが、ゴム長にゴムエプロンの二人の手にはしっかと刺身包丁が握られているのだ。一度などは、危険を見かねた「えり正」さんが止めに入って、初世さんに倒されておデコに絆創膏を貼るはめになった。
良子さん曰く「原因は、常さんの朝帰りにあると」酔っ払って電車に乗り遅れたんかいなと思っていたが、〈朝帰り〉にはもっと違う意味があったようだ。良子さんはそこまで説明しない。初世さんも魚のさばきは上手い。
最後は、向かいの大黒屋の件である。道明寺商店街、学校そばに昔ながらの〈うだつ〉がある大きな家だ。薬局で石鹸や衛生用品を扱っている。店の横は土間になっていて奥に母屋がある。そこが菊水商店街の物件を物置代わりに使っている。父はこれが我慢ならない、何時もシャッターを閉めて商店街の発展を邪魔しているというのだ。物置なら一杯どこにでもあるだろうと云うのだ。商店街の会合の議題にいつも上げるが、埒があかず、父は会合にこなくなり、代わりに良子さんが出ている。大事な事のみ本店の父に報告するのだが、大事な用件が話されることは滅多にないようだ。売り出しの時は報告しているみたいだが。
大黒屋は近辺きっての資産家で借家、アパート、駐車場と持っている。当主は薬剤師免許を持つ70才のお米さんだ。亭主は早くに亡くなっている。一人息子(40才)が店を手伝い、前のシャッターを開けて荷物を取りに来るのはこの息子だ。お米さんには〈うだつ〉が上がらない男なのだ。学校の行き帰りに見るのだが、息子のお嫁さんの顔は見たことがない。奥の母屋からで来るのは何時も白い割烹着を着た女中さんだ。最初、この人が奥さんかと思ったが違っていたぐらいだ。伏せているとも、入院しているとも、実家に帰っているとも、近所の人たちも見ていないのだ。
p4 『静けさも 半年続かぬ 河内かな』
これで、あらかた説明が終わったかな?そうだ、市場の入口にある高松肉店と藤井寺商店街の真ん中にある元木酒店が抜けていた。日曜日や学校のない日は良子さんに昼食代を貰う。鉄板のオムそばの金額であるが、始末して、ご飯は自分でたいて、オカズは高松肉店のメンチカツにすることが多い。こうしてお金を貯めるのだ。僕かて将来商売するかもしれない。貯める習慣は大事だと思う。
「勝ちゃんおまけや」とコロッケ1個を何時もおまけしてくれるのは、女将さんの亜希子さんだ。タムラの上客さんで、良子さんの相談役でもある。鉄子さんの後を継いで業績も上がらず悩んでいたとき、元気付してくれたのが亜希子さんだ。店では何時も割烹着姿だが一度、近鉄電車の中で「勝ちゃん」と呼ばれたけれど、声の主は分からない。「勝ちゃん、私やんか」と肩に手をかけたのは、何と、高松亜希子嬢であ~りませんか。ああー、女はつくづく衣装と化粧で化けると思った。そうだ、あれだけタムラで散々いい服を買ってるんだから、お洒落だったんだと思った。それにしても綺麗だった。45才とはとても思えなかった。
元木酒店の定さんは65才、孫の磯吉君とは同学年だ。学校の帰り前を通ると何時も声をかけてくれる。「勝ちゃん、通信簿はどうやった。運動会リレーの成績はどうやった?」磯吉君から学校の行事はあらかた聞いて知っているのだ。定さんには息子さんが3人いる。いずれも藤井寺、羽曳野に住みサラリーマンだ。「私ら一代でもしゃない」と定さんはこだわっていない。店の配達はほとんど定さんのご主人、〈やさしい養子さん〉の梅吉さんがしている。定さんはこの養子さんを自慢しない日はない。店のお客は必ず聞かされる。
定さんは〈ちゃきちゃきの河内女〉だ。「うちが、もう5つ若かったら、勝ちゃんとこの服買うねんやけどなぁー、何が悔しいゆうても、高松の亜希子さんは着れるのになぁ・・」定さん、亜希子さんと勝負する気持ちが失せてない。5つとは言わないが、もう5つ足して、10才若かったら着れると思う。僕の悩み事相談係は定さんだ。定さんにはなんでも話せる。やっぱり継母はお互い気を使いあって疲れることがある。そんな時は学校の帰り、お客がなければ店によって、道草をする。
***
この話は〈トマト〉の俊介さんの、お嫁さん。夕子ちゃんのお母さん、夏子さんが向かいの〈バナナ屋〉の茂さんと出来ちゃって、あくる日から〈バナナ屋〉の店に立ったところから始まる。
商店街の連中はオッタマゲタ、月に人が降り立った時だってこんなに驚かなかった。ビックリ仰天に慣れた河内人にだってこれはビックリ仰天であった。事を知らないお客は「あら、店を間違った。八百屋のバナナ屋さんはお向いね」そのお向いに〈トマト〉の俊介さんがいる。客は真ん中で両方を見て、夏子さんと茂さんの熱々の二人を見て「????」で、何も買わずに帰った人もあった。
