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僕は許さない。

「三島さん、起きてください」


 囀るような声で目が覚めた。眠い目を擦り、まだ霞む視界が彼女を捉える。長い前髪に寝癖がついていて、頬に纏わりついている。ちょっと色っぽい。


「そんなまじまじと見ないでください。こっちも寝起きなんですから」


 彼女が赤らめた頬の色が、僕にもうつった。


「もうっ、こんなことをやっている場合じゃないんです。時計を見てください」


 ベッドサイドの目覚まし時計が目に入るなり、思わず、うわぁあと声が出た。今日の遅刻が確定した。


「ごめんなさい。私、あまり朝が早いスケジュールに慣れていなくって」


 謝る彼女、しかし、彼女に非は全くない。

 

「あ、もうすぐに出ないと駄目ですよね? ちょっと待ってください。すぐに準備しますから」


 半ば小走りに洗面所へと向かうその背中を呼び止める。「どうしたんですか」と甘えた声が。

 僕は立ち上がり、目覚まし時計の置いてある小さい棚の引き出しを開ける。まだ美郷がつけていたストラップがついていたのを半ば引きちぎるように外して、彼女にわたした。


「い、いいんですか。合鍵なんてもらって」


 戸惑う彼女。申し訳なさそうな表情を浮かべる。「いいんだ」と促すと、目を瞑ってそっと掌に握りしめる。


「じゃあ、ここで厄介になってもいいんですね」

「……自分から出て行ったけどな」

「もうっ、意地悪言わないでください」


 憎まれ口を叩くと、悪戯っぽく笑って僕を詰ってきた。彼女には随分と心をかき乱されたから、これでお相子にしたつもり。本心は、ただただ、視界に彼女がいることが、嬉しくて嬉しくてたまらない。

 彼女の事情を全て知ったことで、僕は彼女の全てを手に入れたような充足感を手に入れた。そして彼女も、受け入れられたと、そう思ってくれていたら嬉しい。合鍵に込めたこの気持ちは、届いてくれただろうか。

 独りよがりな思案が落ち着いたところで、僕の渡した合鍵が、彼女のキーケースに綴じられた。ぱちり、とその音は脳裏に深く刻まれた。

 それは、ふたりが再び始まった音だった。


 急遽、電話を入れて出勤時刻を伝えた。上司が渋い顔をしているのは電話越しでも分かった。そろそろお説教でも来るだろうか。通勤ラッシュを抜けた空いた車両。画面の上で親指を滑らせながら、そんなことを考えていた。

 けれど、不思議と気分はそこまで沈んではいなかった。


 リュックをデスクに置いて、挨拶と平謝り。


「装置導入の納期が迫っているんだ。自覚を持ってくれ」


 また、上司に小言を言われた。――自覚か。もう、彼女に心をかき乱されることもない。ようやく、仕事に集中できるか。

 そう漠然と思っていたけれど、実際に手を動かすと、そうではなかった。

 まだ自分から、憑き物が取れていない気がする。よく分からないけれど、それは思春期の頃に感じていた、漠然とした不安のようなもので。


 ある日、何の前触れもなく、目の前の世界が、自分の生活が、壊されてしまったらという突拍子もない不安。社会人になってからは、考えるだけ無駄だと思って切り捨てた感情が、心の奥底から湧いてくる。

 僕は必死にそれを抑え、格闘しながら、キーボードの上で指を躍らせた。


 その言いようのない不安の正体に気づいたのは、社食で昼食をとっていたときだった。

 

「また、出とるわ」


 辟易したような笠原の物言い。僕は、彼の視線の先を追った。

 その瞬間に、目の奥がじりじりと熱を持った。箸を持つ手を震わせながら、液晶の中でにこやかにゲストと対談する男を、僕は睨みつけていた。

 大山隆則。天命院の中心人物。


 ――何が、何が、“迷える主婦たちに救いの道を”だ! へらへらしやがって!

 

 お留守になっていた左手を握り締め、奥歯をぎりりと噛み締める。


 ――人の人生と、命を食い物にしておいて、何様のつもりだっ!


「おいおい、大丈夫か」


 笠原の一言でようやく正気に戻る。親の仇を見るような目をしとった、と。いや、そんな目をしていて当然だろう。

 最近、夫婦の会話が減った。夜の営みの誘いに夫が応じてくれない。そんな、悩みに真摯に耳を傾けておいて、こいつは、彼女の清楚なイメージを利用したいがために、彼女の子供をおろさせたんだ。彼女の人生を滅茶苦茶にしたんだ。


「穏やかでいられるわけがないだろ。にこやかに笑っていて、裏で何人もの人の人生を狂わせているかもしれない。僕は、あんな奴がのうのうと生きているのを見ると、とんでもなく腹が立つ」


 そして、僕はその被害者をひとり知っている。


「まあ、せやろうな。けれど、このテレビの中におる女には、あいつの光の部分しか見えとらんやろう」


 抑えきれない怒りを漏らした僕に対して、笠原の返答は冷ややかなものだった。


「悪いことをしとっても、世の中にのさばっとる奴は、光と影の使い分け方を知っとる奴や。四六時中悪いことしとる奴は、そうそうおるもんやない。――あれも一種の生き残るための手段やろう」


 諦観に満ちた言葉を吐き出す笠原。理解はできるけれど、納得しきれない自分がいる。


『ありがとうございます。大山さんのおかげで、夫婦関係が取り戻せそうです』


 そう言って安堵の笑みを浮かべる画面の中の女性に、「そいつは他人の赤子を平気で取り上げるような人なんだぞ」と耳打ちしてやりたい。

 

 許さない、許さない、許すものか。


 そう、心の中で延々と唱えていた。

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