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異動

 昼休憩、親に電話をかける。用は、親父の本棚にあった、あのうんざりするほど分厚い六法全書だ。


「しばらく貸してくれるだけでいいんだ」


 そうは言ったものの、母親はどこか気味悪がっていた。高校のときの苦手科目は、現代社会。就職活動のときも一般常識に疎くて悪戦苦闘していた僕を知ってのことだ。


「きな臭いことに巻き込まれてへんやろね」

「大丈夫だよ」


 親に大嘘をついた。巻き込まれているどころか、自分から首を突っ込んでいる始末だ。裁判を起こしたいと彼女に打ち明けた時の、あの歪んだ口元が脳裏に浮かぶ。江戸川の半ば警告とも取れる強い口調が、ナレーションのように重なった。


『これで捕まえられるのは、いくら切ってもまた生えてくる蜥蜴の尻尾です』


 そう言っておきながら、僕を制止しなかったのは、それが仕事だからか。あのときの江戸川は、状況証拠集めを楽しんでいるような素振りさえ見せていたし、きっと浮気調査よりも仕事として興味があるのだろう。そう考えると、少し腹立たしくなってきた。

 電話を切り、ため息をつく。吐息がかかって、僅かに画面が曇った。


「嫌な溜息だな」


 普段は喫煙休憩室にいるはずの門脇さんが、禁煙休憩室にやってきて、僕の向かいに腰を下ろした。ヘビースモーカーだから、一言発しただけでタバコの匂いが漂ってくる。そんな門脇さんが、わざわざたばこの吸えない環境にやってくるというだけで、大事な話でもあるのかと身が引き締まる。


「どうしたんですか、いつも昼休みは社食の後は喫煙休憩室にこもりっきりなのに」


 門脇さんが周りを軽く見渡す。当然まだ何人かは、弁当をかき込んでいるし、くつろいでスマートフォンをいじっている人もいる。


「ここでは話せない話だ。ちょっと付き合ってくれ」


 その言葉は粗方予想していた。一日に一箱と言わず、二箱も当たり前な門脇さんだ。禁煙休憩室まで僕を探して訪ねてくるということは、よっぽど込み入った話だろう。

 案内されたのは、工場の建屋の裏に設けられた簡易喫煙所。本来の喫煙所は事務所に隣接しているが、普段、現場での作業が多い人たちにとっては遠い。そして、皆が一斉に休憩をとるお昼時は狭苦しい。そこで建屋の裏に灰皿スタンドとベンチを置いただけの簡易喫煙所が設けられた。

 その隅に、雨の日や風の強い火に、灰皿スタンドをしまっておく倉庫がある。


「まあ、察しはついているだろうが、人事のこぼれ話や」


 門脇さんは、ここに勤めて長い上に、重役だ。会社の人事の動きもいち早く捉えている。


「ここのところ、あまり仕事に集中できてへんみたいやからな。人事の間で異動の話題が上がってる」


 異動。ここに勤めて三年目。ひとつの節目といってもいい時期に、その言葉は妙な実感を持って僕の胸に突き刺さった。


「この会社には、ここの本社工場、梅田にある営業所、千葉にある関東事業所。海外拠点として中国、インドネシアがある。そのうち、杭州にある中国拠点には、何度か出張で行ったことがあるな」

「はい」


 日本ではメーカーと綿密に商談をしてオーダーメイドの製造機器を立ち上げたり、メンテナンスをすることが多いが、中国では量産型の加熱殺菌機の導入がまだ多い。その仕事内容の違いから、入社後半年で海外研修として杭州の工場での仕事を見学する。それからも何件か、中国に赴き、装置のマイナーチェンジなどの企画に参加した。


「その中で、装置に使うシャフトの数を減らした実績があるな。あれは当時から評価が高かった」


 懐かしい仕事だ。中国拠点ではオーダーメイドの態勢がそこまでなかったから、あまり入念な視察を行っていなかった。そこに目をつけたというか、単に本社工場での仕事の流れから頭を切り替えられていなかっただけなのだが。僕が提案した視察に、上長が乗っかったことで、こちらで改善できる点がいくつも出てきた。この流れがきっかけで、中国拠点と深く関わることになり、拠点の利益を上げてきたのが、ちょうど半年ほど前までのこと。現在も中国拠点とは、その件で頻繁にやりとりをしている。


「こっちでの働きが鈍った今、それが再評価されている」


 鈍感な僕でも、ここから導き出せる答えは察しがついた。けれど、認めたくはなかった。異動という言葉を最初に聞いたときは、てっきり同じ事業所内でのものだろうと高をくくっていた。まさかそれが……大阪を離れるどころか、日本を離れる話になるとは予想だにしていなかった。


「もちろん、無理強いできるものじゃない。しかし、そう言う動きがあるということは、分かっていてくれ。そして、家族や恋人に相談する時期は、なるだけ早いほうがいいと思ってな」


 門脇さんなりに、僕のことを思って早めに伝えてくれたみたいだ。

 だけど、だからと言ってそれを両親や、ましてや木戸さんに打ち明けられる覚悟がつくはずもなく、僕はただ仕事に没頭した。多分今からここでの仕事を頑張ったところで、異動は運命づけられたようなものなのだろうが。

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