不安
それから、よく夢を見るようになった。やけに現実と近い夢――始まりはいつも自分の寝室で、目覚めているときと寸分違わぬ鮮明さ。いつも隣で寝息を立てているはずの彼女の姿はないが、布団の膨らみだけが存在している。中に誰か入っているのかと手を伸ばして探ると、べったりと不快な感覚が腕を襲う。布団から出した腕は真っ赤な血で濡れていて、思わずベッドから転げ落ちて後ずさりをする。と、そのとき、どんだんどん――どんだんどんとベランダから窓を叩く音が。振り返った瞬間、べたっと男の手がガラスに張り付く。その手は血で濡れていて、窓ガラスを赤い血がだらりと伝う。どんだんどん、どんだんどんと窓を叩く音が激しくなって、ぴきりぱきりとガラスにひびが入る。やがて、穴が開いて、男の手が窓を貫通して、穴がどんどん押し広げられて。床に散乱したガラス。男はそれを踏みしめて真っ赤な足跡をフローリングに残しながらのそのそと近づいて来る。来る――来る。
「来るなぁあああああっ!」
いつもその夢を見た後は、ぐっしょりと汗をかいてる。――彼女と一緒の布団で寝ているということが申し訳ないと思うほどに。
今日もその悪夢に襲われて、彼女から訝しげな視線を送られて逃げるように会社に出てきた。自主的にとった休憩時間、スマートフォンには通知がたっぷりと溜まっていた。
“最近どうしたんですか? 寝つきも寝起きもよくないですし。うなされていましたよ。悪い夢でも見ていたんですか?”
なんてことのない、普段の会話のつもりで彼女は話しかけているのだろうけど、それでぼろが出てしまったらなんて考えている僕は、親指が画面の上でうろうろしたまんまで何もできない。十分余り考え込んだ挙句、既読無視のままで仕事に戻った。
大手食品会社の工場に加熱消毒機を導入するプロジェクトも大詰めを迎えていた。オーダーメイドの配管部品は、製図仕様込みで各員が担当することになっているから、個人のペースを考慮して余裕を持ったスケジュールを立てている。恥ずかしい話、社内での予定は何回か先送りにしてもらったが、担当していた配管部品はほとんど製作を終え、ここのところは視察と納期調整、それから他のチームへのフォローなどが主な業務だった。――だから正直、今日のようにほとんど眠れていない日は、体調不良で休んでもいいくらいだった。だけど、彼女から逃げるようにして仕事に出てきた僕は、どうにかして家に帰る時間を少しでも遅らせたいなんて考えている。
現場に戻ると、配管の製作でよく使っている油圧ベンダーのメンテナンスを頼まれた。頻繁に使う工程も終了したこの時期に一気に清掃してしまおうということになったようだ。
オイルのこびりついた黒ずみ汚れを研磨剤で落とす。ただでさえ、寝不足でふらついているというのに。研磨剤を分散させている灯油の臭いで、吐き気がしてきた。何とか堪えて――でも意識は朦朧としていた。
僕に怒号が飛んで来たのは、研磨剤での清掃を終えて、溶剤での洗浄に入ったときだ。
「おい! なにやってんねん!」
思わず肩が跳ね上がった。しばらくは、どうして怒鳴られたかよく分からなかった。普段なら、自分の身の回りを見直すぐらいはできるのだろうが、疲労のせいか思考が停止してぼうっと立ち尽くしてしまった。「早くアースを繋げろっ」という声でやっと事態を把握した。溶剤を染み込ませた大量のウエスを入れていたペール缶から、アースを取るための導線が外れていた。ペール缶が所謂、“浮いた導体”となっていたのだ。――静電気発火の条件が揃っていると気付いて、血の気が引いた。
「もうええから、不安全作業するくらいなら今日は休め。ほんまに火が出たら、えらいことやで」
いつも以上にとろい僕を、辟易した声で諭す。こんな情けない気持ちになったのは久しぶりだ。さっきまで、どうやって家に帰る時間をずらそうか考えていたのに、早々と職場を追い出されてしまった。
電車に揺られながらため息をひとつ。まだ日が高いうちに帰ることになろうとは。休憩中にやり過ごした、彼女からのメッセージを見直すと、「忙しいのかなあ」という一言とともに、首を傾げる犬のスタンプが送られていた。いよいよ既読無視を続けるわけにもいかなくなってきた。
“最近、夢見が悪くて”
なんて無難な返事で誤魔化す。このまま帰ったら、絶対に問い詰められる。――けれど、まっすぐ帰るか。そう諦めたところで、とびきり大きなため息が口からこぼれ出た。
***
玄関で靴を脱いで上がるや否や、待ち伏せをしていた彼女と睨み合う格好になった。かわそうとしても、にじり寄られて僕は靴下のままで土間に後ずさりして、ドアまで追い詰められた。
「三島さん、何かあったんでしょ? こんな早くに帰って来て」
こうなることは予測済みだった。読みが甘かったと言えば、想像していたよりも倍くらい彼女の剣幕が凄かったことだ。つま先立ちになって精一杯背伸びしてまで、僕に詰め寄る。
「不公平じゃないですか。私のことは、あんなに熱心に嗅ぎまわっていたのに。自分のこととなると、ひた隠すんですかっ」
「いや、現場でやらかして、早く帰れと言われただけで――」
「それが私が聞きたい答えじゃないってことは分かってるはずです。時間を稼がないでください」
手の内が彼女に丸っと読まれていて、途中で言葉を失くしてしまった。江戸川からは、彼女には言うなと念を押されていたが、言ってしまうべきなのか。それとも……としばらく考え込んだが、彼女をかわす方法が思いつかなかった。
「江戸川さんに忠告された。僕たちが被害届を出して、訴訟も起こそうとしているということを読まれているかもしれない、と。最悪、強行手段を相手がとることも考えたほうが良いって――」
強行手段と少し表現をぼかした。江戸川には、はっきりと「殺されるかもしれませんよ」と言われたが。
「ごめん、木戸さんには言うなって言われていて――けど、それでこれからは何があってもおかしくないんだって考えると、不安になってしまって」
自分で自分が情けない、と漏れた声に、彼女は苦笑いを返した。それから手を伸ばして、僕の頬を撫でて、ぺしっと軽く叩いた。
「しっかりしてください。三島さんまで余裕がなくなったら、私本当にどうしていいか分からなくなっちゃいますよ。私には三島さんしかいないんですから」
僕の肩に縋りつくようにして腕を回し、囁くような声で。三島さんしかいない――彼女が独り抱えていた過去から出たその言葉は、僕を必要だと訴えているけれど、むしろ情けない僕のことを守ってくれているようで。僕も、いや僕の方こそ、彼女がいないとダメなんだろう。その言葉は口から出さずに、そっと彼女の細い腰に腕を回した。
そんな流れで数十秒間玄関先で抱き合っていたなんて、冷静になってこっ恥ずかしくなってきたところで電話が入る。職場からかと思ったが、かかってきたのは大阪府警からだった。相談窓口で応対していた婦人警官の声が聞こえる。
「脅迫状の送り主が特定されました。本人も容疑を認めています」
その一声で、僕を襲っていた不安が途端に消え失せた。