良子さんによるとこうだ。
悪いのは、俊介さんで、店の売上が悪いと、夏子さんのせいにして、時には手が出るらしい。青い痣を横顔にして店に立った事もあったという。それを向かいで見ていた茂さんが同情し、夏子さんが何時しか惹かれて、それでも夕子ちゃんの事を考えて悶々としていたが、ある日俊介さんに叩かれて、向かいの茂さんの2階に飛び込んだという次第。良子さんは夏子さんに同情したが、あくる日から向かいの店に立った事だけは解せなかったみたいだった。
困ったのは〈トマト〉の俊介さん。元々気の小さな俊介さん、店を閉める訳にもいかず、立つには精神力を要した。元々痩せ気味の俊介さんが、しばらくしてキュウリのようになった。しっかりしていたのは夕子ちゃん。いなくなった(いえ、向かいにいるのだが)母親に代わって炊事洗濯をこなした。解らないことがあると、母である向かいの夏子さんに訊いた。籍がどうなったのかは当事者以外は知らない。他人ごとには興味津々の河内人でも聞き辛かったようだ。
3ヶ月が経った。〈トマト〉の俊介さんの店は何とか開けているが、精気のない店ははやらない。それに比べて向かいは、別人のようになった夏子さんを入れて3人、威勢のよさで益々お客が増えた。噂を聞いて興味半分で、奥からわざわざ電車賃を使って菜っ葉を買いに来る客も含まれていた。キュウリは益々細くなって、消えてなくなるかと思ったその時、又、又仰天があった。
〈トマト〉の店に夏子さんの妹、秋子さんが立ったのだった。従業員としてではなく、れっきとした、籍の入った女房として。
良子さんに聞くしかない。良子さんに聞くとこうだ。
夏子さんと秋子さんは5つ違う。夏子さんが居る時から、時々〈トマト〉を手伝うことがあった。姉妹の実家は古市にあって、秋子さんは両親と住んでいた。両親はアパートを2つ持っていて、生活に苦労はなかった。いくらなんでも、姉の非常識な行動に秋子さんは頭に来た。夕子ちゃんの事を思うと胸が痛んだ。実家に引き取る話も出たが、当の夕子ちゃんが首を縦に振らなかった。夕子ちゃんへの同情は、何時の間にか俊介さんへの同情に変わった。同情は愛情にいつでも転じる。特に河内においては転じるスピードが事のほか早いみたいだ。
夏子さんの籍は抜けていた。夏子さんは夕子ちゃんの引き取りを主張したが、夕子ちゃんが拒否した。どちらかと云うとトロイ方に入る夏子さんが怒った。俊介さんとくっつくのは自分の行いを省みても文句が言えるものではない。怒ったのは、姉妹なのに一言もなく、夕子ちゃんの母親になったことだ。
「一言あってしかるべき」が夏子さんの言い分。これに反して秋子さんの言い分は「他の他人が夕子ちゃんの継母になるより、身内の自分がなった方がズート良い。感謝されても、文句を言われる筋はない」ということで、向かい同士、姉妹の敵対心は決定的になった。2軒の真ん中を通る時は怨念の灼熱が感じられると良子さんは笑った。
〈トマト〉に立った秋子さんは何としても、向かいに負けたくなかった。向かいの八百屋を見るにつけ、果物屋がよくないと考えた。なんと、八百屋に転じたのである。
八百屋に転じてもそれは長年の〈バナナ屋〉には叶わない。儲け度外視で安売りを仕掛けた。向かいの客さえ取れたたらいいのだ。生活費はアパート1軒分で何とでもなる。女のメンツを賭けた戦いだ、負ける訳にはいかない。
最初はゆっくりと構えていた〈バナナ屋〉ではあったが、昨日まで買っていた客が、今日はほうれん草を向かいで買っているではないか、これには慌てた。値段勝負に打って出た。向かい同士、すぐ敵の値段は知れる。1日の内、何度値段は書き換えられた事か。面白半分で見ていた藤井寺近辺の同業、八百屋は他人事では無くなった。客がこの2店に流れ出したのだ。彼らもまた、値段を下げるしかない。藤井寺の八百屋の値段戦争は噂を呼び、奥は河内長野から、西は布忍あたりからまで客を呼んだ。藤井寺は一時大いに賑い、八百屋を除けては潤った。特に、喫茶藤とお好みの鉄板はてんてこ舞いの繁盛であった。
客は喜んでも何時までも続くものではない、当事者の2店を入れた藤井寺の八百屋全てが会合を持った。仲裁役はえり正さんであった。結論はこうなった。〈トマト〉は果物半分、野菜半分の店にすること。〈バナナ屋〉は〈トマト〉が扱う野菜には配慮すること、出来るだけぶっつからない品目にするか産地を違えるか、2店で調整すること、調整がつかない時は藤井寺八百屋組合長が調整することとした。
