甘い生活
油圧式ベンダーがけたたましい音を立てて、金属パイプを折り曲げる。イヤーマフで少しは抑えられるが、それでもうるさい。今日は、仕様変更になった配管部品の試作を一気に進めるつもりだ。午前中は、仕事にならなったものではなかったが、午後はそれが嘘のように捗った。集団内の人間で共通した敵を作ると、結束力が高まると聞いたことがある。憎むべき相手が分かって、散漫していた思考が定まったのか。
「なんや、えらい精が出とるなあ」
感心したように笠原が言う。僕が木戸さんのことで仕事が手につかなくなったあたりから、笠原は僕に探りを入れているみたいだ。親友として気がかりなのだろう。
僕は、その詮索をそっけない返事で流すようになっていた。僕の仕事ぶりが不安定な原因が分かったところで、彼に解決できるわけでなし。そんなもの、自分で分かっているからだ。それに、自分のせいで今回のプロジェクトの進行が遅れていることに自覚はある。今さら、仕事に精が出たところでそれを深掘りされる謂れはない。
「別にいいだろ」
額の汗を拭いながらそう返す。視界の外で、彼は口を歪めただろうか。
「そうかぁ。話そうとしたんは、今度の技術報告会のことやけどな。問題がなければ、俺がやろう思うてるねんけど」
「ああ、この前の塗料の導入の内容か」
「そうや。でも三島も、配管部品の試作でいろいろと内容が溜まっとるやろ。まあでも、その分やと、試作作業に集中したいやろうから、確認だけ」
確かに、報告内容としては十分なボリュームがある。しかし、技術社員全員が集まる報告会での発表内容としては、いささかマニアック過ぎる。伝わり辛い内容のためにじっくり時間をかけて資料を作成するのは、取り越し苦労だろう。
「ありがとう。笠原の発表でいいわ」
笠原の内容ならば、新しい塗料の特性と、導入によって得られた効果という明快な内容で、ウケもいいだろう。背中越しに「ほな」と返事が聞こえた。それからまた、僕の耳はイヤーマフに包まれて、けたたましい騒音に耐え忍ぶことになった。――こんな集中力が持ったのは、いつぶりだろうか。定時を知らせるチャイムの音が、過ぎた時間の長さを伝えた。まだ余力のある僕は、迷わず作業を続けた。家に帰れば、彼女が待っている。その事実が、精神的な余裕になったのだろう。
憎むべき敵と、守るべき人の存在によって、僕の仕事ぶりはようやく落ち着きを取り戻した。
三時間ほど残業をして、家路についた。流石に疲れたな、と溜息をついてスマートフォンを取り出す。彼女からSNSのメッセージが届いていた。
『三島さん、今日は遅いんですか。路上ライブ始まっちゃいますよ』
可愛らしいクマのキャラクターのスタンプも添えられている。彼女の知り合いが趣味で描いたものらしい。
『ごめん、ちょっと仕事に熱が入っちゃって』
平謝りの文面を送る。すると、すぐさま彼女のアイコンが反応した。彼女愛用のクラシックギターとその横に並んだ「・・・」の表示。彼女が紡ぎ出す言葉を、今か今かと待ち侘びる僕。
『今ちょうど、ライブが終わったところです。会えるなら、落ち合いませんか』
その文面を見て、ゆっくりと上がる僕の口角。誰かに求められる、誰かに待ってもらえる。懐かしいこそばゆさが、僕の胸を襲った。
***
天王寺駅の交差点を渡り、対岸に渡る。阿倍野ハルカスと改札の間を埋め尽くす人の群れを掻き分けて彼女を探す。人だかりの中で小柄な彼女を探すのは骨が折れた。僕の姿が目に入ると、彼女は目いっぱいに手を振った。危なっかしい爪先立ちが愛らしい。
「ここで会えて良かったです」
どこか感慨深いような言い回しだ。僕にとっては、彼女がいなかったら、ただの排気ガス臭い街に他ならない。そういうと彼女は、口元を押さえて笑った。
「何を言ってるんですか。三島さんがいるから、ここが特別な場所なんですよ」
胸がどきり、と鳴った。彼女は、言葉を紡ぐ仕事をしているからか、たまに心臓に悪いことを言う。そのたびに僕は、自分がドラマの中にいるかのような高揚感を覚える。
夢見心地の中で、僕の手を体温が包んだ。猫背がちの僕の背がしゃんと伸びた。
「バンドメンバーの打ち上げで行ったことがあるんですけれど、いいお店なんですよ」
振り子のようにぶらぶらと僕の腕を揺らす。その周期が、まるでふたりの時間を刻んでいるかのようで、愛しい。
阿部野ハルカスの下を通り抜けて、歩くこと数分で店にたどり着く。歩道に向かって犬矢来が張り出していて、京の町家を思わせる。控えめな照明が、ぼんやりと店先を照らしていた。
