不都合な表情
江戸川は鋭い目で、僕を見つめ、念を押した。脅迫状の送り主を突き止めれば、一時的な差し止めは可能だろう。だが、根絶までには至らない、と。
「脅迫状の送り主は、天命院という団体ではなく、個人ですから。そこで追跡が止まってしまいます。一つの発送元から、あなたの家への送り付けを止めることはできても、じきに別の発送元から届くようになるだけです」
「根絶する手立てはないんですか」
「それこそ、脅迫状の要求を呑むか、こちらから行方をくらませるか、ぐらいですね。どちらも、あまりお勧めするものではないですが。」
厳しい見解に思わず、僕はすくんでしまう。息が詰まって、ぐっ……だとか、そんな音が唇から漏れたかもしれない。それを聞いてか、江戸川は「しまった」とでも言うように口をあんぐりと開けた。彼はいちいち、芝居がかった仕草や言い草が多い。
「おっと、すみません。これからも御贔屓にしてもらうお客さんだというのに、希望のないことばかり言ってしまいましたね。まずは、送り主を特定するために、動き始めましょう」
「具体的には、何をすれば……」
「脅迫状は、要求を呑まない限りは、送られ続けます。つまりは、『犯人は必ず現場に戻って来る』というわけですね。――脅迫状は、付近のスーパーのチラシと同じ要領で、直接郵便受けに放り込まれたものと間違いないでしょう」
「マンションには防犯カメラがあります。その映像があれば――」
機転を利かせたつもりだったが、防犯カメラの映像を一介の市民が見ることはできないと一蹴された。「それこそ、警察を動かす必要がある」と。
「そのためには、証拠を集める必要があります。そうですね。脅迫状を彼女がもらった過去の分も集めるというのは、どうでしょうか。」
以前、彼女の家を訪ねたことがある。郵便受けにぱんぱんに詰め込まれた紙。内容は確認させてはもらえなかったが、協会つまりは天命院からの嫌がらせで送られてきた脅迫状だと彼女から聞いた。――そのあと、彼女は目の前でチラシ用のゴミ箱の中に、それらを詰め込んだ。溢れて中から蓋を押し返してくるものだから、体重をかけて潰した。これまでの脅迫状もそんな風に処分してしまっているのか。
もう処分してしまっているかもしれない、そう話すと江戸川は少し落胆した。
「まあ、木戸さんに相談してみてください。もしかしたら、取り置いているものがあるかもしれませんし。あとは鶴橋にある木戸さんの家の方にまだ届いている脅迫状があるかもしれません」
ため息をつきながら、ブラックデビルの煙草に火を点ける。その匂いと気迫を纏って、江戸川は言葉に重みを加える。
「それから、裁判をするつもりならば、木戸さんの説得も必要です。彼女の隠したかった過去が、あなた以外にも事細かに知られてしまうことになりますからね」
それを彼女は望まないだろうことは、鈍感な僕でも予測できた。だからと言って、引き下がりたくはない。
「とにかく、彼女としっかりと話し合ってください。次は、彼女もここに来てもらいますよ」
えっ、と思わず声が出た。裁判を起こすとなれば、彼女と相談が必要なのは承知していたが、まさか彼女を江戸川の探偵事務所に連れてくるように要求されるとは。
「私が、状況証拠を集めるよう言うのは、ここらへんの警察が特に腰が重いというのを知ってのことです。過去の脅迫状が見つかっても、少し口が上手くなければ動いてくれないでしょう。私が助け船を出します。ああ、ご安心ください。あなたが彼女のことを捜索するために私と契約をしたという経緯は秘密にしておきます」
そうは言われたが、僕と彼女の前で、江戸川がぷかぷかと煙草を吸う。そんな光景が想像できない。契約をしていない彼女からすれば、彼は胡散臭い探偵に他ならないからだ。
一、脅迫状の送り主の特定に動き出し、裁判を起こそうとしているという意思を、彼女に話す。
二、脅迫状の送りつけを、刑事事件として扱うための証拠集め。江戸川および、警察の協力が必要。
三、送り主を特定し、刑事裁判および、民事裁判を進める。
江戸川と決めた大まかな流れは、こんなところ。この流れを今から彼女に伝えるのかと思うと、頭が重い。マンションのエントランスを開ける暗証番号を打つ指の動きが、重々しい。ピッ――ピッ――と入力音が、静寂の中反響する。数秒遅れて、エントランスの鍵が開いた。
彼女は、僕の決断をどう捉えるだろうか。そう考えたときに、江戸川の言った厳しい言葉が脳内に木霊する。
『一つ、脅迫罪は被害者が受けた心的苦痛に見合った額が、損害賠償として支払われることは、まずないと考えてください。二十万円か三十万円がいいところです。おして、もう一つは、――これで捕まえられるのは、いくら切ってもまた生えてくる蜥蜴の尻尾です』
