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苦い世界

 僕が雇った探偵ではなく、友人ということになっていた江戸川のもとにも、脅迫状の送り主が特定されたという朗報は入ったようだ。こちらから伝えようかと思う前に、向こうからかかってきたのだから焦った。――その電話で探偵事務所に来るようにと言われたその日が今日だ。

 江戸川は、僕と彼女の両方を呼び出したが、一度に三人で話し合うことはせずに、まずは僕とだけで話すことを要求した。


「脅迫状の送り主が特定されましたが、私にはどうも納得できていないことが多々あるんですよ」


 相も変わらずブラックデビルの真っ黒い煙草をくわえながら、窓の外を眺め背中越しに漏らす。僕は、やっと彼女から真っ当な人生を送る権利を奪った怨敵を捕まえることができたと安堵していたが、彼はそれを「どれだけおめでたいんですか」と一蹴。


「状況は詳しく聞いていますか」

「いいえ」

「――でしょうね」


 半ば辟易したように煙を吐く。


「容疑者は、三島さんのマンションの近辺をうろついている所を、脅迫状の送り主の捜査の一環として付近を調査していた刑事から職務質問を受けたそうです。投函前の脅迫状の所持が明らかになり、補導された。その後、脅迫の容疑をやすやすと認めた、と。――しかし、所持していた車は、木戸さんを尾行していたものとは違い、容疑は脅迫罪のみに落ち着き、身柄の拘束には至らず。このままですと相手に刑事的な制裁を加えることはできず、示談に持ち込まれるでしょう。想定していたよりもずっと、軽い痛手で逃げ切られるかも知れません」


 脅迫状の件で裁判を起こしたいという意思を示した時とは、また違った表情をした。渋い表情には、変わりないが――仕事が上手くいかなかったときの悔しさが滲み出るような表情だった。


「本来商売ですから、契約が短くなるような提案は控えるべきなのですが、示談を念頭に置いて、慰謝料を確実に取る形にした方がいいかもしれません」


 真剣さは理解できる。この人は、皮肉めいていたり、つかみどころのない言動をすることは多いけれど、きっと自分が思うよりも他人のことを真剣に考えている。――だから、彼の言いたいことは分かるし、彼との契約に貯金の大部分を使ってしまったことも事実だ。

 でも、そこまでつぎ込んだのも……彼女を守りたいという気持ちがあったから。それがたとえ歪であっても、彼女が受け入れてくれていて、僕を必要としてくれているから。そして何よりも。


「僕は、木戸さんが奪われたものを取り返したいんです。そして、奪った相手には制裁を加えたい。それだけです。木戸さんは、僕の憧れでした。それが天命院に何もかも狂わされて……。木戸さんは言ったんです。私にはあなたしかいないと」


 他人が聞いたら、ただの惚気と思われるかもしれないなと思い直してきまり悪くなる。


「新興宗教団体の中には、不安定な立場を食い物にする人がいるのも事実です。それに腹が立つことも分かります。ですが、彼女が言うように、あなたしかいないのならしっかり考えてください。復讐は何も生まないなんて安い台詞を言うつもりはありませんよ。ですが、それなりのお金と労力、時間もかかります。今の彼女のことを考えて決断してあげてください。――正義にも悪にも引き際というものがあります」


 もともとは相手に刑事的制裁を加え、天命院の名に少しでも傷がつけば――との目論見で江戸川もそれに助力する所存だった。もともと警告は受けていた。これで捕まるのは、いくらでも生えてくる蜥蜴の尻尾だって。なのに躍起になって、随分と彼女の事を蔑ろにしてきた気がする。泣かれたことも怒鳴られたこともあったな。


「私にお金を使うのも結構ですよ。商売ですからね。ですが、少しは彼女のためにお金を使ってもよいのでは――」


 彼が煙草を吸い終えて、ソファに腰を下ろし、ティーカップに指をかけて持ち上げながら諭すように言う。――そこで僕も決断がついた。だから、彼が言い切る前に口を開いた。


「ええ、そのつもりです。ですから慰謝料で少しでも貯金額を取り戻したいと思っています。それで木戸さんに、指輪でも買おうかと」


 多分どちらかといえば、あまり格好のいい台詞ではないと思う。それでも彼は、笑って「その意気です」と言ってくれた。


「これで俄然やる気が出てきましたよ。浮気調査ほどではないですがね」

「縁起でもないこと言わないでください」


 彼の悪童のような笑みがきっと今の僕にも移っている。彼とは友人とまではいかないだろうが、悪友くらいならなれそうだ。

 今後の方向性が固まったところで、改めて彼女と三人で面談をすることになった。思っていたよりも外で待たされてしまった彼女は、いささか不機嫌だったが、刑事的制裁よりも、慰謝料を確実に取ることを狙う、示談に持ち込まれそうになっても、強気な姿勢でという指針には納得してくれた。

 江戸川との話は、内容がいつも殺伐としていて気分が沈むことが多かったが、今回は朗らかなままで終えられた、と内心は安心していた。だけれど、話がまとまって、探偵事務所を後にするとき、彼女が先に出て行って僕だけが事務所にいる状態になったほんの数秒を狙って、彼は忠告して来た。


「これからは弁護士を通してのやり取りが主になります。ですから、自分の社会生活を取り戻していくことに注力してください。――でも油断は禁物です。相手は身柄を拘束されていません。ごく普通に社会生活を送ることになります。それが最も注意を払うべきことです」


 やはり彼との話は、後味が悪い。――まだ僕らは苦い世界から一歩も出ていない。

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