〈トマト〉と〈バナナ〉の百日戦争は終を告げ、菊水商店街も元の落ち着きに戻った。
***
お商売の調停だけではない、人間関係の修復も図られた。なにぶん8軒しかない小商店街、きめ細やかに気配りが出来るのはえり正さんしかない。えり正さんを中にして2軒の手打ちが行われた。その集まりに夕子ちゃんは出席を希望したのである。
お商売の調停は、損得で割り切れるが、人間関係はそうはいかない。感情、意地、面子、その他諸々入り乱れる。かなり激しいやりとりがあったらしいが、えり正さんはみな吐き出した方がいいと思って、放っておいた。皆が疲れて、静かになりだした頃、夕子ちゃんが立ち上がってこう言ったそうだ。
「もう、喧嘩はやめて欲しい。私がどれだけ辛かったか、わかって欲しい。デモ、毎日お父ちゃんの顔も、お母ちゃんの顔も見れたし、お母ちゃんが遠くに行ってしもうたと違うと思って我慢した。おばちゃんが、お母ちゃんになってくれて、お母ちゃんが二人も出来て、お父ちゃんも新しいお母ちゃんに優しくて、ちょっとづつ太り出して、バナナ屋のおっちゃんらも変わらず優しかった。うちはこれでええねん」
みんなは思わず涙して、えり正さんは何も言わず、1本締めで締めたと、良子さんに話しているのを、盗み聞きした次第。父が心腹を寄せる〈えり正さんは人格者や〉の意味がわかった。そして、夕子ちゃんはやっぱり僕が見込んだ通りイイ女やと思ったし、何だか切ない大人たちを好きに思った。
『静けさも 半年続かぬ 河内かな』これは僕が学校で俳句の時間に読んだ句だ。季語がないと叱られた。
季節は夏、魚常に一件持ち上がった。例によって、常吉さんの朝帰りが原因だった。「出て行け!」と怒鳴ったのは、初世さんの方で、初世さんは魚の捌きもできれば、売りも上手だ。困るのは仕入れだけだ。初世さんの叔父さんは大阪市内の魚屋さんだ。暴走族だった二人を心配して、常吉さんを説得して、叔父さんは常吉さんに魚屋修行を自分の店でさせた。二人に店をと探して、ここならとなって、お金は両方の親が出し合って開店したのだった。叔父さんに頼めば仕入れも何とかなった。これが、初世さんが強気に出れる理由だ。常吉さんにすればこれが面白くない。暴走族の番長を務めた輩である。
「自尊心が傷ついたと言っては、店は初世さんに任せて早仕舞い、元々遊び人よ」と、良子さんは初世さんの味方だ。二人は仲が良い。マー2、3日もしたら帰ってくるだろうとタカをくくっていた初世さん、1ヶ月経っても亭主は帰ってこない。「なんか事故でもあったんやろか?警察に届けた方がええんやろか?私が悪かった。女やのにでしゃばりすぎた」毎晩、良子さんとこに来ては涙を流して相談。良子さんもえり正さんに相談。そんな時、ふらりと常吉さんが帰ってきた。姿を見るなり、初世さんは常吉さんに抱きついて、誰はばかることなく店先でワンワン泣いた。それを見ていた良子さんももらい泣き、良子さん派手に涙が出たのか〈まつから〉取れて、パンダのようだった。
じゃれ合うように、仲睦まじかったのは3日程、ドンパチ始まって、今度は出ていったのは初世さん。そのまま帰って来なかった。一ヶ月程して良子さんに電話があった「今、福岡にいてる。前から好きな人やった。常さんには言わんように」と言って電話は切れた。良子さんは迷ったけれど、初世さんの言うとおりにした。
常吉さんは、パートのおばさんを入れて店はしのいでいたが、前のような元気はなくなり、何となく刺身の鮮度も落ちたみたいであった。女はワカラナイ生き物だと子供心に思った。
p5 良子さんの読書
この辺で良子さんと僕の生活を話してみる。お前は本当に小学校か、チョトませてぇへんか?「愛のひとしずく」なんて、小学校5年生の云うセリフやないぜ。母が4人も変われば多少はませもしましょう、大人の世界も同級生より知って当たり前、グレたりせなんだのは、継母がそれなりに良かったせいだと思っている。
良子さんは中学校しか出ていないが読書家だ。中学校しか出ていないから読書家ともいえる。テレビより本を読んでいる方が多いかもしれない。良子さんは本を読むときは必ず卓袱台の上に何か食べるものを置いて読む。読みながら食べ、食べては読む。
読み疲れたら、立ってダイエット体操を始める。体操する時もせんべいを加えたままだ。よく太らず豊満の範囲内に抑えられていることと思う。
