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僕らに憑りつく影

 江戸川の探偵事務所は、JR大正駅から東に少し進んだところにある。八階建てという、特別高いわけでもない、どちらかと言えば低い部類に入る雑居ビルの五階にある。ごうんごうんとやたらとうるさい上に速度の遅い狭苦しいエレベータで上がる。


「ここに来るときだけど、大正駅の高架下に、紺色のバンが停まっていたでしょ」


 と彼女が言うけれど、あまり周りを見ていなかった僕には覚えがない。ああ、なんて適当な返事を返す。


「よく見るの。車のナンバーも見ている。だから同じ車だと思う」


 震えた声を出して、僕の肩に縋り付く彼女。それが被害妄想でなくて、事実だと言うことはもう分かっているのに、彼女が僕を試そうとしているように聞こえるのは何故だろう。「安心して、大丈夫だよ」なんてそんな無責任な言葉を彼女が求めていると思ったから呟く。すると、ちょうどそれが欲しかったと応えるように、「ありがとう」と返して、手を握ってきた。いつもは温かく感じられる彼女の手が、なぜだか冷たく感じた。


 たどり着いた八階も灰色のコンクリートがむき出しだった。壁にはひびが入っているし、天井からは鍾乳石のつららがぶら下がっている。おまけに、事務所の入り口は、殺風景な鉄製のドアで正直中にあるのは配電盤ぐらいにしか思えない。


「本当にここなんですか?」


 雑居ビルに入っている店舗一覧を示した看板にこそ、『江戸川探偵事務所』の表記は、申し訳程度にあったが、肝心の事務所のドアには表札すらない。だから彼女がそう思うのに無理はない。


「表札ぐらいつけてくれないと不安になります」


 至極まっとうな意見だと思う。江戸川本人は、隠密な仕事だから目立たない方が良いなどと言っていたが、多分ものぐさなだけだと思う。

 ドアを軽くノックして開ける。少し埃臭い江戸川の書斎が現れる。

 彼は革張りの椅子に腰掛けて、六法全書をぱらぱらと捲って紙面をなぞっていた。しばらくして、背後でドアがばたんと大きな音を立てて閉まったところで、彼は六法全書をぱたりと閉じた。


 「びっくりしたぁ」と肩をこわばらせる彼女。ドアクローザーが役割をまるで果たせていない。


「おや、これはこれは。あなたが木戸加奈江さんですね」


 どうして知っているんですか、と彼女は驚きを露わにする。


「いえ、次にここに来るときは、連れて来てくださいとお願いしたのは私なので――お初にお目にかかります。三島さんと、あなたの元に届いた脅迫状の件で相談を受けておりました、探偵の江戸川京太郎と申します」


 驚きとともに警戒心も示した彼女のもとへと歩み寄り、僕に渡したものと同じ名刺を彼女に差し出した。少し間を置いて、「ありがとうございます」と小声で受け取ってお辞儀をする彼女。


「あ、すみません。私は名刺を持ち合わせておりません。カナリアという名前で、ミュージシャンの活動をしています。木戸加奈江と申します。よろしくお願いします」


 彼女はミュージシャンやライターとして活動する前に少しだけ社会人として働いていたことがあるらしい。僕よりよっぽど丁寧な受け答えだった。

 応接セットに向き合って座る。彼はアールグレイを淹れて振るまった。彼女は、その香りをいたく気に入って、「良いお茶ですね」と褒めた。


「でしょう? 茶葉だけでなく香り付けのベルガモットにも拘っていましてね」


 彼曰く、鼻に抜ける香りが清涼感の中にトロピカルさを感じさせるもので、リラックスすると同時に頭が冴えるのだという。感性が鈍い僕にとっては、爽やかな紅茶だなあという程度。次元が低すぎる僕を置いてきぼりにして、彼と彼女が盛り上がっていた。――少し、嫉妬した。


