慟哭
間もなくして僕らは退院を迎えた。
一歩間違えば、跡形もなくこの世から消え去っていたかもしれない事故からほとんど無傷で生還できたのは、幸運としか言いようがない。それに、僕らを始末するつもりだった犯人は、タクシーを偽装したことで余罪を含めて捜査の対象となり、留置所で勾留を受けている。江戸川は、「殺されかけた人間にこんなことを言うのもなんですが、これは好機ととらえても良いでしょう」と。落ち着いた今ではそう思う。サスペンスドラマで、追い詰められた犯人が自ら尻尾を出してしまうというシーンがあるが、それと似たようなものだ。そこに容態の回復も伴って、二週間ぶりに家の鍵を回す僕の手つきは滑らかだった。
「ただいま」
なんて自分の家に言ってみる。彼女がくすりと笑うとでも思っていたが、特に何にも触れられなかった。むしろ、パンプスを揃えて部屋に上がるまで、やけに彼女は静かだった。
「三島さんは、仕事は明日からですか」
「有給もかなり使ったし、流石にな。木戸さんは?」
「あ、実はもうこの後すぐスケジュールを入れてしまっていて」
「そうか。無理すんなよ」
レコーディングやライブハウスでの公演が生業の彼女、仕事をする時間帯は夜であることの方が多い。病室が別だったから、ひとつ屋根の下なんて久しぶりなのに。それも、この後すぐに行かないと間に合わないそう。身支度もメイクも手早く済ませる彼女は、要領が良いというよりも、どこか追い立てられているように感じた。
「帰るのはいつごろになりそう?」
「――多分、日付が変わるころよりも遅くなると思います」
大丈夫なのか、と聞くと「深夜までのレコーディングは慣れていますから」と。そういう問題じゃないだろう、と言いかけてぐっと堪えて「迎えに行くよ」と提案した。
「明日から仕事なのに、お身体に障りますよ」
その口ぶりはひどく申し訳なさそうだった。――考えてみれば、深夜に彼女を迎えに行くなんて、初めてじゃないはずなのに。心苦しそうなその表情を見たのは初めてだった。そんな違和感が心に残ったまんまで彼女を送った。
家に一人取り残された。これから刑事による聴取もさらに進み、民事裁判も動き出す。それに備えて勉強もしておきたかったが、本をぱらぱらと捲ってみて、いまいち身が入らなくてやめた。続いて、映画でも見てみようかともなったが、これもどうも内容が入って来ない。――結局、映画も途中で見るのをやめにしてしまった。頭を空っぽにして見たかったのに、やたらと内容が小難しくなったからかもしれない。
とりあえず出かけてみることにした。近くのホームセンターでもコンビニでもどこでも良かったのだけれど、つい癖で天王寺まで出てしまっていた。彼女に会えるかもしれないなんて、今日の仕事は難波だと聞いたからそれは叶わない願望だ。
割と近くに住んでいるのに、阿倍野ハルカスを詳しく見て回ったことはなかった。フロアガイドを一階から十四階までなぞるように見て、なんとなく十階の家具やインテリアのコーナーを見て回ることにした。昔っから服を見て回るよりも家具を見る方が好きだ。僕にとっては、この服を着てみたらよりも、この家具を家に置いてみたらの方が空想に耽っていられるから。
でも、ソファの座面を撫でてみたり、ベッドのスプリングを押してみたり、アロマ加湿器の香りを嗅いでみたりしても数十分程度しか時間は潰せなかった。そのまま惰性でエスカレータに乗って十一階へ。
ここにはさして惹かれるものがないな、とフロアマップを見て心の中で呟いた。腕時計もそこまで良いものを買おうとは思わないし、それに現場では邪魔になるからとつけていないことの方が多い。眼鏡も間に合っているし――と、宝石サロンの文字に目が留まる。ちょっと前に、「木戸さんに指輪でも買おうか」なんて言ったかな。
ガラスケースには、いろいろな指輪が並んでいる。そういえば女性に指輪を選ぶだなんて初めてかもしれない。
『執着がないのね』
頭の中で、いつだか美郷が言った言葉が響いた。それに引き換え、どうして木戸さんにはここまで入れ込んでいるのか、自分で自分が不思議だった。
「お客様、どうされましたか」
やばい、一人で笑ってるのがバレたか、なんて表情を引き締める。声をかけてくれたのは、バリっとしたメイクの女性店員だった。傍にいるだけで化粧の香りがするけれど、ケバいという印象は持たなかった。
「彼女に婚約指輪を買おうと思ってまして」
声が上ずってしまったのは、指輪を買ってあげられるほどの貯金がないから。そして、何よりも彼女の指のサイズを知らない。適当に濁して帰ろうかとも思ったが、素直に店員に甘えることにした。
「実際に測っていなくても、身長と体型からだいたいのサイズは分かります」
身長と体重で目安のサイズが分かるという。身長は、たしか百六十はなかったはず。だけど体重は、分からない。やせ型ではあるとは思うから、五十数キロぐらいか? そうすると、サイズとしては八号ぐらいだということだ。と、ここで彼女がクラシックギターを愛用しているということを思い出す。
