第四間界彷徨
私はある時、考えついた。
世界とは密度である、と。
考えが初めて纏まり始めた時。
小学校のありふれた教室で椅子に座った私は、窓から外を眺めていた。教師の声はいつの通り耳障りだったが、私の両目は空中を見つめていた。
そして、ある日、空中のなにもないところたゆたう粒子たちをみつけた。そして、私は私自身をみつめた。
そうか、世界とは粒子であると。
小学生、三年生の春だった。
夏、親の机の上に見慣れない金属の板があった。私はこれは何かと父にきくと、それは弁護士である彼の顧問先が開発してている新しい商品で、計算する機械だと言って、すぐに訂正した。
「これは、考える機械だ」と。
私はすぐに思いついた。この板を粒子の大きさまで小型化して密度に濃淡をつけた空間を作り上げたなら、それは宇宙そのものではないのかと。
当然、その完成形は光を使用したコンピュターになる。それには光をとめたり、とじこめたり、転移させたりする技術が必要だと思った。
そして、もう一つ。
そもそも、密度の変化は何によって起こるのか、だ。
私は改めて私の周囲を観察した。特に人の離合雌雄について。特に教室というフレームは観察するには格好の舞台だった。
規則正しく置かれた机と椅子。正面にたつ教師の発する言葉に従い、教師が黒板に描く文字や図形に目と指は導かれて動き、今思えば、なんとも電子的ではないかな。
そして、そして、その電子的な動きの連続とは別に、この教室内の非公式な活動原理にも気づいた。それは会話だ。特に、噂話だ。噂話は、それ自体がまるで実体があるかのように無形無味無臭のまま教室内を徘徊してまわっている。
直感として、密度を決めるのは「噂話」だった。
言語は良くも悪くも生存に必要な情報を交換するために、お互いの擦り合わせながら、共通の単語へと進化していったように、一つ一つの粒子が発する噂話が交わることで形式が生まれ、その質量によって徐々に密度の濃淡が生まれていった。
人の一生と比較すれば、気の遠くなるような時間をかけて、世界は現在のような物質世界へと進化したわけか。
この発想から十二年後、私は、このことが私以外の人物たちによっても、理解されるていることを確認した。
その頃、私たちは世界に「端末」を配り始めた。
「有機体は生ではなく、生を閉じ込める」とは、その年に出版されたある哲学者の本に印刷されている一文だ。
まさに、私の考えだった。
私たちが考えるすべては、閉じ込められている。だからこそ、私の一部は絶え間のないヒステリー状態だ。
端末を配った後は扉は閉めて、「窓」を開け放つつもりだ。
いつも思い出がたどり着くのは、あの小学校の埃っぽい教室。なぜか、琥珀色で、私は一人窓の外を頬杖をつきながら、窓枠に区切られた世界を眺めている。
私は動かず、じっと座り続けている。
この時、私はまだ、このノイズ、恩寵に出会っていなかった。
私は恩寵に出会ってからは慎重に行動した。それは、私や私たちが伝統的に考える恩寵とは異なっているように思えたからだ。
そこで、私は通っていた大学の女子部に、かつて異なった宗教の権威、ノーベル平和賞の候補にもなったともきいていた、と結婚した卒業生がいるとことを思い出した。
「愛とは決して後悔しないこと」という台詞の舞台として有名な学校だが、私もこの件については後悔したくなかった。
それにしても、進化論と宗教の幸福な出逢いというのは、果たしてどうなのだろうか。私は決して、敬虔な信者ではない。ただ、まだ胎児の脳神経のような遅さで情報を送り合う、私と彼の出会いを、どのように考えたら良いのだろうと迷っていた。
だからこそ、私は一年間、彼を観察することにした。
私は会社関係の仕事で知り合った調査会社の紹介で、吉村夏彦なる人物に一年間の監視業務を依頼した。
私は彼と接点を得たことで、のちに「トリスメギストス」と呼ばれる組織の構築へと進むことを決意した。
錬金術の本質は、有機物という不安定な箱に閉じ込められた私たちを、金という普遍なものへと変化させることで、幸福になれるという思い込みだった。
錬金術は、その現実的な不可能性によって、見捨てられたのではなく、もっと、心的な辛さによって大多数の人々の欲求から見捨てられた。
私にとって、そうした考察は一応の教養として押さえておくとして、彼の「夢の世界」だった。
目の前に新しく、次々と現れる出来事が、すでにあったこととして知られるとして、果たして、それはなんなのだろうか、という当たり前の疑問だった。
確かに、限られた条件や世界、社会、集団の中において、起こりうることがらを「予知」することは珍しいことではない。
けれども、今と比較して、今においてなんの因果関係も、どんなに頑張っても、計算しても見いだせない、あまりにも明確にして不可思議な未来を、何度も現実として経験したとして、私は彼の心理的状況に同情できるのだろうか?
たとえば、長編小説のところどころをつまみ読みして、場面場面は素晴らしく感動的だけれども、これがどうつながるのか、それを楽しみに順に読み進む楽しみとは真逆な辛さがあるのだと思う。
世界は、実は、そのように出来ている。
私は彼を観察し続けて、確信した。
印象深い思い出すのは、私たちのライバルであったマッキントッシュの新製品を予知したことだ。
半透明の筐体という珍しいデザイン、それを彼は夢でみたという。日本において、製造会社ですら一部の者しかしらなかったことを、彼が知る術はなかったはずだった。
また、彼が百年の冷凍冬眠に入ったあとに、現実として証明された予知夢もあった。A.Iという映画のラストを彼は鮮明にしっかりとみていた。この映画の脚本ができあがる前にだ。
私は、私の夢である粒子レベルの考える機械の群による世界の再構築によって、彼の予知夢を科学的に再現できるのではないかと考えるようになっていた。
最新の理論や機械工学、宇宙論などを検討した結果、その再現には百年かかると予想された。
私はこの計画を「代理人」と名づけた。
わたしはこの際、あえてマーシーァハと、その派生語などを避け、彼が企画していた代理人ソフトにちなんで、エージェンーと呼ぶことにした。
そして、私は彼と協力して、彼の計画と私の計画とを統合することにした。
一年間の観察結果として、私は彼がノイズの発生源だと確信したからだ。
神の世界を第一とすれば、人の楽園を第二、
追放された俗世を第三としよう。すると、私は第四の世界へと彷徨をこの時、始めたのだった。
けれども、私はノイズそのものを解明することはできなかった。
そして、現実と新しい現実の間に溜まったノイズは、想像もしない現象を引き起こした。
ノイズもまた、密度を得て、私たちへと視線を向けていたのだった。