戦慄
江戸川に紹介された弁護士は、大正区の南にある法律事務所に常駐しているとのこと。大正区の南の方は、地下鉄も通っておらず、地図で見ると鉄道で縁取られた輪の中で陸の孤島となっている。その代わり市バスが発達していて、安価で本数も多い。しかし、彼女が例によってライブの帰りでギターケースを持っていたため、タクシーを利用することにした。大正通りを南下すること十数分、南恩加島のあたりで車は停まった。
古ぼけたコンクリートビルの三階を借りた事務所。見てくれはほとんど江戸川の探偵事務所と変わらない。
「江戸川さんの知り合いの方ってだいたいこういうところに事務所を持ってるんですかね?」
彼女が半笑いで尋ねてきたが、同じく半笑いを返すしかない。流石に“平塚法律事務所”という表札はかかっている。分厚い鉄製の扉をノックしてから開けると、恰幅の良い白髪交じりの中年男性が現れた。ちょうどこちらのノックに反応してドアを開けに行くところだったらしい。
「あなた方が、江戸川さんからの紹介の方ですね」
弁護士から渡された名刺には、平塚正則と名があった。個人の事務所は持っているが、事務員の人は雇ってはいないようだった。意気揚々と三人分のお茶を注いで、「この玄米茶ほんと美味しくて定期購入しているんですよ」などと与太話。
「わあ、麦の香りが濃いですね」と彼女が驚嘆している。お茶の拘りの話題で話に入りやすくするのは、江戸川と同じやり口。そして、自分の分の茶を一口すすると、何かのスイッチが入ったように目つきが変わり、張り詰めたオーラを発する。江戸川と平塚弁護士は、見てくれこそは違うが、よく似ていると感じた。
「脅迫状の送り主は、瀬田昌という西成区に住んでいる男性。警察からの補導、捜査は入っていますが、罪状が軽く、本人も反省の意を示しているため、身柄の拘束には至っていないという状態です。江戸川さんからは、刑事告訴の願いを要請してもおそらく不起訴に終わるだけだろうと。正直、刑事告訴のための告訴状を弁護士に依頼するのは、民事訴訟のそれよりも値が張りますからね。江戸川さんも漏らしていましたよ。当初の予定通り、執拗な尾行からのストーカー規制法違反も併せて検挙されれば起訴は固かったかもしれないと」
平塚弁護士も、こちら側の動向を察知して態度を変えたのは明らかだろうという見解だった。こちらがファイリングした脅迫状原本二十二通については心当たりがあるが、それよりも前から脅迫があったという事実に関しては関与していないと主張しているあたり、おとりの可能性も疑っていると。
関係のない人が聞いたら被害妄想だとも思うだろうか。でも、罪を犯していながら、自分の罪ができるだけ軽くなるように、かつ、その工作がバレないように罪を自戒している人間を装っているなんて考えて――掌に爪が深く食い込むほどに拳を握り締めていた。
誇張ではなく、初めて――殺してやりたいと思った。怨敵を前にして刃を握りしめているときのように、僕の呼吸は荒くなっていた。途中、彼女が怯えたような目つきを僕に向けていて、そこで我に帰った。
もてなされたお茶を飲んで呼吸を深くして、ようやく落ち着いたところで民事訴訟を起こす意思を明確に伝えた。それから訴状から民事訴訟の大まかな流れが説明された。訴状の形式、民事訴訟の仕組み、いくつかの判例。以前にも江戸川から説明を受けた内容もあったけれど、やはり弁護士の口から説明されると、いよいよ裁判が始まるのかと実感した。
「――三島さん、さっき怖い顔してましたよ」
法律相談所での面談を終えて、ビルを出たところで彼女が漏らした。あの時の自分は生まれて初めて、怒りのあまり我を忘れていた。脅迫を受けた本人でもないのに。
「ごめん、僕が取り乱しても仕方ないよな」
「いえ、嬉しかったです。私のために真剣になってくれているんだって」
