狂気の愛
ひろしの右腕へノーラは自分の左腕を絡ませた。
「返すよ」
と、右腕を彼女の肩へとつけた。
「役に立ったかしら」
「・・・、銃弾から守ってれた」
「やっぱり、そのくらいしか」
「君のことを知りたい」
「ほんとうに?」
「うん」
上映された映画は、二人のやりとりが映画館の映写室から俯瞰されたように撮影されたものだった。
「あれは?」
「シっ、上映開始よ。お静かに、ね」
と、彼女が僕の手を握った。
一面の黄色い菜の花ばたげと連なる満開の桜並木の平原の上空に、轟音と共に花火が舞っている。
「核爆発ってあんなに色鮮やかだったかな」
と、少年が言った。
「効果測定のために着色したのよ」
「日本の戦艦の主砲みたいにですか?」
「うそよ」
あれ、会話できてるとひろしは思った。
「手をつないでいるからね。お肌のふれあい会話よ」
「こども?」
スクリーンで極彩色の花火がいよいよ激しさを増す中に、それを遮るように少年の姿が浮かび上がった。
子供は・・・、
小鳥をみつけた。
のがしはしなかった。
少年の声が途切れ途切れに流れた。
指に噛みついた。
少年は天を仰ぎ、
自然に?
左様、充分に自然に!
すると、巨大な花火が破裂する瞬間が大写しになると、それは大輪の菊が開くようにして少年を包み込んだと思うと、光の流れは収束して錐のようになり、一面に菜の花の地面を穿ち、桜並木を薙ぎ倒した。
「死んだの?」
「やがて子供はみたのであった」
・・・のようにそれが地上に落ちるのを、
そこに小鳥はらくらくと仰向けにね転んだ。
今度は途切れることなく少年の朗読が流れた。
「ノーラはみたことがあるの?」
「ふふ、この詩を知っているだけ」
「詩? なんだか、僕も小学校の時に読んだ気がする」
記憶を辿るために、ふと目を閉じた時、スクリーンも場面をかえようとしていた。あれは、確か中学受験に備えて通っていた塾で配られた小冊子に載っていたはずだ。小さくて薄い本だった。
親に本を読んでもらったことのない子供だったひろしにとって、本を読むという行為は冒険に近かった。遠回しで抽象的で、不可解な詩の全体を記憶はしていなかったけれども、助けようとした小鳥に齧られて、その反動で空へと放り投げられた鳥の姿と、その後についてを物語として記憶していた。
羨ましい、とひろしは感じた。あの少年には、詩を読んでくれる親しい人がいるという設定なのだろうからと、目を開いて続きをみてみる。
それにしても、僕はアニメ映画を友達とみるために深夜の渋谷を徘徊していたはずだけれども、この成り行きも、充分に自然なのだろうか。
本を聴く習慣の身につかなかったひろしとしては、本を読むよりもただ画面を眺めるだけですむアニメに時間の多くを割くようになっていた。
彼の記憶にある本の類は授業や受験勉強、そしてアメニ類からの得たものだから、大方は付け焼き刃で、その意味について考える習慣も身についてはいない。
ただ、図書館で本を借りるのは好きで、読まれないまま借りた本は部屋で眠り、そのまま返却された。彼にとっては借りる時と返す時に触れる相手の反応の方が興味をひいた。
もっとも、稀覯本の蒐集家も同じで、本を読まない君へと本を送るなどという遠回しな敬意を示した著述家もいたくらいだから、ひろしはその類かもしれない。
なので、気まぐれに開いては、心にひっかかった短い文章なら、逆によく覚えていた。それが全体の作者の意思とは全く関係なく切り取られて、ひろしの中で新しくも勝手な意味を創造されていた。
そんな彼が、さきほどの戦場や、花火の擬せられた雨霰の核兵器の猛雨で、「この大震を天譴と思へ」という文を思いついたのは、ただの偶然で、先一昨年、官営放送で渋沢栄一の一代記をテレビドラマ化して、それを少しみたからだった。
「レム、ノーラとは進展あった?」
と、少年の声が流れた。
景色は、喫茶店みたいな感じで、少年と美青年が向かい合って座っている。
「退屈な映画ね」
と、ノーラが言った心の声がひしろに伝わった。
伝わる速度と追いかけるようにして、
「私は幽霊ですよ、主様」
と、美青年の声が流れた。
見目がきれいだと、声もきれいだなとひろしは思った。
「ノーラは、宇宙の希望ですから」
と、再び美しい声が少しだけ真剣さをましていた。
少年は黙ってコーヒー、多分、あれはエスプレッソだなとひろしは思いつつ、僕も家に帰って朝のコーヒーの準備をしたいと思った。
高校に入る前に、ダッチコーヒーサーバーを買った。夜、豆を挽いて飲むまで約八時間。今が何時かわからないけれど、明日の朝は、いつものコーヒーが飲みたいと思った。
「記憶がね、あの時、少しだけ、戻った」
と、(多分)エスプレッソを啜った少年が喋った。
「一万五千発の核爆発を予定通りの順番で連鎖爆発させて、極小の時空の歪みを作り出す計画は、成功したわけですね」
「おかげで、思い出の菜の花畑にクレーター湖ができたけど」
「揚子江海豚を放しました」
「思ったよりも、この体が丈夫でよかった」
二人の会話は続いていたけれども、ひろしの震えているノーラの手が気がかりで、耳に入らなかった。
「どうしたの?」
「なんでもないわ」
すると、ノーラはひろしの方を向いて、
「ごめんなさいね、もう帰らなくちゃ」
と、席を立とうとした。
「あの、またあのお店に行ったら会えるかな?」
ひろしが思いを声にした時には、彼女の姿は消えていた。
映画館も消え、ひろしがいたのは深夜のゲームセンターの中だった。
コインゲーム機にうつぶせになっていた
体を起こすと、外は少しだけ真っ暗ではなくなっていたけれども、とても寒そうだった。
1984年2月12日の早朝だった。
何か映画をみた気がしたけれども、思い出せはしなかった。