良子さんの読書は二通りある。感動した本は必ず「これ読み」と渡す場合と、僕が階段上がってくると座布団の下に慌てて隠す場合である。僕はこの隠した方の本を専ら読書している。隠し場所は悪いけど知っている。「これ読み」の方は題だけ見て2、3日で読まずに返すのがほとんどだ。「どやった?」「よかった」で終わる。
かなりの乱読家だ。鉛筆で線を引いているのもあれば、明らかに途中でほっぽり出したものもある。結構雑学、物知りだ。
料理は店が閉まってからすることもあるが、結構手際が良い。これは鉄子さんも同じだった。皿盛りなどはしない。煮炊き物は鍋のまま、ドンと出てくる。洗濯は天気のいい日は毎日、前の日の下着を付けていると無理やり剥がされる。掃除は良子さんの部屋以外は、階段、風呂場、台所含めて僕の当番である。
良子さんは定休日の前の晩本店に帰って、翌々日の朝開店までに帰って来る。妻の勤めだ。勝治も一緒に帰ろうと最初言ったけど「鉄子さんの時も帰らなんだ」と言ったら納得した。別に父の顔を見なければならないお勤めは僕にはない。
本店の2階は何しろ襖隔てての小部屋二間だ、遠慮も入る。それより、藤井寺の2階を独占した快感がなんとも言えない。勿論、良子さんの部屋の探検は欠かさない。こんな時、〈例の隠し本〉を心置きなく読む。わからないとこも多いが、結構探求心を養ってくれる。中には感動本もある。涙なしでは読めない。なんでこれが隠し本なのかと思ってしまう。井上光晴さんの本もこうして読んだ。
良子さんは清潔好きで、僕のお風呂での洗い方が荒っぽいと、一緒に入れられて、痛いほど擦られることがある。狭いお風呂では豊満なお乳が僕の身体をくすぐる。
やっぱり、一人でゆっくりつかる方がいい。
***
最初、鉄子さんと二人でこの藤井寺にやってきた。「お母さんだけやったら、無用心やろ。お前が守ってやれ」と父は云ったが、どうも体良く放り出されたような寂しさを味わったものだが、慣れたら父の目を気にしなくってよい。こっちの方の生活が気に入ってしまった。
鉄子さんのええとこは、父の前でも、僕と二人の時とでも、全然態度が変わらないことだった。良子さんは父がいる時はいくぶんいい母ぶりをする。裏表が激しかったのが2代目だ。僕はこの人の名前が忘れる程、短期間であったことに感謝している。
鉄子さんは背筋がピーンと張った人で、僕は嫌いではなかった。気分の変わりの激しさを除いては…。でも、良子さんは、鉄子さんをよく言わない。「陰険な女で、逆恨みが激しい」らしい。二人の間に何かがあった証拠だ。
鉄子さんも、定休日前に本店には帰っていたが、何時しか帰らなくなった。それから半年、久しぶりに銭湯に行くと行ったまま、帰ってこなくなった。父には手紙があったようだが、僕には何もなかった。何故いなくなったのか?一つ思い当たることがあったが、父にも、良子さんにも云わなかった。
良子さんが急遽、鉄子さんの代わりに、店長兼、母の役でやってきた。何故〈多村〉でなく〈田村〉なのかは僕には意味不明だ。母と云うよりどっかお友達的なとこがある人だ。若いから「それも、いいっか」と思っている。そんな二人の関係だ。鉄子さんが学校に来るときは和服だったが、良子さんは洋服で、それだけでも助かっている。
他所の事どころではない、河内名物〈ビックリ仰天〉がこの「タムラ」に起きた。向かいの大黒屋が荷物を全部持ち出して、店舗造作を始めた。良子さんの報告に父は「ええこちゃ」と喜んだ。「何を売りはるねんやろ?薬局しはねんやろか?」と良子さんは店の進行に興味を持った。
看板がかかった。『婦人服飾 エトランゼ』。わー、同業やと良子さんはビックリ、早速父に報告、でも驚くのは早かった。シャッターは開けられた。その店に立った人を見て、良子さんは腰をぬかした。
***
鉄子さんが、にっこり笑って「商店街のお仲間に又、入りましたよって、よろしゅうにぃー」と挨拶廻りをしたのであった。商店街の人も驚いたが、良子さんの顔ったらなかった。比較的おうような良子さんであったが、開店記念の粗品を渡された手は震え、顔は引きつっていた。思いもしてなかった驚きよりも、鉄子さんの実力を一番知っているのは、良子さんなのだ。
今の〈タムラ〉のお客さんの半数は鉄子さん時代の人だ。高松の亜希子さんのアドバイスがあって何とかつなぎ留めたお客さんだ。半数と言っても、この半数の殆どが上得意客だったのだ。良子さんの驚愕は当然だった。
商店街のみならず、藤井寺の商売人が全てとはいわないが、この勝負の行方に興味を持った。鉄板の育子さんは鉄子さんと仲が良かったし、藤のママも鉄子さんが贔屓だった。初世さんもいなくなって、良子さんはこの商店街に来て初めて孤独を味わった。僕は出来るだけ陽気に振舞ったが、小学校5年生には何も出来ない。