その脅迫を受けた本人は、冷静さを失いかけていた僕に対して労うように微笑みかけてくれている。彼女の強さが、羨ましくさえあった。
帰りも、行きと同様にタクシーを利用することにした。南恩加島の周辺は交通量が多いため、車道から見えるように手を挙げていれば簡単に捕まるだろうと考えていた。実際、大正通りに出てみると、一台のタクシーが道路脇に停車していた。周辺にこれといった店舗もなかったので不自然ではあったが、何の躊躇もなく利用することにした。僕が駆け寄ろうと足を速めたのを一歩遅れて彼女の足跡が追いかける。それがどこか躊躇しているように聞こえた。
タクシーの車両は、さっき乗ってきたセダンタイプのよく見るものではなく、ミニバンで家庭用車両の印象を受けた。タクシーだと分かったのは、天井にタクシー会社の社名表示灯があったから。
僕らの姿を確認していたタクシーの運転手は、運転席から身を乗り出して後部座席のドアを辛うじて開けた。
「トランクを使ってもいいですか。ギターケースがあるので」
彼女のお願いを運転手は、無機質な返事で承諾した。行き先を大正駅と伝えようかとも思ったが、もうあとは家に帰るだけだったので、今宮近くの自分の家の住所を伝えた。
「ああ、あそこのマンションですか」と住所だけで運転手は住所を把握したようだった。そのとき、ほくそ笑んで口角が吊り上がった。それが見えて、背中を虫が這った。
アクセルを踏んで車が発進する。――しばらく走って信号に捕まった。三軒家の辺りまで走っていた。僕はそこで、やっとおかしいと気付いた。だって、今宮の方に行くなら、国道四十三号線に差し掛かったところで、右折したほうが確実に近い。そんなこと、僕の住所を聞いてすぐに分かるほど詳しい運転手が間違えるはずもないのだ。
なのに、声をかけるかどうか戸惑っている間に、車はなぜか大正通りを外れた。しかも、今宮とは逆方向に。すると、車通りが一気に少なくなった。それから、いよいよ運転手の挙動が怪しくなってきて――停車中にどたどたっ、と左手が運転席と助手席の間のボックスの蓋を何度か騒がしく叩いた後、それを開けて中にあったミントタブレットのケースを手に取った。その手つきが口臭をおさえるための行為とはとても思えず。たまらず声をかけようとした瞬間、がちゃりと鍵が閉まる音がした。
運転手が大口を開けて大量の錠剤をタブレットケースから飲み込み、気を失ってハンドルに突っ伏すとともにアクセルをべた踏み。エンジンがうなりを上げて、スピードメーターがみるみる上がっていく。
彼女が手すりに捕まりながら奇声を上げた。車体は小さな交差点を、幾度も突っ切る。このまま行けば、確実に何かに衝突する! 彼女がパニックを起こして、がちゃがちゃとドアノブを引っ張っているが開く気配がない。後部座席のドアがチャイルドロックされていた。
僕は後部座席から身を乗り出して、助手席に移動。ハンドルに覆いかぶさる運転手の体をずらして、開いた隙間に手を突っ込んで運転席のドアを開けて全体重をかけて体当たりして運転手を車の外へと弾き飛ばした。すぐさまブレーキを思いっきり踏み込む! アンチロックブレーキシステムが作動して、すさまじい振動が脚を通して伝わって来る。ペダルが折れてしまうかと思うほど踏み込んだ。
――車はペダルを踏んでからも百メートルあまりを走行し、尻無川が向こうに流れる堤防の一歩手前でやっと止まった。すさまじい反動で車体が突き上げられ、開けっ放しになった運運転席のドアが衝撃で外れて道路に転がった。数秒の沈黙の後、彼女が大量の吐瀉物を吐き散らした。それをもらうように僕も道路へとぶちまけた。
車内と口の中に酸っぱい匂いが広がる。――生きていた、何とか生きていた。不快感が、その証拠だった。そして、確信した。
あの運転手は、僕たちを殺す気だったんだと。
時間にしてものの数十秒。距離にして数百メートルの間の出来事だった。




