夢譚少女
カウンターで思い出に耽って涙しそうになっている私に、少年が話しかけてきた。
子供である。
なぜか、鈴蘭の香りがした。
影のない少年とのとりとめのない会話に沈殿しながら、ノーラは少しだけ、元気になった。彼女が外をみると、はられた白いシーツに、影が映し出されていた。そこに、少女が二人いた。
なぜか、とても懐かしい気がして、視線をずらせなくなった。
鈴蘭の香りが強すぎて、眩暈がしてきた。
少年が言った。
「變生だね」
刹那、まるで舞台が暗転するように世界が消え去り、私は木の扉の前にいた。
2と部屋番号が記されていた。
少年の記憶が流れ込んできた。
本当にこわいのは二番、じゃないかしら、
と向田邦子という昔の作家が書いてたから、「2」という番号の部屋を選んだのだという、今からだと次元も時代も遥かに隔った頃の記憶だった。
2号室の扉は開いた。
「おかえり」
少女みたいな声色がコロニアル調の廊下に綺麗に流れた。
扉を開けてくれた腰までの黒髪で背が高い少女に、奥には夕陽のような赤みをおびた短髪の少女が椅子に座っていた。
「むすがしいことをして、しっぱいしいたのよ、ね」と、奥から話しかけてきた。
「そうなの、かしら」
「エエ、まぁ、そうね」
と、黒髪の少女が扉を閉めながら、
「今回はひとりなのね」
と、ため息をついた。
「一女子、幸せが逃げるわ」
「灯美子、うるさい」
どうやら、黒髪が一女子、赤髪が灯美子というらしい。
私はどうしてここにいるのだろうか、と悩んでいたら、
「夢だから」
と黒髪が、
「気にしないで」
と赤髪が言った。
私は自身が冥界の生き物になった気がした。幽霊である。世界のどこにでも現れて、どこでも覗き見て、全て知りつつ、全てに関われずにじれったい思いをするのか、それとも、自分が実在しない世の中が、思いのほか普通に繰り返されていくのを、ほっとしているのか、私自身にもよくわからなかったが、現実から話しかけられるのは、不思議と嫌ではなかった。
まるで、地上にいって、繰り返される世界に溶け込んでいた時のような、妙な感覚だった。
あら、と思う。
もしかしたら、世界とは、本来はこうしたいつくもの虚な時空を自在に行き来することの方が普通ではないのかと。
肉体とは生命の牢獄であると、誰かいっていただろうか?
言葉、会話については似たようなことを語っていた哲学者はいた気がする。
もっとも、全く逆のこと、私はこのように聞きましたというだけで、全ての正統性を納得させてしまう考え方もあったはずだ。
もっとも、その二つは同じ方向に視線を注いでいるわけでは無い。
私は姿なきまま、部屋で三人でお茶をすることになった。
ほっそりとした、黒髪の一女子が私を席に座られせた。飴色の古い木の椅子だった。
「迷子ね」
「そうね。死も世界の事実ではないわよ」
「私は、死にたいわけではないの」
「事実はかわらないね」
「図書館は燃やされることが使命なのよ」
「ひどい時代には常に音楽が流れていたわ」
私は戸惑ってた。
「ねえ、あなたは後継者になりたいの?」
「えっ」
「だって、本を見つけるって、そういうことでしょ?」
「失われても、世界は楽しめるのよ」
私の意識は消えっていく。夕暮れに溶け込むようにして。三人の仕草は、とても綺麗で、言葉を発する器官の一番手前にある唇は素敵だった。
それでも、私はここが不快だった。
なぜだろうか?
あの、虚構世界の渋谷でさえ、私にっては、心地よい冒険譚だったのに。
「ねぇ、あなにも、代理人が必要ね」
「あら、奇遇。あたしも、同意見」
「賛成だわ」
「誰かしら」
「もう、決まってるわ」
「時間は残酷ね」
「幸せよ、人間だからこそ」
夢は途絶えて、私はベッドに寝ていた。
状況の変化を知覚するには、今少し必要だった。
朝、目覚めたら、ベットサイドに男が立っていた。
「ヒロシです、お久しぶりです」
と、彼は丁重に笑顔だった。服装はラフではなく、執事風だったので、いわれても私にはちょっとの間、理解できなかった。
いや、あの地上での、あの経験の相手が現実として目の前にいることって、ありえるのかしら?
まるで、童謡の世界に迷い込んだ少女のように、私は言った。
「私はあなたの初めての人よ」と。
あの記憶で私は顔が真っ赤になったけど、彼は静かに、
「君のことを知りたい」
と。