神は(高)笑い、人は(無駄に)考える
節子といて思うのは、
考えれば考えるほど、
人はばらばらになるということ。
それをみて神様は笑うのだそうだ、
(少なくとも僕の大好きな作家、
クンデラはそのように皮肉る)
では、
特別に考えることなく暮らしていて、
未来をみれる者を、
神様はどんな顔で観察してくれるのだろうか?
そもそも、
神様の次元というか、
人と隔たった異能とは、
どのようなものなのだろうか?
始めにあったのは、
言葉なのか、
行動なのか、
それとも神自身なのか?
いずれにしても、
人の知られるところではないので、
それらを考え続けて、
様々な手法を生み出し、
それを科学だと技術だと誇ったところで、
それらはかの作家たちに言わせれば、
笑われるべき愚かさもまた、
進化するという恐ろしさでしかない。
だから、
僕はあまり未来について考えたりはしない。
CMやショートムービーのような夢について、
論評はせず、
そこへの過程も考えない。
それは無意味だからだ。
だから、
同じように節子のことも考えない。
それよりも、
節子を眼の前にした時、
受話器の向こうで感じた時、
彼女の言葉と行動こそが、
世界の始源であるかのように、
愛おしめるように心を砕く。
心、愛情、美徳、
そうした数多に分類し分析しえる節子について、
もし、
僕が真剣に考え尽くしたとしたら、
それは、
それこそ、
すでに知られつくした言葉だけの辞典を編纂するのと同じになってしまう。
これはBGさんとの間柄でも同じだ。
そこに入り込んでしまったら、
未来をみれるというのは、
全く道化的になってしまう。
人間だれも独自の視点をもっているとしたら、
僕は未来を視れる、
節子は「ナニカ1」、
BGさんは「ナニカ2」、
と言ったように誰とも重複することのない視点をもって暮らしているとしたら、
それを曇らせてしまうのは、
神を笑わせてしまう行為だ。
故に僕は、
節子の誘惑に快く応じている。
BGさんを考える時、
彼とはテキストだけの交流だけど、
まるで半円形監獄に収容されていて、
眩い中心を目を細めてみつめて、
そこにいるはずの看守を必死に見極めようとしている気がしてくる。
中心から放たれる強烈な光と、
暮らすには不自由のない収容生活。
向き合った時、
僕に背に広がる僕の体の何倍もの暗闇を、
明るくしてくれているのは、
節子だった。
喩えれば、
彼女の光は影をつくらない光だ。
もし、
半円形監獄の中心にいるのが節子だとしたら、
その光は監獄中に影を産まず、
故に考えることをせずに生きられるのではと思ってましう。
そこにあるのは、
不可思議な同時性だろうから、
それは、
今ところ、
僕のみる夢の世界さに一番近い時差だろうから。