鉄子さんが学校から帰ってきた僕に、店先に出てきて声をかけた。「勝ちゃん、大きくなったね」「何言ってやがんだい。自慢じゃないが、この一年商店街で色んなことがあって、神経がそちにいって、1センチも伸びてないんや。大体そのスタートが鉄子!お前がいなくなったとこから、始まったやど。ほんで、突然現れて、今年も伸びなんだら、朝礼で一番前に並ぶことになるやんけ」僕は鉄子を呪った。そして良子に同情した。いけない、同情は愛情に転化する。継母に〈恋い〉はいけない。僕は同情をやめて出来るだけクールを装って、この勝負を見ることにした。
こんな事もアリなのかと思った。そう言えば鉄子さんが本店に帰らなくなって、大黒屋の息子が荷物を取りに来たとき、鉄子さんに挨拶しても、さほどでなかったのに、急に愛想良く受けるようになった。ある時なんか、息子が何かプレゼントらしき物を渡すのを、僕は見ちゃった。この1年、大黒屋の愛人になっていやがったのだ。これぐらいは、母が4人も変わった僕には分かる。「何がお風呂に行ってくるや!アホ、ボケ、カス、鉄クズ!」
心配したことが起こり始めた、店の顧客がこっそり、鉄子さんの店で買いだしたのだ。鉄子さんの店には女店員が二人、どう見てもウチの二人は見劣りする。鉄子さんのサブみたいな女店員は松原の婦人服店にいたとかで、そのお客さんも引っ張りこんでいた。一番はミセスのニットもので有名なW社のブランドを揃えたことだ。父は昔ここの営業マンと喧嘩して取引をやめている。
W社はその組織力を使って、藤井寺、羽曳野地区にチラシの宣伝を打った。ブランドの宣伝であったが、取扱店として鉄子さんの『エトランゼ』を紹介した。援護射撃をしたのだ。オープンから1週間、W社のセーターの特価に客は列を作り、W社の男子社員が応援に2名駆けつけていた。
良子さんの夕食は細くなり、それに反比例してビールの本数は増えた。
***
良子さんは高松の亜希子さんに相談に行った。亜希子さんは鉄子さんの時からのお客で、鉄子さんもよく知っている。良子さんのセンスを認めていた亜希子さんは、こう言ったという。
「鉄子さんの接客に勝てるわけがあらへん。同じ土俵で勝負せんこと。鉄子さんが好きなお客は全部あげたらええ。あんたはあんたのセンスで勝負しいー!応援しているよ」
良子さんは考えた。3日、ロダンの考える人になった。僕も一緒にポーズだけ考える人になって付き合った。良子さんは決断した。父に相談で本店に帰った。帰ってきた顔はスッキリしていた。僕は安心した。もとの良子さんに戻った。
良子さんは取り扱っていたメーカーを思い切って入れ替えた。良子さんはもう少し若いヤングミセスの店にしたかったが、お金持ちのオールドミセスは切れなかった。
商品がガラリと変わって、古い客は「わー、私ら来られへんわ」と云って、喜んで向かいの店に行った。「タムラ」の売上は半減した。鉄子さんは勝ち誇ったようであった。
良子さんは動じなかった。前の二人の販売員も入れ替えた。若くなった店の商品に合うような綺麗な人を採用した。若いミセスや、OLの客が増え出した。沿線の奥には若手を扱う婦人服店もなく、古市、富田林、河内長野からもそのセンスの噂を聞いて、お客が来るようになった。又勤め帰りのOLが晩がた来るようになって、7時閉店だったのを8時にした。百貨店が6時閉店だった時代、阿倍野近鉄百貨店に立ち寄れない、兼業主婦やOLの顧客がついた。
二店は上手に顧客の棲み分けが出来て、勝負は引き分けに世間には見えた。「どっちもようやる。ええ女や」になった。僕は、良子さんに軍配を上げる。一旦売上を下げる決断は大変なものだと思うからだ…。許した父も偉いと、初めて思った。事実売上は1年後、1.5倍になっていたのだ。「商売っておもろいなー」と子供心に思ったのだった。良子さんの食べながらの読書は戻った。良子さんが「これ読み」と云った本は一応目を通すことにした。
p6 良子さんの生い立ち
鉄板の育子さんのとこに、育子さんが生んだ男の子が広島から一人で出て来て、その亭主が後を追って連れ戻しにやってきた。尾道時代母親に頭上がらず、育子さんに味方しなかった不甲斐ない兄を、妹の寛子さんが責めて、兄妹の大喧嘩になって、亭主は子供を育子さんに戻すことになった。
僕はこの話に感動して、いっぺんに、尾道弁の寛子さんが好きになって、寛子さんの誕生日にお小遣いで、誕生日ケーキを持って「鉄板」のシャッターを叩いた。
