快方
目が覚めると真っ白い天井が目に映った。鈍い痛みが身体中にまとわりついている。事故のあとの記憶がしばらくない。自分が病院に運び込まれた経緯も知らない。
「お、気ぃ付いたか」
笠原が安堵した声色で呼びかける。会社はどうしたんだ、と反射的に聞くと有給を取ってきたと返した。あんまり自分から休みを取らない彼にしては珍しいなと思った。
「近頃、なんや入れこんどったみたいやからな。そのまま倒れられたら、駆けつかんわけにはいかんやろ」
どうやら彼にも相当な心配をかけていた模様。自戒と照れでどもった「ありがとう」を送った。しばらくして病室に彼女がいないことに気づく。通常、男女で病室は分けられているから当たり前のことなのだが。それでも彼女が視界に入らないと落ち着かなくて――なにより、直前の記憶が吐瀉物を吐き散らして彼女が倒れていた様なのだから、無事を案じずにはいられない。
「ああ、木戸さんだっけか。あの人なら、隣の病室で寝ているみたいやで。命に別状はないってことらしいわ」
きょろきょろとした目つきに笠原が感づいて情報をくれた。彼女の事は医者から、僕と一緒にこの病院に運ばれたと聞いたらしい。これで笠原には、彼女の存在が知られてしまったことになる。なんて、そんなことにこっ恥ずかしさを覚える自分は、まだまだガキだ。
「無事なのは無事やから、自分のことに集中しとき。医者の話では、しばらくは検査入院らしいわ。これでしばらくは自分と向き合える時間が取れるやろ。前に門脇さんから聞いたと思うけどな。杭州の部署への異動、確定事項らしいわ」
それを聞いたのは二度目だったが、今は病床についてるせいか余計にこたえた。それにもう覚悟を決めないといけないのかと。僕の中で時が止まっている間に、笠原は席を立つ。
「これお見舞いに持って来たで。最近やらんようなったゲーム」
しばらく充電もしていなかった携帯ゲーム機だが、充電したら無事に動くようになったと。「スマホのゲームは空き時間にやるのはちょうどええけど、まとまった時間でやると飽きてくるからな」と、休み時間をスマホゲームに溶かす僕に当てつけを言った。不貞腐れた笑いとともに礼を返す。
「じゃあな。まあそれ最悪返さんでもええわ」
「そういうわけにはいかないだろ。で、これからどうすんだ?」
「休み取っておいて家のことなんもせずやと、嫁が怖いんでな。大人しく帰るわ」
へらへらと笑いながら力なく手を振って笠原は去っていった。彼が結婚してからも何度か飲んだことがあるが、どうやら彼は恐妻家らしい。そして、ちょうど笠原が去っていったのを見越したかのようにスマートフォンの通知音が鳴った。
慌てて通知音がした自分の上着のポケットへと手を伸ばす。急に身体を動かしたものだから、何となくまとわりついていた鈍い痛みが、鋭い激痛になって襲い掛かった。呻き声を漏らしながらも、なんとかスマートフォンを手に取り、急いでサイレントモードにする。同時に通知を確認。江戸川からのメッセージだった。
“気が付きましたか。あなたは大阪ドーム近くの総合病院に搬送されているはずです。事故があったのは昨日の事で、ニュースにもなっていましたよ。命に別状はなくて何よりです。先ほど医師の方から簡単に聞きましたが、あなたは神経性失神により一時的に意識がなくなっていたようです。その他の容態はこれから検査で知らされることでしょう。
木戸さんのことはもう聞きましたか。彼女もあなたと同じような容態で同じ病院に搬送されています。それよりも、もっとも私から知らせたいことがあります。タクシーを装った車両を運転していた男が、府内の拘置所に運ばれました。男の名前は、瀬田昌。覚えはありませんか? 脅迫状の送り主です。彼にはこれで、道路運送法違反という罪が付きました。そのうちにあなたのところにも聴取が入るでしょう”
