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僕らの安寧

 工場に勤める僕と、シンガーソングライターの彼女。全く違う世界で暮らす僕らは噛み合わない。僕と同じ時間に頑張って起きようとするも、早起きに慣れていない彼女は寝過ごしてしまったり、仕事が終わって僕が帰っても、ライブハウスでの公演で彼女はいなかったり。だからこそ、僕ら二人の時間は愛しく思えた。

 平日と休日の区別がない彼女と休みをなるべく合わせて、昼は僕に似合わないカフェに入って、夜はお酒に付き合った。同じ調子で飲むと先に僕が潰れるので、それはしない。


 この日は、家から歩いて数分ほどの、お好み焼きの店に入っていた。


「この店、もんじゃもあるんですね」


 最近では、お好み焼き屋といっても、もんじゃ焼きに、広島風お好み焼きまである店も少なくない。この店ではその他、とんぺい焼きやチヂミも取り揃えてある。


「もんじゃ頼んじゃってもいいですか」


 僕は、もんじゃ焼きというものを名前だけ知っていて実は食べたことがない。でも彼女が言うなら、と首を縦に振った。


「懐かしいなあ、東京にいたときは、結構食べてましたから」

「木戸さん、東京に住んでいたの?」


「メジャーとの契約が近かったころです。四年前ぐらいですね」


 四年前というと、彼女が天命院に入信していたころの話だろうか。


「三島さんは、あの頃の私を、もう知ってしまっているんですよね」


 落胆したように目を細めて、それを押し殺すように安い日本酒を流し込んだ。そして、しゃっくりをひとつ。


「不思議です。――あんなに知られることが怖かったのに、いざ知られて、それでも三島さんがこうして傍にいてくれる今、すごく安心します。私のことを肯定してくれる人がいるんだって」


 知ってはいる。けれど彼女が見せる可憐な笑顔の裏にどれだけのものがあるのか、それを想像すると、かける言葉を失って閉口してしまう。


「すみません、暗くしちゃいましたね」

「いえ――」


 苦笑いをする彼女、時折見せる翳りを目にすると、どうしようもなく不安になる。僕は、彼女の役に立てているのだろうか。


「木戸さん、どうしてメジャーデビューの話を諦めて、こっちにやって来たんですか」


 そんな自己嫌悪が始まると、僕は彼女のことをもっと知りたくなる。彼女のことを知ることと、彼女を守ることがイコールじゃないのは、重々知っているのに。


「メジャーデビューすることは、自分がやって来た音楽を否定されることと同義だったんです。もちろん、今となっては、宗教団体の関係もあって、断るべき話だったと割り切っていますけれど、当時はかなり深刻に悩んでいました」


 当時は音楽大学を出たばかりで、一般企業への就職を勧める親への反発と、将来への不安でかなり荒れていたそう。その荒れていた部分を売りにしていた不安定な部分もあったようで。なんかどこぞのパンクロック歌手みたいだ。今の彼女からは、想像がつかない。


「まあ当時からやっていた音楽は、辛気臭かったんですけれどね。歌詞は危なっかしかったですよ。人前では歌えないような曲もありました。不安ばっかりで、その掃き溜めみたいな曲が増えて、それで自己嫌悪になって無限ループみたいな」


 確かに彼女の曲の中には、ネガティブなものもある。代表曲の“You are my religion”もそうだ。彼女の性質は、どこか達観した心境や、自嘲、静かな怒りを表すのに長けていると感じる。その歌声と、危うさを纏った彼女も、それはそれでカリスマ性のようなものがあったかもしれない。


「彼氏に当たり散らすこともありましたし、いろいろ乱れていました。もう、その時には私、彼氏のことをストレス解消の道具みたいに扱っていて、自分といたらきっと幸せになんかなれないだろうななんて思って、わざとつっけんどんに扱って、独りで引きこもっていました。そんな時に、ツケがやって来たんです。そうして私は身籠った。しばらくは役所への届け出もせずに、ただうさん臭いカウンセラーを渡り歩いていました。そうしたところでしか、自分のどうしようもなさを打ち明けられないって思って。そこで私は、天命院と出会いました」