お風呂上がりか頭にインド人みたいにタオルを巻いて、寛子さんが降りてきて「なんやの、勝ちゃん」といった。
「今日寛子ちゃんの誕生日やろ、一緒にハッピーバースデーしょうと思って」「ワー、嬉しい!うちの誕生日覚えていてくれたん」手を持って2階に通してくれて、紅茶を入れてくれて、暗くしてロウソクをつけて、ハッピーバースデーを歌って、19本のロウソクを消して、真っ暗になって、僕は両手で顔を挟まれ、ブチューとキスされた。これが初キッスの体験だったけど、あとのケーキの方がなんぼかおいしかった。
駅裏の空き地の跡に大手のスーパーが進出してきて、ショッピングセンターができて、藤の喫茶店がそこにパーラーの店を出して、マスターがそちらの店に移って、喫茶・藤は私で持っているとママは思っていたが、マスターの入れない珈琲に客はなく、珈琲フアンはショッピングセンターのマスターの方にほとんど行ってしまった。自尊心が傷付けられて、夫婦仲が険悪になったが、元木酒店の定さんが、中に入って「あんたら、アホか。マスターが菊水の店に戻り、ママがパーラーの方に行く、そんな知恵も湧かんのか」と一喝されて一件落着。
センターのパーラはお子様連れやヤングの客で混み、イタリア人のような男前ウエイターと楽しげにキビキビと働くママは宝塚ジェンヌに見えた。一方商店街に戻ったマスターのもとにはマスターの入れた珈琲をこよなく愛する客が「やっぱりここがいい」と戻った。
ああーそれよりも、またまた、タムラに大事件。初代、母和子が現れたのだ。
良子さんと、鉄子さんはお互いを認め合っていたが、向かい同士、短い挨拶しか交わさない。その鉄子さんが、良子さんと長話。確か「和子」と聞こえたので、後で良子さんに訊いた。最初は躊躇していたが、思い切ったのだろうー、鉄子さんの話したことを言ってくれた。父が初代和子とミナミで一緒に歩いているのを見たというのだ。鉄子さんが言うのだから見まちがいはないだろうと、良子さんは言った。
やっと、鉄子さんの件が終わったと思ったら、次なる心配が増えたのだ。その晩、晩酌をしながら、良子さんは自分の生い立ちを話し出した。
***
「私が住み込みで前いた、お店はそれは酷かった。同じ年の女の子がいて、その子が高校に行き、大学に行くのは、それは何とも思わなかった。家庭の経済力の差は致し方ないし、仮になくても、本を読むのは好きだったけどあんまり勉強は好きでなかった。
その子の下着を洗うのも、別段家族の物を洗っているのだと思えばどうってことなかった。みなで揃って食事をするとき、家族と私のおかずに差があった。別にそれを絶対食べたいと思わなくても、食べ物の差は心に堪えた。夜も遅くまで仕事を言いつけられ、テレビも殆ど見せてもらえなかった。私は北海道の礼文島というとこで育った。利尻昆布が有名で、父は漁師だった。中学校を出ると大阪に嫁いだおばさんを頼って、大阪に来た。見るもの全てが驚きの連続だった。道の下を走る電車、地下鉄がどうしても想像出来なかった。田舎で地下を走るのはモグラだけだ。エレベーターだの、エスカレータだの、エスカレータの前では怖くて最初の1歩が中々進められなかった。1年程して、ようやっと大阪にもなれ、大阪弁の片言も話せるようになった。おばさんは、婦人服のお店の住み込み店員の口を見つけて来てくれた。築港のほうの、賑やかな商店街の中にあった。おばさんの紹介だから、4年我慢した。でも辛抱出来ないことがあって、おばさんに言った。おばさんは何も言わず、おばさんの家におらしてくれた。半年ほどして、おばさんがよく行く田辺本通り商店街で「タムラ」が住み込みの女店員を募集していると聞いた。大将も女将さんも従業員には優しい人だと、商店主らも言っているからどうか?と聞かれた。何時までもおばさんとこでお世話にもなっていられないし、本通り商店街なら、私もおばさんのお使いでよく行ったし、一度は「タムラ」で服も買ったことがある。女店員さん(鉄子さん)の接客も素晴らしく、二つ返事でオッケーした。
入って3日目だったか、表のウインドウを椅子に乗って拭いていたら、椅子が倒れて、私は後ろに飛ばされた。その椅子がガラスに当たって大きなウインドウが「ガシャーン!」と大きな音がして壊れた。音を聞きつけて奥にいた大将(父のこと)が血相変えて飛んで出てきて、私はてっきり叱られるものやと思った。でも、お父さんの一声は『良子さん、怪我はなかったか?!』だった。
私は、〈ここには居れる〉とそのとき、思ったのや!勝治ビールが切れたから、元木の酒店閉まっていても開けてもうて、2本ほどこうてきてんか!」北海道言葉や大阪弁や今日はチャンポン弁だった。