被害届が受理されて、送り主が特定されて、逮捕状が出るところまでこぎつけても、それは天命院に対しては何の効力も発揮しない。いくらでも生えてくる蜥蜴の尻尾のうち、たった一本。それと、少しばかりの慰謝料。それらと裁判を起こすための労力や、聴取が入ることのストレス。天秤に何度かけてみても、答えが分かってしまうようで、辛い。
玄関の鍵を開けても、彼女が歩いてくる音がしない。時刻は夜の十時。夜型の彼女には珍しく、早寝してしまったかと思ったが、リビングも寝室もキッチンも人の気配がしない。そこでようやくスマートフォンの画面を開いて、彼女からメッセージが入っていたことに気づいた。
『ごめん、今日、レコーディング長引くから遅くなる。先に寝てていいよ』
スタジオ入りが深夜になって、そこから朝日が昇るまでレコーディングなんてことも珍しくない彼女。待つのは気が遠くなる話かもしれない、けれど、今日のうちに話しておかないといけない気がして、テレビで放映されていた映画を見て待つことにした。
正体不明の殺人鬼から、執拗にかかってくる電話。追いかけてくる気配。小柄な女優が恐れおののきながら、悲鳴を上げて逃げ惑う。迫真の演技で、その姿が木戸さんと重なって見えた。――それから、くだらない深夜バラエティが始まって、アニメが始まって、クロージングまで見送った。けれど、彼女は帰って来なかった。
流石に限界が来て、ソファーに座ったままで、ほとんど動けなくなったぐらいに、彼女が帰って来た。ゆっくりと探るように鍵を回したが、それでも彼女の帰りを待ち侘びていた僕には、しっかりと聞こえた。
「み、三島さんっ、起きてたんですかっ」
リビングの明かりがついていて、ソファで僕がうつらうつらとしているのを見て、彼女は驚きの声を上げた。
「明日も仕事があるのに、駄目じゃないですかっ」
夜更かしをしている子供を叱るみたいな言い方だ。いや、やっていることは大差ないか。
「ごめん、今日のうちに言っておかないといけないことがあって」
今日とは言っても、すでに日付が変わって四時間は経ってしまっている。もうあと一時間もすれば、朝のニュースが始まる局だってある。
「そうまでして、言っておかないといけないことって何ですか。私のために、無理なんてしないでください。三島さんには、三島さんの生活があるんですから」
一緒に暮らしているのに、何を言っている。もう彼女は、僕の生活から引き離すことのできない存在だ。彼女のためなら、無理だってなんだってしてやる。そんな想いを込めて、僕は自信の企みを彼女に打ち明けた。
「脅迫状の送り主を特定して、裁判を起こすつもりでいる」
「え――」
凄まじい眠気で、立った瞬間身体がよろけてしまった。が、脚を踏ん張って、しっかりと彼女の瞳を見つめる。彼女は狼狽しているようだった。正直、表情は目が霞んでいて、焦点も合っていないから、よく分からない。
「木戸さんを苦しめた人に、少しでも報復をしたい。――でも、そのためには、木戸さんの協力が必要で」
「首を突っ込むと、三島さんも脅迫の対象になるかもしれませんよ。天命院は、司法関係の入信者を増やすことで土台を築き上げた。そんな宗教団体を相手にするほど、脅迫状の件は大事ではありません。これは、私個人の問題で終わらせておくべきです」
「でも、もうこの家に脅迫状が届いている。僕だって、木戸さんとの生活を脅かされているっ」
語気を強めると、彼女の頬をたらりと涙が流れた。アイシャドウが滲んでいる。
「逃げるって言ったら怒るんですよね?」
彼女は涙を拭くようにして、僕の胸に顔を埋めた。
「わがままだとは思いますけど、自分の境遇を呪いたくなるんです。一緒にいるだけで、相手の重みになってしまうなんて……」
きっと、彼女は変化を求めていないんだと思う。このまま、時間が止まって、次の脅迫状も来ないし、僕らの生活は永遠に脅かされない。そんな決して叶うことのない幻想を、無邪気に信じていたいんだと思う。無論、僕だってそうしたい。けれど所詮、それは幻想。
「僕は、木戸さんとこれからも一緒にいたいから、戦いたい。これは僕の意思だ。だからあとは、木戸さんが」
「私も、三島さんがそう思うのなら――協力します」
協力してくれる。その言葉を聞いて僕は安堵した。けれど、彼女の瞳が一瞬、翳りを見せた。それを僕は、見えていながら知らないふりをした。彼女が自分自身の意思ではなく、僕ら二人の関係が続くためならば、と呑んだように見えたことを、僕は心の中で押し殺した。それは、僕にとっては不都合な表情だったから。