瀬田昌、その名前を見た瞬間に、込み上げてきたのは強い憎しみ。彼女の人生を奪った男。いや、正直その男がどの程度彼女の人生に害を及ぼしてきたかは分からない。天命院に彼女を勧誘したのは違う人だろうし、その後のメジャーデビューの話を彼女が断るまでのいざこざとも無関係かもしれない。でも、脅迫状を送り付けてきたということだけで、僕にとっては彼女を苦しめた罪のすべてをあてつける対象として充分だ。
だが、そんな彼が、拘置所で身柄を拘束されていると知って同時に安堵もする。相反するような二つの感情が、頭の中で螺旋を描いてぐるぐると回り、知恵熱でも出てしまいそうだ。――なんて思ってる間に胃がきりきりと痛み、吐き気を催す。
意識を失う前は、激しく嘔吐していた。そのせいで消化器にダメージを追ってるようだ。笠原が見舞いの品に持って来たお茶を飲んで、胃から上がってきたものを無理くり押し込める。けれど、それも叶わずにびちゃびちゃと口から漏れて、やがて咳き込んでしまう。
ほどなくして看護婦が駆け付けた。気を利かした隣の患者がナースコールを押したらしい。
「大丈夫ですか。三島さん」
目の前に洗面器が置かれた。そこに少しだけ吐いて、やっと治まった。呼吸が落ち着いたのを見計らって看護婦は、今後の検査の内容を簡単に説明した。触診による筋組織の損傷度合い、レントゲンによる骨折の有無、胃カメラによる消化器系の炎症の有無などの検査が予定されているということだった。
***
検査の結果、僕は右脚の筋肉を損傷していたのと消化器系の炎症を起こしていた。彼女も同じく消化器系の炎症を。彼女の場合は精神的なダメージが僕よりもひどいようだった。やはり、今回の事故のことで、僕のことを巻き込んでしまったという思いが強くなってしまったのか。
それでも、脅迫上の送り主が拘留されたことを聞いて、彼女は強く安堵していた。表情も心なしか柔らかくなって、それから回復も早くなったのだと思う。僕と木戸さんの容体が落ち着いたというところで、事故の詳細を聞き出すために安浦という刑事が訪ねて来た。
安浦刑事は穏やかな印象の中年の男性で、うっすらと無精ひげを生やしていた。閉塞感のある医療相談室に、僕と木戸さんと刑事の三人で向かい合って座る。
被疑者である瀬田からの聴取が先に行われていたようで、その内容の共有から始まった。瀬田が自白した内容では、大量に服用したのは普段から常備している睡眠導入剤で、なぜそれを運天中に服用したかについては閉口。自白した走行経路とカーナビの走行履歴が食い違うなど散々なものだった。こちらが被害届を出すや否や、出頭して仮初めの誠意を見せて拘留を免れたあの用意周到さはどこに消えたのか。――僕は直感した。彼は協会から見捨てられたのだと。
安浦刑事に伝えた走行経路は、もちろんカーナビの走行履歴と一致した。尻無川に向かって一直線に伸びる道に、意図的に入り、アクセルを全開にした状態で大量の錠剤を服用。車は猛スピードで、一方通行になっている区画も構わず逆走。また、チャイルドロック機能により、後部座席のドアを開けられないようにしていたことも付け加えた。
安浦刑事は被疑者である瀬田の一連の行為を、極めて悪質であり、明らかな故意に基づいたものと見解した。加えて、瀬田は以前より木戸さんに脅迫状を送り付けており、そちらでも被疑者となっていることを伝えた。もちろん、これも安浦刑事の知るところで、こちらについても今後の捜査及び聴取を進めていくと答えてくれた。現段階では、瀬田はタクシー車両を偽装したことで道路運送法違反の罪に問われており、脅迫行為は余罪としての扱いとなっている。しかし検挙され、検察官が起訴すれば、被疑者は、こちらについても然るべき刑罰が課せられることになる。そして、そうなるように最大限の努力をさせてもらうと言ってくれた。
僕らの憎しみを汲み取ってくれた安浦刑事の言葉の一つ一つが、ただひたすらに心強かった。うっすらと目に熱いものが込み上げてしまうほど。




