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それでも僕は彼女を……

 床に落ちたスマートフォンを拾いなおせるほど落ち着くのに十数分を要した。拾い上げても、彼女からのメッセージは僕が打ちひしがれたあの一文で止まっている。幸い、画面は割れていなかった。けれど、そんなことなんてどうでもいい。どうでもいいけれど、どうすればよいのだろう。


 呼吸のリズムが少しずつ乱れていくのを感じる。吐くよりも吸う方が多くなって過呼吸になっていく。辛うじて自覚できているから制御できる。

 つまんでいたフライドポテトはしなびて冷たくなってしまった。もう食べ進めることもできなくて――ただ、砂を噛むような時間を過ごした。


 僕の金縛りを解いたのは、彼女からのメッセージだった。“そろそろレコーディングが終わります”とそれだけ。結局、大量に残してしまったフライドポテトと飲み残しをごみ箱に捨てて、店を後にする。

 深夜三時半、もう未明と言ったほうがいいだろうか。この時間でも難波は車がそれなりに多い。八角形の近未来を思わせる難波ハッチ近くのスタジオから、レコーディングを済ませた彼女が現れた。


「すみません。遅くなってしまって」


 もう数時間もすれば朝陽が昇る。流石に彼女の声色には疲れが読み取れた。それがレコーディングが遅くまで続いたせいなのか。それとも別の原因か。バックミラーに、助手席に座った彼女の口元だけが映っている。いつもの艶やかな色が落ちてしまっていた。お疲れ様とか、そんな言葉くらいかけるべきなんだろうけど。会話が進むことが怖かった僕は、無言で車を走らせた。


「すみません。ありがとうございます」


 彼女の口から頻りにこぼれる、“すみません”という言葉。それがどんな気持ちから漏れ出ているのか、考えたくない。何も考えたくない、何も話したくないという一心で僕は運転に集中する。


「三島さん」


 けれど、そんな僕のことを意にも介さず、いや気付いていて彼女は話を進めているのか。無意識のうちに彼女から逃げようとしている僕に、辟易でもしているのだろうか。


「もう、終わりにしましょうか」


 必死に耳を遠ざけていたのに、一番聞きたくない言葉だけやけに鮮明に聞こえて。僕はそれが腹立たしくて、交差点の赤信号でブレーキを乱暴に踏んだ。シートベルトを身体に食い込んで、彼女の口が止まった。こんな方法……最低だ。


「私たちもう、終わりにしましょう」


 僕の人として最低な悪あがきが功を奏するはずもなく、より一層彼女の決断を固くさせるようだった。嫌だ、嫌だ。――嫌だっ! 自分が幼児退行していくのが分かる。信号が青になって、アクセルを踏んでハンドルを切る。動揺が車体の揺れにそのまま移った。


「なんで、そんなこと言うんだよ」


 やっと僕から彼女にかけた言葉は、ただの哀願。


「もともと、この関係も私が強引に三島さんを頼ったからで。私から一方的に始めた関係で――」


 ああ、そうだ。そうだとも。だけどそんなこと、今更蒸し返さないでくれ。そっちから勝手に始めたから、勝手に手を引いていいだと?

 なんで、なんで自分が起こした行動が他人に一切影響を与えないみたいな考え方ができるんだ! 人の心に土足で踏み込んでおいて!


 心の中に静かな怒りが沸き起こる。だから、本来ならもう左折したほうがいい交差点をわざと突っ切って、国道四十三号線に入る。――まだ彼女は気づかない。


「嬉しかったです。――逃げた私を追いかけてきてくれたことも、協会からの嫌がらせに怯えるだけの私に、被害届を出そうと言ってくれたことも。私のために私よりも必死になってくれたことが、本当に嬉しくて、そんな三島さんの一生懸命なところに甘えすぎていたんだと思います。でもそれじゃ、三島さんには何も与えられていない。成長していないんだって思ったんです。結局自分は、心の拠り所としてしか他人を求めちゃいないんだって」


 自己嫌悪に塗れた彼女の言い分。つらつらと語られるそれを聞き流しながら、僕は道を急ぐ。


「あの人が死んで……、三島さんはもう、私のために闘ってくれる必要はなくなったんです。今まで、三島さんの時間を奪ってしまってごめんなさい。だからもう終わりにしましょう」


 そこで、彼女の主張は終わった。

 甘えすぎていた? 成長していない? 知るか、そんなもの。

 何も与えられていないだと? とんだ大嘘だ。

 そんなことを言われたって、思い直したりなんかしない。たとえ彼女が自分のことを好きになれなくても、僕の気持ちに変わりなんてない。


「着いたから降りてくれないか」


 そこで“分かった”なんて、天地がひっくり返っても言ってやるものか。彼女の別れ話に対する返答を保留にしたまま、脈絡のない一言をぶつける。声色が冷たかったから、本当にここでお別れとでも思ったのだろうか。彼女は文句ひとつ言わず車を降りた。そして僕も運転席から降りた。――彼女を迎えに行くときにニヤつきながら運転席のアッパーボックスに入れたあいつを上着に忍ばせて。


