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コンタクト

 大阪環状線、背後から無遠慮な人波に押し流されて、ホームに降り立つ。ああ、下水臭い。天王寺の駅は独特の臭いだ。

 むせ返りそうになりながら、階段を上る。上りきれば、ワッフルとシュークリームの匂いで、少しはましになる。もっとも、改札を出て、駅前交差点に出れば、排気ガスを足した臭気がお出迎えだ。

 再び訪れた臭気。息苦しさを覚えながら、横断歩道を渡る。

 本来なら、乗り換えの駅であるはずの、この駅で改札を出る必要はない。じゃあ、どうして仕事の疲れが残る中、対岸の近鉄阿倍野駅へと渡るのか。

 それは、ある歌姫に、御執心だからだ。


“You are my religion 信じていた この宝石(いし)の輝きを”


 蒼い蒼い夕闇の空の下、憂いを帯びた声が響く。そのアルトボイスは、まるで少年のようで、失意に塗れた歌詞とともに、青い息を吐いているように聞こえる。それに、クラシックギターの音色が花を添える。

 曲調は、穏やかで、ボサノヴァを彷彿とさせる。


“あなたに酔っていた あの日を思い出す”


 けれど、どこか静かな怒りを孕んでいるかのようで。聞いていると、心の底をずんと突かれるような感触がする。彼女の歌は、曲調と、その根底にある感情の裏腹さが、何よりもの魅力と感じる。

 やがて、歩道橋の下で歌う彼女と対面する。やはり、ロックやポップスの方が受けがいいのか、彼女の歌に聞き入る人の数は少ない。僕を含めて、真剣に聞いているのは、七、八人くらいか。


 譜面台が二つ立てられていて、一つはこちら側に向けて立てられている。そこには、彼女の名前がある。


『シンガーソングライターのカナリアです。一生懸命に歌います。よろしくお願いします』


 簡単な挨拶と、彼女の名前――もちろん、芸名だろうが――が記されている。僕は、その名前しか知らないから、彼女のことを、「カナリアさん」と呼ぶしかない。まあ、それを口に出すことは、おそらくないだろう。


“裏切り 未熟だった ボクも悪いけれど

 あなたの 全てを 許せやしないわ”


 歌詞に明確な怒りが現れてくると、ギターもカッティングが入り、弦とネックの擦れ合う、ちっ、ちっ、という音が漏れる。

 僕はこの音が好きだ。勝手な解釈かも知れないが、この曲においてそれは、抑え込もうとしても漏れてしまう感情の暗喩のようにも取れるからだ。それが、ボサノヴァを損なうことなしに、激しさを表現することを成功させている。


 そして、歌う表情がなんともいい。

 切れ長の目から覗く、透き通るガーネットの眼光と、太めの眉は野暮ったいけれど、意思の強さを感じさせる。艶やかな唇は、言葉を紡ぐ度に忙しなく形を変える。彼女自身が、若々しく、青い衝動のようで。見ていて、いじらしいと思えて来るのだ。


 僕は目を閉じて、聞き浸る。

 聴覚だけになった世界で、僕は歌姫に陶酔した。これが、ここのところの平日の仕事帰りの習慣だ。


 この日のセットリストは、彼女を知るきっかけとなった、「You are my religion」と、カバー曲を含む七曲だった。ボサノヴァ調の曲の他は、ジャズ、シャンソン、ブルースに傾倒した曲があり、どれも独特の哀愁がある。

 全て聞き終えた頃には、すっかり陽は堕ちていた。聞き入っていた人たちも、ぽつぽつといなくなる中、ギターケースに歩み寄り、投げ銭をした。五百円、少額ではあるが、毎日のように通っているので、相当な額を彼女に貢いだことになる。が、中には、紙幣もあって、たまに申し訳なくなる。


 ギターケースの底を、ぱちりと硬貨ではじくように、五百円玉を捧ぐ。すると、頭上から彼女の声が降り注いできた。


「あの……。いつも、ありがとうございます」


 まさか、話しかけられるとは思ってもいなかった。

 嘘だろ。人一倍の人見知りで、無意識に、話しかけないでくださいというオーラを振りまいているような人間だぞ。と自虐するのは、半分天にも昇るような気持だったから。


「い、いえ……。こちらこそ、素敵な歌を聞かせていただいて」


 そこで会話が止まってしまう。いや、彼女からすれば、一言お礼が言いたかっただけなのか。ところが、顔を上げると、まだ彼女はどこかきまり悪そうな顔をしている。

 言葉につまっているような――


「あ、あの。どうか、しましたか」


 少しちらちらと周りに目配せをしてから、ゆっくりと彼女は僕の眼前にまで近づいてきた。上目遣いで、じっと見つめて来る。思わず、視線を逸らす。


「お願いがあります。……少し、一緒に住まわさせてくれませんか」


 雲一つない夜空なのに、僕の頭の中に雷鳴が轟いた。

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