 そのときには、彼女が、宗教団体からすれば、格好の標的足りうる存在になっていたことは容易に想像できた。それからは、江戸川が立てた推測とほぼ同じ。彼氏と連絡を取るも煙たがられ、カウンセラーから言われるがままに中絶を決意。その間にカウンセラーからのコネで来たのが、メジャーデビューの話だったそう。けれど、他人の提供曲で、クラシックギターも弾けない。肝心の曲も、今いち惹かれないなと思ったら、売れなくなった芸人が話題作りのためにこさえたもの。


「だったら、私が歌う意味もないじゃないですか。それでメジャーデビューしても、きっと近いうちに契約も切られてしまう。それでも迷いましたけれどね。あの時の私は、メジャーデビューすれば、うんざりするほどダメな自分が救われるとでも思ってましたから。でも、やっぱり自分の好きな音楽ができないなら、と辞めたんです。それと同時にカウンセラーの対応も急変して、ああ、私利用されていたんだ、と悟っていろいろ冷めました」


 彼女の実家は、富田林にあるそうだ。夢破れて数か月ほどは実家で過ごしていたという。でもやっぱり音楽を諦めきれず、ストリートライブを地道に積み重ね、ライブハウスでの公演を幾度か経て、インディーズレーベルとの契約に至ったそうだ。


「すみませんね、食事中にこんなえっぐい話して」


 あまりにもずどんとくる内容だったので、発泡酒の泡の層が、口をつけないうちになくなってしまった。それを見て彼女は苦笑い。気にしないでくれ、と流したところで注文したもんじゃのタネが到着した。


「私、もんじゃを焼くのすっごく上手いんですから」


 彼女の顔から翳りが消えて、得意気な表情に。――彼女は強い人間だと思う。きっと、僕よりもずっと。凄惨な過去を歩んでいながら、あどけない笑顔を僕に向けてくれる。それを見ていると、もうひと時たりとも翳らせたくないと、願ってしまう。


「ちょっと、三島さん、見ていてくださいよ」

「あ、悪い」


 鉄板焼きの上には、綺麗に土手が作られていた。そこにクリーム色の生地が流し込まれ、香ばしい出汁の香りが立ち込める。


「あとは上からへらで押し付けながら、焼けるまでじっくり待ちます。私はおこげをぺりぺり剥がしながら食べるのが好きだから、結構しっかりと焼きますね」


 焼き上がったら、小さいへらでこそぎ取りながら食べる。お好み焼きはしっかりと固まるのだが、もんじゃ焼きは固まらず、ぐちょぐちょしている。おそるおそる口に運ぶ。おこげが口の中でほろほろとこぼれて、ウスターソースの香ばしい匂いが鼻に抜ける。ざく切りのキャベツとたっぷりのサクラエビの食感も楽しい。なんというか、お好み焼きとは違って、駄菓子やお酒のあてという印象だ。


「なんか、特別美味しいっていうより、時折無性に食べたくなるような感じなんですよね。安心するというか」


 たしかに、こうやって鉄板に貼りついた焦げを向き合いながら、こそぎ取っていると訳もなく楽しい。トッピングでチーズやら餅やらを入れると余計にジャンキー感が増して、なお良い。

 もんじゃを堪能した後は、鉄板を変えて、お好み焼きも食べた。久々にうんざりするほど粉もんを食べた。ちょっと食傷気味になるくらい。


 帰り道、店に入ったころはまだ仄明るかったのが、すっかり日が落ちていた。それでもどこかまだ暗いと思ったら、空は雲に覆われていて月が見えない。アスファルトの表面はうっすらと濡れていて、嫌な湿気を立ち昇らせていた。――悪寒が走る。まるで嵐の予兆のような。それを彼女も感じているのか、つないだ手が、ぎゅっと固く握りしめられた。

 けれど、背後に誰かの気配を感じたとか、そういうことはなく、何事もないまま家に着いた。エントランスの郵便受けをなんとなくチェックする。光熱費の払込用紙やチラシに混ざって、一枚の紙が。宛先もなければ、差出人の表記もない。そこには冷たい言葉が並んでいた。



 匿ってもらっているようだが、無駄だ。この場所は割れている。一刻も早く原稿データを抹消しろ。協会を裏切ったお前に、救いはないと思え。お前は明日をも知れぬ身だ。震えて眠れ。



 血の気がさあっと引いた。僕が喉をごくりと、鳴らした音を拾って、彼女が落胆に満ちた声を返した。


「脅迫状……ですか」


 僕らの安寧は、もうここにはない。

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