たそがれ磁石ー第2部ー
「おう、結衣。おはよう」
俺は月曜の朝、大学で結衣を探し出し、挨拶した。
「おはよ」と挨拶が返ってきたのはよかったが、案の定なんの親切気もない調子だった。
素っ気なく挨拶を返して、結衣は俺から歩いて去っていった。
いつも肉感的で温かい結衣の瞳が昏くなっていた。
その昏い瞳は怒気を孕んでいるようにも感じた。
先週の晩、俺はやらかした。
その日は俺と結衣は珍しく一緒に夕飯を食べに焼肉屋に行った。
少なくとも焼肉屋では結衣に異変はなかった。
いつも通りのツンツン、時に丸い結衣が目の前で焼肉を食べていた。
事は結衣からの提案である、食後の運動と称した散歩で起こった。
さらに俺と結衣との間の会話の内容まで記憶を辿ってみた。
やっぱり原因は俺がこのピアスがなんなのか憶えてなかったからだろう。
それ以外に考えられなかった。
結衣は俺がこのピアスを憶えてることを前提としていたから、俺はこのピアスがどんなピアスなのか答えなくてはならなかった。
なのに俺は。
「はぁ……失言だった」
肺の底から重たい息を吐いた。
俺は自分の左耳たぶについているピアスを外し、四方八方から観察して見た。
しかしシルバー色のフープピアスはどの角度から見ても、なんの変哲も無い普通のピアスにしか見えない。
強いて言えば、少し年季が入っていてサビがかってるくらいだが、それ以外は何も異変など見当たらない。
このピアス自体何もないが、昔結衣とこのピアスの事で何かがあったのは間違いない。
結衣だけが知る真相が気になり、居ても立っても居られない俺は帰宅後すぐに結衣の携帯に電話をかけた。
コール三回目で結衣が電話に出た。
「……ユウくん?」女性の濁った声。でもその声の持ち主は間違いなく結衣だった。
「いきなり悪い。その声…寝起きだよな?ごめん。今大丈夫か?」
結衣は昼寝をしていて、俺の電話で起こされたらしく不機嫌そうだった。
「いいよ、ごめんね。どうしたの?」
「こないだのごめん」
「……」
結衣は黙り込んだ。そしてしばらく沈黙が時間を支配した。
やがて結衣は口を開いた。
「別に怒ったりしてないよ。でも……忘れてしまってたのね」
「ピアスの事か?」
「そうよ……もしかして思い出したの?」
うっと胸が打たれたような感じがした。ここは正直に言うしかないと悟った。真実を訊き出すために。
「ごめん、憶えてないんだ。なぁ、このピアスはいったい何だ?俺と結衣は昔何があったん——」
「……くそっ!なんでこんな時に……」
会話が途切れた。スマホの画面が暗くなってボタンを押しても反応しない。スマホのバッテリーが切れたようだ。
俺は急いで充電コードをコンセントに挿し、スマホが再起動するのを待った。
スマホが起動して操作が可能になると、俺は急いで結衣に電話をかけた。
しかし結衣は電話に出なかった。
何度か掛け直したがやはり結衣の応答はなく、考えた末、メッセージを残すことにした。
『傷つけてたらごめん。けど訊きたいことある。明日授業終わったら日吉駅に来て。』
普段学内にいる時は俺が結衣を見つけ出して話すのだが、今回は確実に結衣と話したくて半ば強制的に呼び出すようなメッセージを送った。
結衣は本来は堅気で几帳面で約束事はきっちり守る女だ。
それを理解した上での方法だった。
ピアスに関する約束は依然としてバックレるけれど。
かつて結衣ともっと学内で会えるように、結衣と被るように履修を組もうとしたが、結衣に「自分の興味ある授業を取らなきゃ大学行く意味がないじゃない」とキッパリ言われてしまった。
俺も関心のない授業を「関心ある」と誤魔化せるような器用さは持ち合わせてなくて、結局各々本当に関心のある授業を選択したのだ。
夜はどうしようもなく焦燥感に駆られ、なかなか眠りにつけなかった。
俺が駅に着いてから三十分経った後に結衣が来た。
一日の授業を終えて大学から学生達がぞろぞろと来てごった返していた駅の中で後ろから結衣に「ユウくん」と呼ばれた時は正直安堵した。
約束事を守る女と分かってたけれど、今回ばかりは来ないのではないかと思っていた。
まず結衣に訊きたい事は。
「昨日電話に出なかったけど何かあったのか?」
「ごめんね、寝落ちしたの。起きた時は夜中でかけ直すのは迷惑かなって思っただけ」
