エピローグ
「あのときはびっくりしたぁ。普通に考えてさ、別れ話しようとしていたところにプロポーズする?」
去年の今日の出来事を照れ笑いで語る彼女。そのときの僕の様子を思い返しては、ぷっと噴き出す。やめろ。こっちも恥ずかしくて堪らなくなるんだから。思わず晩酌の青島ビールを噴き出しそうになるのをぐっとこらえる。
「しかもさ。それから海外駐在のお話とかも急に出してくるし」
プロポーズの後に、その話をしたのは順番が悪かったと思っている。しかし、彼女と一緒に杭州に移り住むことになるとは夢にも思っていなかった。幸い、駐在している社員のための社宅は、単身用ではあるが二人で住んでも問題ない広さだった。備え付けの家具も豊富で、不自由もない。
「こっちに来て、本当に良かったのか」
「多分、私、踏ん切りがつかなかっただけだと思う。中国語も日常会話なら出来るし、収入源がライブハウスでの公演が主なのは、こっちに来ても変わらない。海外の方が協会とのいざこざも少ないし。ほんと、たまに来る迷惑メールくらい」
生活水準はこっちでのほうが格段に上がったと彼女は言う。日本と比べて客の景気がいいらしい。今では日本での公演よりも手応えを感じることもあると。こっちのほうが耳が肥えた客が多いのかなんて惚気る。
「こっちのほうが平和なら、むしろ日本に帰りにくくなるな」
「それは大丈夫。日本に帰ったら、式を一緒に挙げるんだから」
そう言って、薬指にはめた婚約指輪を見せつける。ジュエリーショップの店員に勧められたとおり、あくまでプロポーズの演出用として買ったものなのに、彼女は「もらったままの指輪でいい」と言って安っぽい指輪を付けている。喜んでくれているのはうれしいけれど、結婚指輪はもっと良いものにしないとな。幸い、駐在の手当てが結構な額で、こっちでの生活はそこまでお金を使うことがないから、お金は案外貯まりそうではある。それでも笠原から聞いた話によると、指輪と挙式で結構な額が吹っ飛ぶそうだが。まあ、彼女に数十万を浪費した僕には、今更なんてことない話か。
「式場とかドレスとか決めようよー」
と呂律の怪しくなってきた彼女が、食卓の上に置いてあるブライダル雑誌をぱらぱらと捲り始める。知ってるぞ。決めよう決めようなんて言って結局決める気なんてさらさらないんだから。ネットだと最新のものもあるのに、日本を離れる前に買ったブライダル雑誌を今でもこうやって見せてくる。洋装にするか、和装にするか。結婚式で着るドレスは? 披露宴で着るドレスは? としつこく聞いて来るけど、どれも結局は戯れで終わる。
「そう言えば招待状を誰に出すとか、そろそろ決めた方が良くない?」
また二人で妄想に耽るのかと思ったら、意外と真剣な話になったな。確かにそれは考えていなかったな。
「私、お世話になった人の中には、結構有名人の方もいて。アーティストの人もそうだけど、作家さんだとか俳優さんだとか。そういう人も呼んでいいかな?」
「え。結構有名な人? 誰が来るの?」
「いや、すぐにここで言うわけじゃないけれど、嫌って思わないかなあって」
それは別に構わないけれど、誰が来るのかは無茶苦茶気になるな。なんとかして聞きだそうとしたけれど、それは一度考えてみたその後でともったいぶられてしまった。
「江戸川さんには、私たちのこと何か言っておく?」
「まさか――いくら世話になったとはいえ、江戸川さんは裁判の関係で協力を依頼した人ってだけだよ。それに、おそらく人の多い場所に出席するのは嫌うだろうし。秘密の多い職業だから」
「式に呼ぶとは言ってないわよ。個人的にお礼の手紙と一緒に伝えておこうと思って。江戸川さん、出版した暴露本を十冊ほど個人的に購入して、弁護士の平塚さんの他、知り合いの法律家の方々に配って回ってくれたんだから。あ、あと刑事の安浦さんも。お礼を言っておかないと」
