汝らネットを心とし、今こそやすらかに眠れ
物思いに耽っていると、赤ワインの香りが漂ってきた。
運ばれてきた白く丸い皿の窪んだ中央に、濃い赤色のリゾットがかわいくまとまっていた。
ノーラがスプーンでその全てを口へと運び終えると、コーヒーが運ばれてきた。
「赤いワインにつけたコーヒー豆でいれました」
「ほんとね、ワインの風味がするわ」
テーブルを挟んで立っているはじめに、腹の具合が整ったノーラは母との諍い呟くくらいには不安も和らいできた。
「ねぇ、料理にはあれはあんまり影響ない?」
「そうですね、人の頭の中身が繋がるわけですから、料理の説明はしやすくなるかもしれません」
と、はじめは笑った。
「そんなものかしら」
「味や香りは、見た目ほどには伝えにくいものですから、お客様の食べたい料理を間違いなくお出しできるようになれば、料理人としては助かりますね」
「でも、他人と頭の中身を共有したり、利用しあったり、それに、アドバイスが勝手に送られてきたりって」
ノーラはこの辺については、母と意見を共有していたけれども、はじめは言った。
「料理は人とその他の命や物質との相互理解というか、同一化ですから」
「反対じゃないのね?」
「いや、まぁ、そう睨まれも。それに、私は人類をふたつに分別するのには、反対ですよ」
「そうよね、ペイガンなんて、絶対だめよ」
「ええ」
「でも」
その先を言い淀んだのは、意見は母と似ていても、それに対するこれからの行動には、どうしても賛同できなかったからだった。
「でも?」
「なんでもないわ」
と、ノーラは席を立とうとしたが、もう電車がないことを伝えた。
「私は用事があるので出かけますが、よかったら、ここに泊まっていけばいいですよ。今晩は、他にお客様もきそうにありませんから」
「わるいわね」
「いえいえ、これもご縁ですから、ね」
と、奥から折り畳み式のコットと毛布などをもってきた。私の仮眠用ですがと説明すると、それではと姿を消した。
不思議なことねと思いつつ、ノーラは今一度、諍いの原因を考えた。
ある日、突然、人類が積み重ねた科学が生み出した最も便利な道具が、実は人にとって麻薬以上に悪質なもので、その上、それがないと人しての「心」を持ち得ない野蛮な生き物だと、知らない誰かに宣告されたら、誰もが戸惑い、そして怒り、暴力的になっても仕方がないとは思う。
確かに21世紀に入って世界は再び戦争の季節に入った。その時は、この困難な季節を乗り越えたとしても、生き延びた人間が文化的な心を持った生き物として存在できるのかどうかすら不安に思えるほどの残酷さが発達途中のネットワークによって毎分、世界中の人々に突きつけられた。
そう、あの時代、私たちが最早、祖父母の昔話として語られる世界を、私たちが経験として人間らしく生きられているのは、私が今、不満に思っている人ナビのお陰だった。
善悪に対する助言だけでなく、人を傷つけ、人を(間接的に)殺すことを避けられる知性としての第三世代ネットワーク。まぁ、始まりはARゲームに実装されたAIだったらしいけど。
でも、それが人を区別して世界を統治しようとする集団による陰謀だったかもしれないんなんて。
でも、だからと言って、世界中の最悪の暴力装置を使って、半世紀ぶりの戦争を始めるなんて、ノーラには受け容れられなかった。
明日の正午、世界中が溜め込むだけ溜め込んだ核ミサイルの全てを使って、自分たちを蛮族だと侮蔑した、自称「人」の本拠地である成層圏に浮かぶ未確認物体を破壊するという計画だった。
偶然、母親と誰かの会話を漏れきいたノーラは、母親に抗議したけれども、母親はすぐにシェルターに避難するから準備をしなさいというばかりで取り合わなかった。その結果として、家を飛び出して、今、ここにいるわけだった。
明日、朝、帰ったとしても、お昼には核戦争が始まってしまう。
多分、と彼女は考えながら、外へ出た。
暮れの寒さを感じないことに、はじめて気がついた。
ここは、一体、どこなのかしら?
星がいつもよりも近く感じる上に、輝きの数が比較にならないくらいに多かった。
出してもらったコットをガラスの壁の前に置いて腰掛けた。毛布を膝にかぶせる。
すごい景色だった。
天の川が燦々と輝く夜空から降り注ぐ光を反射して輝く一面の菜の花。
誰だったかしら、大昔の科学者で、科学者は自然を恋人にしなければいけないと書いていたのは、と疑問に思ったとき、こんなとき、人ナビが勝手に話しかけてきて、答えを教えてくれるのが苦手だった。
「ねぇ」
と、声に出してみた。
返事はない。
人ナビのシステムへも攻撃が始まっているのかしら。それとも、ここが圏外なのか、非自覚的注意力回復地域なのか。
いずれにしろ、私は逃げてしまったんだ、と後悔しはじめていた。
正直、親子喧嘩なんだから謝って仲直りすればいいのはわかっていた。ただ、何故かはわからないけれども、このタイミングで私がここにいることには、意味があるような気がする。
それにしても、星って、こんなに沢山あったのね、とノーラは独りごちた。これなら、大昔の人たちが星や月、太陽の運行を計算する機械を作った動機もわかる。だって、私たちの居場所と、この世界の繋がりを理解できないのには、やりようのない寂さを感じるからだ。
大小の精巧な歯車を組み合わせた機械をノーラは見たことがあった。あれは子供の頃、アテネの考古学博物館でのことだった。オリジナルと復元された物が並べられていた。金色に近い色の輝く金属の板に刻まれた数条の円とダイヤル。中には歯車がたくさんあった。とても精巧な、こんな機械をつくれる人類は、尊敬に値する存在なのだと、ノーラが初めて確信した日だった。
でも、あれから十数年、揺らぐことのなかったその確信は、明日、打ち砕かれるかもしれない。人が手にした最大の炎、兵器としての核が使われるからだ。
どんな相手にも、ただ相手を破壊するためだけに接するのは、人のすることではないと思いつつ、コットに横になると、自分が地球という生き物の皮膚になって気がした。前にあるのは夜空だった。ノーラの皮膚と服のすぐ先から、世界は夜空だった。
そして、彼女は思った。
もし、私が攻撃対象の中にいたら、母は考え直してくれるだろうか、と。また、それしか方法が残っていないのではないかと。それに、こんなことをした張本人たちと話したいと思った。くやしいから、自分で交渉したい、それに、もっと悔しいけれど、こんなことをする相手に興味があった。
店の灯りが不意に小さくなった。
夜の帷はいよいよ深くなり彼女は目を閉じた。
瞼の裏に宿った星空が、瞑ったのに心に満天の星空を映している。
そして、その心の機微は、彼女に嫌われていた人ナビのもっとも深いネットワークによって感知され、小さな違和感として、自分たちこそ人類であると信じている蛮族の指導者たちに無慈悲な通告をした張本人、レムとその主人の知るところとなった。