 車から降りると、彼女がきょろきょろとあたりを見回している。しばらくして、困ったような顔をして僕の方を振り返った。


「なんで……“ここ”で降ろしたんですか」

 

 JR天王寺駅と近鉄阿倍野が向かい合う交差点。ビルとビルをつなぐ歩道橋の下。――ここは、僕と彼女の始まりの場所だ。


「大切な場所だからだ」

「国道四十三号線に入ったあたりでおかしいと思ったんです。……どういうつもりですか?」


 彼女は眉をしかめて、僕を睨みつける。引き留められるなんて想定済なんだろう。どうやったら、彼女の予想を超えられる? 考えても答えなんか出ない。


「僕は木戸さんとここで出会った。ビルの狭間で青い声が聞こえて……高校の時以来かな。ストリートミュージシャンの演奏に聞き浸るなんて。何故だか理由は分からないけれど物凄く惹きつけられて、演奏が終わるまで三時間近くずっと立ちっぱなしで聞き入った。それからほとんど毎日のように君のもとへと通った」

「知ってます。私も何も考えないでお客さんを見ていたわけじゃありません。あの日、三島さんが一番長く私の声を聞いてくれていたんです。いいえ、その日だけじゃなくて、きっと沢山そんな日があったんだと思います。だから、三島さんにはずっと前から励まされてきたんです」


 なんだ。じゃあ、随分と前から顔を覚えられていたのか。こっそり聞いていたつもりだったのに。毎回五百円玉一枚なんていうシケた投げ銭もそのときから見られていたのか。途端に気恥ずかしくなる。


「それは僕も。疲れた日も――木戸さんの声を聞くと和らいだ。それから、木戸さんのことを知っていって」

「それが間違いだったんだと思います。私が勝手に境界線を破ってしまったんです」

「間違いなんて、そんなこと言うなよ」


 そこで彼女は目を見開いた。僕が、彼女の言葉の途中で割って入ったからか。そんな考察はどうでもいい。僕はとにかく彼女に、この関係が間違いだったなんて言ってほしくなかったんだ。


「なんで、そんなことが言えるんだよ。今更、僕と木戸さんのこれまでを否定しないでくれよ」

「私が否定しているのは私だけです。三島さんのことは言ってません」

「それが一番勝手なんだよ。君が自分を否定することは、僕を否定することだ」


 声を荒げる僕に怯えた目つきが向けられる。咄嗟に僕は彼女の手を掴んだ。衝動の赴くままに。せめて体温だけは彼女に優しさを示したかったのだと思う。しっかりと握りしめて、眼を見て伝える。――すると、彼女の手が示していた抵抗もなくなった。


「それが人を好きになるってことだと僕は思う」

「三島さんは、それで本当にいいんですか」


 その声は掠れていて艶やかだった。僕は、無言で頷く。すると彼女の手が、僕の手をするりと抜ける。そして今度は僕の指と自分の指を一本ずつ絡ませる様にして繋ぎ直した。僕はそこでやっと彼女が考え直してくれたと思って安堵した。


「きっとまた、いっぱい甘えますよ」

「ああ」


 僕だって、もう彼女なしには生きられない。もしかしたら僕の方が彼女に甘えることになるかもしれないな、なんて想像してニヤつきかけたところで、彼女が背伸びをして半ば飛び掛かるようにして、僕の唇を自らの唇に引き寄せた。


 ちゅっと音が鳴って、それから彼女の腕が力強く僕の背中を締めつける。僕も負けじと彼女の腰に手を回して――やがて、改めて僕ら二人が向き合ったころ、息を合わせるように陽が昇り始めた。僕らの“始まり”を暗示しているかのように。


 ああ、今かもしれない。僕はここで勝負に出た。


「あのさ、ちょっとの間だけ、目を閉じていてほしいんだ」

「どうしたんですか、急に」


 もったいぶった僕の口ぶりを、彼女は茶化して笑う。いいから、いいからと押し切って、彼女が目をつむっている間に、その細い指先に(しろがね)の環をあしらう。指に伝わる感触で、それが何なのか悟って、彼女の肩が震えた。


「目、開けていいよ」


 彼女は、それが分かっていてもなお、二三度ぱちくりと瞬きをした。朝陽に掲げてその輝きに恍惚とした表情を浮かべる。


「木戸さん、僕と結婚してください」


 緊張で声が上ずってしまった。

 しばらく無音が続いて、顔を上げるタイミングが見つからない。――正直、急すぎたか。もっと前もっていろいろ仕組んだ方が良かったか。けれど、もう遅い。


「――私からも、よろしくお願いします」


 その言葉が返って来て、跳び上がりそうになる自分を抑えるのが大変だった。いや、ちょっとくらい跳んだかもしれない。


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