彼女が出した暴露本が法律家のもとに回ったことで、天命院の総裁である大山隆則は書類送検された。さらに安浦刑事の懸命な捜査により、あの事件が起きた際に、犯人の瀬田にメーターや社名表示灯などのタクシー偽装のための道具を渡していた男の存在が割れ、天命院の関係者が逮捕に至った。江戸川には、瀬田に手を貸したということで慰謝料を請求してはどうかと勧められた。その件で今も江戸川と平塚弁護士とは連絡が続いている。瀬田から慰謝料を取ることは叶わなかったが、共犯者からそれを取れるなら、それをしない手はない。脅迫状の裁判を進めていた時は、それ自体が彼女に精神的に負担になっていたから、今は僕とだけでやり取りをしている。額さえ納得ができれば示談でも充分だろう。――安浦刑事も江戸川も平塚弁護士も、感謝してもしきれないほどだ。
「杭州の土産でも送ろうか」
「ああ、それはいいねー。中国茶とか茶器は? 江戸川さんも弁護士の平塚さんもお茶に凝っていたから」
無難に洋菓子の詰め合わせでもと考えていたが、その方がずっといいな。中国茶だとなにがいいだろうか。平塚弁護士は、玄米茶に凝っていたから、日本の味覚と近いものの方が喜ぶかな。調べてみようということになって、スマートフォンをポケットから取り出す。
一件メッセージが入っていた。しばらく音沙汰がなかった美郷からだった。今更、何の用だ。メッセージを開封すると、そこにはタキシード姿の男性と映るドレス姿の美郷が映っていた。相変わらず、“あてつけ”が好きらしい。思わず呆れ笑いがこぼれ出た。――何が“お先でーす”だ。
「どうしたの? なんか面白いニュースでもあった?」
「いいや、なんでもない」
もう未練はないし、これ以上あてつけをされるのも癪だから、アカウントごと削除した。不意に、美郷が僕に放ったあの言葉が蘇る。
『あの女を追いかけても、安寧なんてないよ。それをコータも分かっていて、どうしてあんな女に執着するの?』
美郷の忠告通り、木戸さんにさんざん振り回されてしまった。あのときの僕はそれも予測できていたと思う。もっとも、盲目的な恋をしていたことは認めるが。でもやっぱり思い返しても、木戸さんとこうなる以外になかったと思う。
「なあに? ずっと見つめちゃって」
「いや、結婚してよかったなって思っただけ」
「もう気が早いって。籍だけ入れていて、まだ挙式はしていないんだから。――まあ、私もそう思っているけれど。そういえばさ、今、作りかけの曲があるんだけど、聞いてくれる?」
と、なぜか思い出したように切り出して、席を立つ彼女。椅子を食卓から離れた位置に持って行って腰かけ、クラシックギターを爪弾き始めた。しばらく音調してから、すうと深呼吸。曲名はまだ決まっていないのか、曲紹介も何もせずに弾き語り始めた。
ずっと独りだと思ってた
暗い部屋で出口は見えていても
立ち上がることすらできず
ただ怯えては震えて眠るだけ
意気地なしの変われない日々だ
僕にできることと言えば泣き叫ぶことだけ
こんな弱い僕のドアを君が叩いでくれるまでは
君がそばにいるだけで
前を向いて歩こうと思える
君がそばにいるだけなのに
怖かったものも 少しはましになって
だから照れ臭いなんて
思っちゃだめだよね
伝えなくちゃ ああ 伝えなくちゃ
ありがとう
部屋を暗くしていたのは
隠れたい自分の仕業だとしても
いつしかそれさえも忘れて
抱えきれなくなって嘆くだけ
成長のない不器用な怠け者
君が手を差し伸べてもそれにも恐れをなして
優しさと偽り拒んでも諦めの悪い君に救われたんだ
君が僕を求めるから
それが生きる意志になったんだ
君は僕を好きというけど
僕だってそうさ 君がいないとダメだって
そうだ照れ臭いよりも
言わなきゃだめだよね
伝えなくちゃ ああ 伝えなくちゃ
大好きだよ
なぜか涙が出てくるんだ
辛いことならもうたくさんなのに
少しも嫌じゃないのは きっと その意味が反対だから
君がそばにいるだけで
前を向いて歩こうと思える
君がそばにいるだけなのに
怖かったものも 少しはましになって
君と一緒に歩きたいよ
これからもずっと二人で
こんな僕でも君がいいなら
悲しい過去も 少しは意味を見いだせて
だから照れ臭いなんて
思っちゃだめだよね
伝えなくちゃ ああ 伝えなくちゃ
ありがとう
君が僕の光になってくれたんだ




