蜥蜴の尻尾
彼女の暗い過去も酒の酔いが紛らわしてくれるものだと思っていた。すべてを洗い流して、たらふく美味しいものを食べて、それで今日は安らかに終わって、これからもまだ僕らの安寧が続いていく。そう思っていたけれど、そのすべてが一枚の紙に打ち砕かれた。口中に残る酒の香も、もはや虚しい。
彼女は黙りこくったまま、うなだれている。表情は確認できないが、泣いているのだろうか、肩が小刻みに震えている。僕らは、脅迫状を発見してから、エントランスで動けずにいた。まるで、鍵を失って締め出しを喰らったかのように。
やがて、静寂を破ったのは駆けだす彼女の足音だった。咄嗟にに伸びた僕の腕が彼女のダボっとした袖口を掴んだ。
「放してください」
「嫌だ」
その意志を込めて、彼女の服に癖がついてしまうくらいに、ぎゅっと握りしめる。
「振りほどきますよ。その腕を噛みちぎってでも」
気丈な声色、彼女ならやりかねないと思わせてしまう。けれどそんなもので怯んで、彼女を失いたくなんかない。黒髪のベールに表情を隠す彼女を睨むこと数分、固く握られていたその拳が解かれた。ふらりと僕の肩にもたれかかって、何も言わずに僕のシャツをぎゅうっと掴んだ。
「……後悔しないんですね」
ああ、後悔なんてするものか。だけど――僕は、いつまでも彼女に煙に巻かれてばかりではいられなかった。彼女を壁際へと追い詰め、逃げられないようにする。少し屈んで目線を合わせて、澄んだ瞳の奥の奥まで真っ直ぐに見つめる。
「その代わり、隠し事はないようにしてくれ」
決して自分のプライドのためなんかじゃない。今度こそ、彼女を守るためだ。一瞬、瞳を逸らされた。その一瞬だけで、また彼女がどこかに行ってしまうんじゃないかとどうしようもなく不安になる。
落胆のこもったため息が聞こえた。いや、どこか安堵も混じっていると思ってしまう。
うな垂れていた彼女が、僕の瞳を見つめ返す。そして、ふてくされた笑みを浮かべた。
「もう、私のこと、私がやっかいな女だってことうんざりするほど知っているはずなのに、どうして三島さんはそんなに優しいんですか? 私、ダメになってしまいますよ」
ダメになってしまうとは、どういう意味だろうか。他人に迷惑をかけて自分が救われるくらいなら――と彼女が考えてしまっているなら、僕はそれを否定してあげたい。彼女がどんな人生を歩んでいたって、幸せになる権利くらいある。
「ダメになんかならない。きっとこれから良くなるから」
我ながらキザったらしい台詞だ。彼女を幸せにするためにはどうすればいいのか、考えを尋ねられる前に僕は、彼女から唇と発言権を奪った。無策な自分を煙にまいただけの浅はかな僕の行動を、彼女は愛情と捉えたのか、それとも見透かしたうえで身を委ねているのか、僕には分からなかった。
ようやく落ち着いた彼女を連れてエレベータで上の階に上がり、自分の部屋のに戻る。彼女が再び、僕の部屋の敷居を跨いだことが嬉しかったけれど、はっきりさせておかないといけないことがある。脅迫状の内容だ。
「木戸さん、教えてほしいことがある」
彼女が、脱いだ上着にハンガーを通している隙に、玄関の鍵を閉めた。背中越しで姿は見えないけれど、彼女が背伸びをした気がした。振り返ると、こわばっていかり肩になった彼女が震えている。
「“原稿データ”とはなんだ?」
彼女の瞳孔がきゅうっと縮まる。生唾を飲み込む音が短くて狭い廊下に反響した。
「私、不定期でライターの仕事をしているんです。美船京華というペンネームで。主に海外音楽の訳詞やライナーノーツを書いています。一時期はライブハウスでの公演よりもずっとそれで稼いでいましたから、カナリアという名前よりも知名度があるくらいです。その名前を使って私は、天命院が犯した所業を告発する暴露本を出します」
あまり海外音楽に明るくない僕は、そのペンネームを言われてもピンと来なかった。告発の内容によっては、天命院の存在が脅かされるということか。
「はっきり言って、私が受けたものは、告発してもあまり効力はありません。イタい女の戯言と言われるのがオチです」