あんなに、メーター上げて大丈夫かいなーと心配した。シャッターが開いて、定さんが出てきたので、多少の顛末を話した。「最後まで、黙って話は聞くんやで!明日学校の帰り寄り」と言ってくれた。
かなり、ろれつが回らなくなった良子さんの話を要約すると、父は優しい人なのだ。特に女性には。和子さんがいなくなって、2番目がいなくなって、寂しそうだった父に鉄子さんは同情した。ともかくこの一緒の食事が良くないと言うのだ。鉄子さんが藤井寺に行って、父と二人っきりで食事をすることが多くなって、おかしくなってしまって、鉄子さんが出ていった。「お父さんは、優しいひとや、せやから和子さんのことが心配や・・むにゃ、むにゃ」
僕は毛布を押入れから出して、背中にかけた。「父は優しい人なんぞではなく、スケベ-で優柔不断なだけや」と思った。
***
良子さんは、和子さんを知らない。初代は気配りが出来て、愛想が良くて、綺麗で、どうして、多村の潔っさんがあんな人を嫁さんに出来たのか、商店街の7不思議の一つにされていた。父は悪いが背は低い。僕はその悪いDNAを受け継いて前から2番目なのだ。さして男前ではない。僕は初代母に似てよかったと思っている。自分では結構気前がいいように言うが、結構ケチだ。取り柄と云えば、良子さんの言う「女に、やさしい」のと、あまり細かいことを言わないとこぐらいだ。酒も、バクチもしない。煙草は吸っていたが、やめると言ったら、買い置きのタバコがあっても、スパーと止めた。
外に出るときは何時も買い置きのタバコを1箱もって出た。封は切られていない。その訳を訊くとこうだ「相手が吸い出すとつい欲しくなるものだ。つい1本下さいになる。これを、貰いタバコをすると云う。持っていると、俺はタバコを持っている。封を切らないだけだと思える。そうして、貰いタバコをふせいだ」ということだ。結構意思は強いのだ。
良子さんは鉄子さんより、初代母のことは散々聞かされている。人は、聞かされているが、見たことのないものには、必要以上のイマジネーションを抱く。良子さんは見えない敵に怯えた。豊満だった身体もどことなく、スリムになり、笑顔がよく似合う顔に憂いを含むようになった。良子さんは、気の強いとこと、変に弱いとこがある。父に問いただしたり、追求したりはしなかった。一人で悩む良子さんを見ていると、僕は切なくて、父を恨んだ。
良子さんの晩酌のビールの本数は増え、本店に帰る回数も減った。ある日「久しぶりに、大きな湯船に浸かりたい。銭湯にいくわ」と云った時には、僕は鉄子さんの例を思い出して、心配したが、「勝治、ソフトクリーム買ってきたで、食べよか」と帰って来てくれたときは、しがみついて泣いた。何と俺は女に弱いのだろう、父と何ら変わらんと思った。「おかしな子やなぁー、溶けるからハヨ食べよ」と良子さんは僕の頭を撫でた。
p7 男は覚悟が大事なんや
鉄子さんによると、父がミナミの料理屋に知人と行ったとこに、母和子は仲居でいた。父はその日はそれで帰ったが、母の境遇を心配して、また行き、外で逢うようになった。元々和子さんが嫌いで別れた訳ではない。その落ち込みようは大変で、2代目がそこにつけこんで、居座り、後釜に入ったが、店の売上金をへそくった。父はそれが許せず追い出した。鉄子さんはそんな父に本当に同情した。鉄子さんにしたら、やはり良子さんに盗られたという思いは消せなくて、「エトランゼ」の開店になったと思う。
鉄子さんはどちらかというと、父と和子の中が戻り、良子さんに同じ思いをさせたい気があった。同情したふりして、良子さんに情報を提供しているが、腹のそこは見えている。前母だ、一緒に暮らしたのだから、そのぐらいはわかる。
良子さんがえらい神妙になって、僕に訊いた「なんちゅうても、あんたを産んだお母ーちゃんや、逢いたいやろぅ」。目には涙が滲んでいた。
僕は、元木の定さんに相談した。定さんのいいとこは、「子供はそんなこと心配せんでもええとか、知らんでもええとか」子供扱いをしないことだ。僕は定さんからいい言葉を聞いた。「勝ちゃん、男やろ。決断の覚悟のときやで!」
「良子さん、お父ちゃんに話したい事があるねん。一緒に本店に行ってくれへんか」といい、向かいの前母鉄子さんに立会人をたのんだ。「お父ちゃんに話しがあるよって、行くわ」に一人で来るものと思っていたのが、前と現が一緒に現れたので「何事!」と父は泡くったようであった。
僕は父に言った。男の覚悟で言った。