 本題に移ったのは、紅茶の銘柄や産地をしばらく話した後だった。心なしか、彼女が示していた警戒心が少し和らいだような。


「以前から脅迫状を送り付けられていたとのことですが、被害届は出されていないのですか」

「脅迫状は匿名で、入信していた私は組織の構造をある程度心得ています。運良く差し止めまで叶っても、またすぐに次が来ることは確信づいていました。それに下手に刺激すれば、嫌がらせが激化することも分かっていましたし。――耐えるしかない、と思っていました」


 耐えるしかない、と思っていた。彼女がそう漏らしたところで、江戸川は僕に目配せをして来た。彼女が耐えるしかない、と言ったその内容は少し前に、彼が僕に警告してきた内容と同じものだ。自分が、まるで彼女に浅はかな夢でも見せて騙しているようにさえ思えて来た。

 けれど、もう、後には引けない。僕は、彼女を救う、と決めた、から。


「僕は天命院を許せません。だから、天命院の中で、木戸さんのことを疎んでいる人物を突き止めて攻撃を――」

「天命院が疎んでいる訳ではありません。木戸さんが天命院を離脱することも、脅迫状の要件も、天命院にとってそれほどの深手を与えることではありません。天命院はただ、“木戸さんを憎むことで組織に貢献している”と信者に刷り込ませているだけです。そこからは、自動的に木戸さんに矛先が向けられた状態が持続します。木戸さんの仰る通り、相手は一枚岩なんてものではないです。天命院については、私の知り合いの弁護士の方も、厄介な相手だと言っていました。――私は、三島さんから依頼を受けていますから、もちろん協力はします。木戸さんの意思も今日、知れましたし。救いがないとは言いません。ただ――“長い戦いになりますよ”」


 彼が最後に念を押した声が、鼓膜にこびりついた。

 彼には、いくつかの宿題を出された。脅迫状の現物をできるだけ保存しておくこと。形式が違うものがいくつかあればなお良いと。それから、日記をつけること。彼女だけでなく僕も付けるように言われた。視線を感じた、だとかそんな程度でもいい。全て残しておいてほしい、と。

 その週の土曜日には、それまで書き記した日記や、脅迫状を持ち寄って、警察署に出向くことになっている。情報が多ければそれだけ、親身になって取り合ってくれる可能性も高い、と。


「木戸さん、――頑張ろうね」


 探偵事務所の入っている雑居ビルを出たところで、黙りこくっていた彼女にそう声をかけた。彼女が冷たく頷いた。


「何でも日記に書いていいって言っていたね。昨日の、ラジオの収録とか。ほら――、あの、いつもつけて来ている車があるだとか――」

「分かってるわよっ!」


 僕としては、アドバイスをしたつもりだった。だが、彼女はそこで声を荒げた。――けれど、しばらくして、息を整えて、「ごめんなさい」と呟いた。


「その……、ちゃんと向き合わないといけないんだって思うと、辛くて。三島さんは。悪く、ないですから」


 僕にはその言葉の、“辛くて”というところは、あまり聞こえなかった。“三島さんは、悪くない”というところは、よく聞こえた。

 ふらふらと彼女が僕に寄りかかってくる。さらさらと彼女の髪を撫でた。


「あれ――」


 ようやく落ち着いたところで、彼女が大正駅の高架下に停まっていた紺色のバンを指差した。中に人は乗っていないようだ。ナンバープレートを一瞥して、彼女はそれを書き留める。

 内装などもチェックしたほうがいいのか。――でもあまり、じろじろと見ているのがバレたら、と思ったときに、運転席の座面に手袋と、帽子、マスクが置いてあった。ダッシュボードにはサングラスもある。日光を嫌うそれらの装備には、見覚えがあった。鶴橋で、僕と彼女の乗っていた車のぴったり後ろをつけて来ていたあのトラックの運転手がしていたものと、全く同じだった。

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