滑りの良い引き戸を開けると、酒の香に混じって炭火の匂いが微かにする。
「入ってから聞いちゃうんですけど、炉端焼きは好きですか」
頷くと、彼女の顔が晴れ上がった。
座卓につくと、早速お品書きを取り出して、いそいそとページを捲る。食い意地が張っているぞと茶化すと、「いいじゃないですか、美味しいんですから」と苦笑い。
「ここは日本酒も多く揃えているんですよ。あっ」
お品書きにある「呉春 特吟」の文字に向かって、彼女の指が真っ直ぐに飛んだ。まるで、かるたの名人のようだった。
「運がいいですねえ。なかなか入荷していないんですよ、これ」
それから彼女が饒舌になって、日本酒の香りや味の違いを力説した。日本酒は会社の付き合いでちょっと飲むくらいだから、いまいちピンと来ない。まごついていると彼女がしびれを切らして、「呉春 特吟」の冷酒を二杯頼んだ。
「飲んでみれば、わかりますよ。深みが全然違うんですからっ! あ、あと、ここの注ぎこぼし、容赦ないですから覚悟しておいてくださいね」
嬉々として話す様子から、相当なお酒好きだ。会社の上司の影響で酒を覚えた僕は、地ビールやクラフトビールはそれなりに詳しいつもりだった。それでも、彼女のようにお酒そのものの香り、味を楽しんでいただろうか。どちらかといえば、酔うこと自体を楽しんでいて、お酒はそのための手段だったのかもしれない。そう、思っていたところに、品のある女性の声がした。
そして、上品な手つきからは、半ば想像できないほど豪快に澄んだお酒を注いだ。玻璃のグラスの縁から勢いよく溢れ出して、それを受ける升をも並々と満たす。ちょっとでも動かそうものならば、グラスからも升からもお酒がこぼれてしまいそうだ。
互いにお酒をこぼさないように慎重に慎重に、升を滑らせるようにして、ようやくこつんと当てて“乾杯した”ということにする――まではいいのだが、それからがどうしたものか。
「升を持ち上げるか、グラスを持ち上げるかなんて考えじゃこぼしちゃいますよ。自分から迎えに行くんです」
さらりと長い髪をかき上げて、肩の後ろに回し、グラスに手を添えながら身を屈める。下がる水面を追いかけて、グラスの縁をくわえる彼女の唇。僕は、思わず息を飲んだ。
「ちょっと、見てばっかりじゃなくて味わってくださいよ」
釘を刺されて、こちらも彼女の見よう見まねで飲んでみる。少々行儀が悪い飲み方だとは思うが、すするように飲むことで余計目に含んだ空気が、酒の香を増幅させて、普段よりも早く酔いが回ってしまいそうだ。彼女は、僕よりもお酒に強いから、今日はきっと、長い夜になるに違いない。そう思うと、頭がくらくらとしてきた。
「どうですか、全然違うでしょう?」
同意を乞うような口調。正直、あまりよく分かっていない。なんというか、刺激がいろいろ強すぎて。初めて吸ったタバコでめまいがするような感覚だった。狼狽えながら、頷くと彼女は途端に鈍感になって、僕に労いもせずに酒を進める。
もう、お酒に酔っているのか、それとも彼女に――そうこうしているうちに、彼女が頼んだ品が続々と到着した。アユの串焼きに、ホッケの開き。ホタテのバター焼き、そして彼女が是が非でも食べてほしいと言っていた、焼きおにぎり。
「もう、ここの焼きおにぎり、ほんと、美味しいんですから」
酒の酔いも手伝ってか、押し売りが激しい。目の前に差し出された焼きおにぎりに箸を通すと、ばりばりとおこげが割れて、醤油の香りが立ち昇る。真っ白なつやを放つ仲間で箸先が到達すると、今度は一粒一粒の弾力が箸を押し戻してきた。口に運ぶと、かりかりに焼きあがった外側と、ほくほくの中身。箸で感じたままの食感とともに、たまり醤油の香ばしい風味。お酒に合うようにか少々塩辛い味付けで、少しだけ酔いが醒めた。
余裕が出てきて、冷酒を口に含む。最初に飲んだ時よりも、深く、豊かな甘みを感じた。
少し飲みすぎた。途中で余裕が出てきたからなんて、高をくくったのがいけなかった。
「大丈夫ですか、三島さん、ふらついてますよ」
ちなみに彼女は、冷酒を四杯も飲んだのにぴんぴんとしている。
「ああ、なんとか」
けれど、自分でも呂律が怪しいのがわかってしまう。彼女は心配そうに労いの言葉をかけてくれるけれど、心の中では分かっていた。全部、彼女のせいだって。口の中に残る酒の香さえも、名残惜しく、愛しい。