「ああ、そうですねえ。楽器を演奏されている方は、指が太くなったりしますから、ゆとりを持ったサイズの方がよいと思います。もし、合わなくても当店では無料のサイズ変更サービスを行っておりますので」
そうすると九号が妥当か。待てよ、これ、今買う流れになってないか? と腰が引けてしまう。
「あの……実は、あまり予算がついていなくて」
「そうなんですか。実は婚約指輪ですと、予算を抑えて、結婚指輪の方を豪華にするという方も最近は多いんですよ。一般的に、婚約指輪は結婚指輪と比べると着けている時間が限られるものですから」
婚約指輪は結婚指輪を貰ってからは着ける機会が減ってしまうものだそうだ。景気の悪い話ではあるが、昨今は婚約指輪と結婚指輪の両方を用意するカップルも少なくなっていて、結婚指輪と婚約指輪を併用したものにすることもあるのだとか。
「でもやっぱり婚約指輪には、相手との未来を見据えるという意思表示の役割があるんですよ。でも予算はできれば、結婚式や婚約指輪の方に使いたいですよね。こちらなんてどうでしょうか」
と女性店員が勧めてきたのは、税込みで数万円程度のリーズナブルなものだった。なのに、安っぽさは感じなくて、主張しすぎない大きさのクォーツは着合わせにも困らないように思えた。
「この商品は、もともとプロポーズのための指輪をコンセプトに作られているんです。もちろんそのまま着けていただくこともできますけれど、サプライズの演出として使っていただいて、あとで同じブランドの指輪を、こちらの指輪の価格分差し引いた値段で購入することも出来るんです」
画期的なサービスだな。プロポーズの演出に使用してから、改めて婚約指輪ないしは結婚指輪を買うことも出来るのか。
数万円程度なら――と店員の口車に乗せられてしまった。紙袋を提げながら家に帰る足取りは、浮ついていた。
夕飯は弁当を買って済ませた。阿倍野ハルカスにはいろいろなお店があるんだから、そこで食べて帰ればよかった。と、食べ終わった後で思った。これから寝るまで何をして過ごそうか。彼女に送ったメッセージは既読がついていない。どうやらレコーディングに熱が入っているらしい。このまま深夜まで帰って来ないのか。じゃあ、仮眠を取るというのはどうだろう。それでレコーディングが終わるころを見計らって、こっそりと迎えに行って――その時に渡すなんてどうだろうと想像してにやける。
仮眠を取ったなら、明日の仕事に響くという彼女の小言にも反論できる。万が一寝過ごしてしまったら、そのときはそのときだ。アラームを十二時にセットしてベッドに入った。
***
「うわぁあああ」
叫びながら飛び起きると、自分の身体がぐっしょりと汗で濡れていた。病院では見なくなっていた、あの夢を久しぶりに見た。起きてしばらくは、窓をべったんべったんと叩く血みどろの手が、視界に重なって見えていた。肌寒いわけではないのに、悪寒が消えない。
なんで今になってあの夢が。むしろ今は犯人は勾留を受けていて安心しているはずじゃないのか。ひょっとしたら自分の寝具が呪われでもしているんじゃないかと、ありもしない思考を巡らせた。
時計を見るとアラームセットした時刻より、少し早いくらいだった。シャワーを浴びて、彼女を迎えに行こう。
途中、二十四時間営業のマクドナルドで休憩をしつつ、彼女とメッセージのやり取りをする。
“もう、大丈夫だって言ったじゃないですか。でも、ありがとうございます”
もともとはレコーディングのメンバーに送ってもらう予定でいたらしい。
“三島さんは、優しいんですね”
とその一行のメッセージがどこか意味深で、胸をちくりと何かが刺した。その何かの正体が掴めないままに、それは僕の身体を貫通してやがて背中をぞわり、ぞわりと駆け上ってゆく。
“――着信履歴、見ましたか?”
僕は、そのメッセージを見て初めて電話が続け様に三件も入っていることに気づいた。どれも僕が仮眠を取っている最中にかかってきたものだ。安浦刑事から、もし何かがあったときに連絡しますともらった刑事課の電話番号からだった。
それを見たとき、まだシャワーを浴びて数時間もしていないのに、脂汗がふつふつと湧き出る。かかってきた時間は、一番近いもので午後十時五十分。まだかけ直しても出るかもしれない。でも、でも――なぜだか手が動かない!
“これからどうしますか?”
画面を見ながら硬直してしまった僕のことなどつゆ知らず。彼女は、会話を進める。どこかでそれが止まってくれと願う。この先にこの先に、良くないものが待っていると本能的に察知してしまって――
“死んでしまったんですよね。留置所で”
主語のない一文。誰が――とそれが分かってしまって、世界から何も音がしなくなって数秒後、スマートフォンがするりと掌を滑り落ちた。
がたんっと床に当たって、小さく跳ねた。
まだ固まったまんまの僕は、叫びたくても声も上げることすらできない。