結衣は俺が思ったよりも明るかった。寝起きだったとはいえ、昨日の結衣の声はとても重く感じた。
これから恐る恐る質問していこうとしていた俺は少し肩の力が抜けた。
「で、どうしたの?」
「昨日の話の続きだ。そこらのカフェ行かないか?」
せっかく来てもらったのに、こんな雑踏しているところで立ち話というのも酷だと思った。
「いいわ。ここで話して」と俺はあっさり断られた。
結衣はさっさと本題に触れてほしいのだろう。
「このピアスについて教えてくれ。忘れたのは本当に申し訳ないと思ってる。でも改めて知りたいんだ」
俺は結衣に懇願した。
「別に大したことじゃない。気負わないで。無理に思い出さなくてもいい」
冷たく言いはなされた気がした。けれどここで下がるわけにはいかない。俺はどうしても。
「大した事ないのなら、なんであの時泣いてたんだ?」
「え……」結衣の表情が曇った。
結衣は、泣いてたの分かってたの?と言ってきそうな、少し驚いた様子を見せた。
そう。あの日の晩、結衣はとても悲しそうな顔をして、目に涙を浮かべていた。
あれは見間違いなんかじゃない。
「……」結衣はまた黙り込んでしまった。
俺はだんだん苛立ち始めてきた。
「黙ってちゃ分からない。いい加減教えてくれたって——」
「いいの!」と、突然結衣は声を荒げ、俺は一瞬固まってしまった。近くを歩いていた人たちの視線を浴びた。
「……ごめんなさい。本当にもういいから。私からこれ以上訊き出さないで」
俺は「ごめん」と謝るしか出来なかった。
結衣は続けて「あと本当に今更だけれど……九回もバックレてごめんなさい。ピアスの件はもう忘れて」
結衣はそう言うとやはり俺の左側を抜け去っていった。
「……え?おい……」と呼び止めようとしたが、かける言葉が見つからなかった。
遠く離れ小さくなっていく結衣の後ろ姿を、ただ見ているだけしか出来なかった。
冷静さを欠いていて熱くなっていた俺がハッと正気に戻ると、すぐさま結衣を追いかけようとした。
しかし走り出した瞬間に足がもつれ、派手に転んだ。
再び周囲の注目を浴び、クスクスと笑う声が耳に入ってきた。
起き上がった時には結衣の姿はもう何処にもなかった。
「やっちまった……」後悔と不安の波が俺に押し寄せてきた。
目の前が真っ暗になり、残ったものはやっぱり。
左耳の痛みだけだった。
俺は一刻も早く枕に顔を埋めたいが為に、急ぎ足で帰路についた。
俺は結衣が好きなだけなのに、事態はもはや結衣に告白どころではなくなっていた。
あんなに開けたがっていたピアスも、もういいなんて。
さっきまでは真っ暗な闇の中で、必死に踠き、手探りで何かを掴もうとしている。
そんな自分がいた。
でも今は、もう疲れた。
早とちりも甚だしいと思われても仕方ないが、もう結衣に振られたような気もした。
睡眠をとるためにシルバー色のフープピアスを外すと、ピアスに何か付着していたことに気づいた。
角ばった黒い粒みたいな物が付いていて、一瞬不気味に思い焦ったが、心当たりはあった。
さっき転んだ時に汚れてしまったのだろう。
ティッシュで拭き取ろうとしたが拭いてもなかなか落ちない。
黒い粒に触れたその瞬間だった。
「まさか……嘘だろ……?」と、思わずそんな声が漏れ、緊張で手に汗を感じた。
まさかこれは――
よく観察してみると、コレは、ただの汚れではなくて。
俺の記憶を取り戻す、最重要の物質であって。
今までずっと身につけていたピアスは、強力な磁力を帯びていて。
――ピアスに付着していたものの正体は、ピアスによって集められた、砂鉄だった。
その時、全て繋がった。
結衣との思い出が脳の隅々まで広がった。
どうして俺は忘れてしまったのだろう。
俺と結衣はあの時――
次の日、結衣は大学に来なかった。
どんなことがあろうとも無遅刻無欠席で授業に臨む結衣が休むなんて珍しかった。
欠席した理由が知りたくて、メッセージで送ると、思いのほか五分と経たずに返信がきた。
『ごめんなさい。家で色々あって今日はバックレる!』
直接昨日思い出した全てを結衣に伝えたかったのに。
昨日ゆっくりと記憶の全てを咀嚼し、飲み込んだのに。
姫野結衣はまたバックレた。
今回で十回目である。
――第二部 完――第三部に続く。