口ぶりでは自嘲していても、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。どんなひどい仕打ちを受けたと漏らしても、それが赤の他人なら笑う者がいる。それがゴシップというもの。
「でも、動かないものも押さえてあります。説得性を出すために前半は、その告発で固めています。教祖の大山隆則は、何冊か著作権侵害で出版差し止めになったものがあります。盗用されたのは、どれもあまり名の知られていない自己啓発本の類いです。報道関係者に根回しをしているのか、あまり世には知れ渡っていない事実です」
彼女は自身の決意を示すかのように、声の調子を強めた。僕も天命院を憎む気持ちは、彼女に負けないくらいだと思っている。彼女が起こす行動なら、尊重したい。
***
「それらが事実だとしても、天命院を吊るし上げることはできないでしょうねえ」
江戸川は、ウェッジウッドの茶器を片手に、彼女の起こそうとしている行動を否定した。まだ僕の口から出てきたばかりの言葉が、彼の耳に届くまでの間に払い落とされたぐらいの早さだ。思わずむっと口を歪める。
「僕は木戸さんのことを苦しめた天命院を、許すわけにはいかないと思っています」
「そうですか。それはそうとして私のもとを訪ねて来た目的は何でしょうか。はっきりと最初に明言していただきたいです」
大儀そうな言い草だ。江戸川の事務所を訪ねるのは、これで五度目になるが、回を重ねるごとに彼の態度はおざなりなものになっている。心なしか、事務所の片付けも雑になってきている気がする。だいたい、どうして彼は依頼人である僕を邪険に扱おうとするのか、考えるだけ腹立たしくなった。
「天命院の息がかかっていないもので、腕のいい弁護士を紹介してほしい」
「そう――来ましたか」
江戸川は茶器を応接テーブルに置いて、おもむろに立ち上がり、本棚から六法全書を取り出した。独り立ちする前、実家の本棚で異様な存在感を放っていたのを思い出す。改めて見ると、片手では収まらないほどに分厚い。
慣れた手つきで刑法のページを開く。彼のしなやかな指が、驚くほどの速さで『刑法 第二百二十二条 脅迫罪』の項を指した。
「条文では、『生命、身体、自由、名誉又は財産に対し害を加える旨』が告知されていれば、該当しますから、十分に満たしているといえます。この手の相談は多いんですよ。差出人不明の脅迫状のまま、被害届を出しても円滑に訴訟は行うことができないですから。相談する警察の人が悪ければ、邪険にされて胸糞悪い思いをすることだって考えられます。木戸さんの気持ちと、あなたの説得次第では、刑事告訴も可能です。弁護士に相談するつもりならば、損害賠償を求めるかどうかも考えてください」
なんだか拍子抜けした。僕はこの人がこんな意気揚々と仕事を進めるのを見たことがないかもしれない。彼の明朗快活な口調も相まって、目の前でドラマの撮影でも行われているんじゃないかと錯覚してしまった。
「なんですか、私が真面目に仕事をするところを初めて見たとでもいうような顔をして。これでも一応プロなんですから。弁護士の紹介はもちろん、依頼があれば、脅迫状の送り手の特定も協力します。でも、あなたにまず伝えておかないといけないことが、二つあります」
彼は右の手の指を二本立てて、それを僕の眼前に突き出してきた。怯むと同時に、無意識に彼へと向かった僕の視線。それを真っ直ぐに見つめ返す猛禽の如く鋭い眼差し。僕は彼から視線を逸らすことが、できなくなった。
「一つ、脅迫罪は被害者が受けた心的苦痛に見合った額が、損害賠償として支払われることは、まずないと考えてください。二十万円か三十万円がいいところです。おして、もう一つは――」
中指が折られて、人差し指がピンと立つ。これからいう言葉をよく聞いておけというように、わざとらしく大きく息を吸う。
「これで捕まえられるのは、いくら切ってもまた生えてくる蜥蜴の尻尾です」




