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狂い始める歯車

 飲んでから帰りたい気分だったけれどやめた。そんなことをしても現実は変わりっこないから。

 そういえば――今日は木戸さんから連絡が入らなかったなと、なるだけ頭の負担にならないことを思い浮かべながら、家のドアを開ける。すると、彼女が待ち伏せをしていて、がばりと僕に抱きついてきた。服が彼女の涙で濡れた。


「何かあったのか」


 彼女が落ち着いて話せるようになるまでに、数分かかった。

 事件は、彼女が出演していたラジオの収録後に起きた。番組の中では、彼女は歌手としてではなくライターとして出演していて、海外音楽の訳詞やライナーノーツを執筆する際の美船京華(みふね きょうか)というペンネームを名乗っていた。

 美船京華としての活動は、天命院には知られていないはずだった――と彼女は言ったが、どうやらそれがわれてしまったらしい。

 天命院の使いの男が、スタッフの中に紛れていて、接触してきたのだと。


「収録に入るまでは、すごく優しくて真面目な人だったのに。収録が終わってスタジオを出て、控え室に戻っていたんです。すると、収録内容について確認したいことがあると、控え室を訪ねてきて――ちょうど二人きりになったところを見計らって、彼は豹変したんです」


 声が掠れて、彼女がそのときに感じた恐怖が、こちらにまで押し寄せてくる。男は彼女に無言でにじり寄り、天命院の名を口にし、今度撮影する映画のナレーションの依頼をしてきたという。


「天命院に出資をしている芸能人が多数、声優として出演されるアニメーション映画です。普通のファンタジー作品として売り出すポスターも作っていましたが、ストーリーは宗教色が濃く、興行収入ももちろん天命院の資金源になります」


 その誘いを逃げるようにというか、もう、全速力で走って振り切ったのだという。相手が中年太りした男だったのが救いだったと。


「私の時と手口が一緒です。私、天命院に籍だけを置いて暴露本の資料を集めるためにいろいろな信者の方と話をしていたんですが、その小説の作者は、公募に何度も挑戦していて、でもいつも最終選考で落ちてしまう。そうやって、精神的に弱ったクリエイターを囲ってそこで商売を始めるんです」


 まったくもって卑劣です、と語気を強めて付け加える。彼女の口調には、クリエイターを食い物にする天命院への激しい憎悪が感じられた。

 ひとしきり話してから、彼女は僕の胸に顔を埋めた。――こうすると、今日感じた恐怖も消えうせるから、と。

 そのままそっと口づけて、僕の身体を引いたり押したりしながら、ベッドルームへと誘う。今日はいつもよりも、力が強い。鬱憤が溜まっていたり、不安が押し寄せてくるときは、彼女は激しく僕を求める。


「ねえ、このままさ、どこかへ行っちゃわない?」


 ベッドの上で猫のように背中を弓なりに曲げて彼女は鳴いた。


「どこかって?」

「遠いところ。天命院(あいつら)が嗅ぎ付けてこないような。もう、うんざり。暴露本ならさ、国外からでも出せるし」


 その方が足もつかないから気が楽だ、と付け加える。彼女は海外の楽曲をいくつもカバーしていて、歌詞も(そら)んじられるほどで、英語、フランス語、スペイン、ポルトガル語なら日常会話には困らないそう。――外国語がからっきしの僕からすれば、とんでもないインテリだ。


「だから、その気になれば、国外での暮らしもできると思うし、その方が安心できる」


 でも僕はそのとき、どうしたらいいのか。彼女は、音楽という世界で通じるものを持っている。彼女が、フェアーグラウンド・アトラクションの“Perfect”をカバーしたときは、外国の人も何人か足を止めて聞き入っていた。

 だけど、僕は、外国(そこ)でいったい、何が出来る?――途端に自分が矮小な存在に思えて、口調が沈む。


「どうしたの?」

「木戸さんはさ、それでいいのかもしれないけど」


 僕は、彼女に求められて、その度に蹴り上げられる風船のように浮かんでいたんだと思う。でも中に入っているのはヘリウムではなくて重たい空気。途端に君が、僕を浮かび上がらせることを止めて、そのままどこか遠くに行ってしまうような気がした。


 「“もしも”の話よ」と彼女は言った。僕は少しだけ安心した。まだ、彼女が僕という止まり木から飛び立たないでいてくれるかのように感じられて。そう、彼女が激しく僕を求めるように、僕にもまた彼女が必要だから。


「明日、会ってほしい人がいるんだ。仕事終わりになるんだけど、付き合ってくれるか」


 だから、彼女を縛り付けたかったのかもしれない。――江戸川のことを話すなら今しかないと思えた。今を逃したら、きっと彼女は僕を置いて、どこかに行ってしまうような気がして。

 やがて静かに彼女が頷いた。彼女は、裁判が自身の状況を好転させてくれるものと思ってくれているのか。それとも、僕に調子を合わせているだけなのか。分からないから僕は、まだ上体を起こしたままの彼女の隣で、ふて寝をした。

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