「お父ちゃん、今まではお母ちゃんが変わっても、僕はなんにも言わなんだ。子供の口が出せることでもないし、お父ちゃんが嫁さんと決めたら自動的に母になりはるもんやと思ってた。産んだ母は僕に何にも言わずに出ていった。お父ちゃんも辛かったけど、僕かて辛くて寂しかったんやでぇー。もう、お母ちゃんが変わるのは嫌や。初代の母をもう一度おカーチャンとはよう呼ばん」
父は何も云わなかった。良子さんは泣いていた。鉄子さんの目にも涙が滲んでいた。
良子さんは〈田村〉を〈多村〉にかえた。良子さんと、鉄子さんは昔のことを忘れたように、商店街の道の真ん中で立ち話をするようになった。良子さんは雨が降っても笠は持ってこなくなった。僕は中学校に進み、高校は大阪市内の進学校に進んだので、本店に帰り、父と一緒に暮らすことになった。鉄子さんは入学祝いやと云って、パーカーの万年筆をプレゼントしてくれた。僕の欲しかったものだ。
良子さんは週に一泊2日で帰ってくる。僕は勉強部屋をかねて、鉄子さんや、良子さんが使っていた、裏のアパートの部屋を借りてもらった。今は〈住み込み〉とかは無くなったが、彼女らの苦労や、大変さは私の娘なんかには話してもわかるまい。
田辺本通り商店街は今やシャッター通りになって商売はきかなくなった。父は60才で亡くなった。良子さんはそれを期に藤井寺の店を売り払い、老いた両親のいる、北海道礼文島に帰った。毎年利尻昆布を送って来てくれる。鉄子さんも店を引いて、お花やお茶と芸事に明け暮れていると、耳にした。商店街で育った私だったが結局商売の道には入らなかった。
藤井寺に行ったら8軒の菊水商店街を覗いてやってほしい。〈タムラ〉や〈エトランゼ〉はないが、商店街は今もあるはずだ。
***
エー 大和と河内の国境
中にひときわ悠然と
ヨーホイホイ エンヤコラセ
ドッコイセ
そびえて高き金剛山よ 建武の昔大楠公
その名も 楠正成公 今に伝えた民謡
河内音頭と申します 聞いておくれよ
荷物にゃならぬ 聞いて心も
うきうきしゃんせ
気から病が出るわいな
歌の文句は小粋でも 私しゃ未熟で
とってもうまくも きっちり実際まことに
みごとに読めないけれど
八千八声のほととぎす
血をはくまでも つとめましょ。
了
資料:
今 東光(こん とうこう、1898年3月26日 - 1977年9月19日)は、横浜生まれの天台宗僧侶(法名 春聽)、小説家、参議院議員。大正時代後期、新感覚派作家として出発し、出家後、長く文壇を離れるが、作家として復帰後は、住職として住んだ河内や平泉、父祖の地、津軽など 奥州を題材にした作品で知られる。
天台宗総本山延暦寺座主の直命により大阪府八尾市中野村の天台院の特命住職となり西下する。天台院は当時檀家が30数軒の貧乏寺であった。その住職を、
「オイ。ワレ。こんどの和〈オ〉っさん(和尚さんの意)。エライ、ヤマコ張っとる《ペテン師》やナイケ。」などと噂し合ったという。摂河泉、畿内古代道を渉猟し、檀家信徒と接する衆生教化の日々の中に、河内人の気質、風土、歴史への理解を深くし、東大阪新聞社『河内史談 第参輯』1953 に「天台院小史」を執筆。「河内はバチカンのようなところだ」「歴史の宝庫だ」と、作家魂が蘇生、個人雑誌『東光』を刊行した。のちに文壇復帰のきっかけとなる「闘鶏」を取材執筆しながら、「ケチ(吝嗇)・好色・ド根性」といった河内者の人間臭と、土俗色の色濃い河内地方の方言や習俗に親しんでいった。のちにエンターテイメント作家としての代表作のひとつとなる『悪名』の主人公、朝吉親分のモデルとなった、岩田浅吉との出会いもこのころであった。
前年1956年に裏千家の機関誌『淡交』に1年間連載していた『お吟さま』で第36回直木賞を受賞し、一躍流行作家として文壇に復帰する。
檀家の話は、ケンカだ。バクチだ。ヨバイだ、ジョロカイだって、そればかりでしょ(笑)。放送局(BK:NHK大阪)が取材に来て録音してっても放送できないっていうのヨ(笑)。」「それでいて、夜中になると、そのテープ、みんなで聞いてはゲラゲラ笑ってるんだって(笑)。あのテープ、どこかに残ってないでしょうかね。」(「驚きももの木20世紀」「知ってるつもり」等、民放取材にこたえての夫人談)
『悪名』は1961年に勝新太郎、田宮二郎出演の映画(大映)となりシリーズ化されるほど大ヒットした。
1973年11月の瀬戸内晴美の中尊寺での出家得度に際しては、師僧となり「春聽」の一字を採って「寂聴」の法名を与えた。
1968年には参議院議員選挙全国区に自由民主党から立候補、当選し1期務めた。