第39話 夜中の食事前編
やっと少し書く時間がとれましたので更新!
ミレーヌがまず手を伸ばしたのは、美味しそうな香りを放っている料理ではなく、その前に信司が持ってきてくれた水が入っているコップであった。お茶を買うために走り回っていた上に、塩を舐めた影響で喉が渇きを訴えていたためだ。ミレーヌはコップを手に取ると中に浮かんでいる氷の形状に目が向いた。
やや角度のついた四角形の氷塊、珍しくない形だけどコップの中の氷は全て同じ形状をしています。これも科学というもので作られたのでしょうか。
水を飲む前にじっと氷を見つめるミレーヌだったが、やがてコップを口元に寄せると冷たい水を口内に流し込んだ。
その瞬間、ミレーヌの鼻は何かの香りを捉える。それは今まで嗅いだことのないさっぱりとした香りで、冷たい水を優しく包み込んでギュッと引き締めていた。乾いた大地が雨水を吸い尽くすかのように、ミレーヌはコップの中身を瞬く間に飲み干す。未知の香りは水を柔らかくして最後の一滴に至るまで爽快感を持続させた。
「美味しい……」
ミレーヌの口から言葉が零れる。
今までこんなに美味しい水を飲んだことがあっただろうか……。いや……ない。
過去を振り返るミレーヌの記憶にこの一杯を超える水は存在しなかった。ミレーヌは戦慄を隠せなかった。
私はまだ料理を食べていない、まだ水を飲んだだけなのに。
心が満たされていた。一日の疲れが抜け落ちていた。幸せを感じていた。喉を潤すためにたった一杯の水を飲んだだけだというのに。
料理を食べてしまったら私はどうなってしまうのでしょうか。
ミレーヌは目の前の料理が怖くなる。水を一杯飲んだだけで朝まで働けそうな程に活力が漲っている。料理を食べてしまったら自分は死んでしまうのではないかという予感すらしてしまう。ミレーヌが食卓に下ろしたコップを握り締めたまま固まっていると、それに気付いた陽菜は水差しを持ち上げ、空になっているミレーヌのコップに水を注いだ。
「陽菜さん、ありがとうございます」
ミレーヌは気を使ってくれた陽菜に感謝の言葉を述べる。
「いえいえ、どういたしまして」
ルミルの庭の言葉は分からない陽菜だったが、陽菜という言葉と状況から判断して適切な言葉を返した。
あれは……黄色い果実?
ミレーヌは陽菜の持っている水差しの中に水と氷以外の何かが入っていることに気付いた。それは薄い円形をしており、切断したと思わしき断面から淡い黄色の果肉と種子のようなものが見て取れる。
この水の透き通るようなさっぱりとした味わいはあの果実のお陰なのだろう。ミレーヌはコップに並々と注がれた極上の水を零さないように口元に運ぶと中程まで飲み終えた。
喉は十分に潤いました。だからといって何時までも怖じ気付いているわけにはいきません。料理は出来立てが一番美味しいのだから。
ミレーヌは覚悟を決めるようにゆっくりとコップを下ろすと、中に入った氷がガラス製の容器とぶつかり澄んだ音を響かせる。ミレーヌは恐る恐るといった様子で箸に指を這わせ、正しい持ち方で箸を構える。動きに若干のぎこちなさは見受けられるものの普通の食事をする分には問題なさそうであった。
ミレーヌとフィオの二人はルミルの庭で地球の食べ物に話を聞かせ過ぎたせいか、地球の食文化に興味津々であった。まるで夢のような料理の話に食欲を拗らせた二人は、ナイフやフォーク以外に箸という食器があることを知り、その使い方を教えて欲しいとせがんできたことがあった。まさかそれを使う機会があるとは誰も思っていなかっただろう。しかし、その経験が今、将に試されようとしていた。
箸を構えて早々、ミレーヌはいきなり難題にぶつかることとなった。
一体どの料理から手をつければいいのでしょうか……?
当然そんなものは自由である。人によって、主食から、汁物から、野菜から、と様々な拘りがあるだろう。
しかし、そのことを知らないミレーヌは迷う。迷いに迷って閃く。食べ方に順序があれば最初に信司か陽菜が説明してくれているはずだと。特にそういった説明がなかったことからミレーヌは自由に食べても良いのだと判断した。
が、ミレーヌの箸は動けない。
あぁ! 自由に食べても良いと分かってもどの料理もとっても美味しそうで最初に食べる料理が決められない!!
ここに来てミレーヌの思考は、出口の見えない迷路に突入した。その混迷具合を示すようにミレーヌの視線が食卓上の料理へと乱射される。実弾であれば全ての料理が蜂の巣にされる勢いであった。実際の時間にしてほんの数秒、信司と陽菜か心配するほどの挙動不審さを発揮したミレーヌは迷子の果てに活路を見いだす。
迷ってしまうのは私がこの料理のことを知らないから、だったら知っている人を見習えばいい!
至った結論は習熟者の模倣、この料理を食べ慣れている人の食べ方を参考にする。思い至ってみれば簡単な話だった。普段から食べ慣れている人であれば本人が気に入っている食べ方か、最も美味しく感じられる食べ方をしている可能性は極めて高い。そうと決まればミレーヌの行動は早かった。
ミレーヌは対面に座っている信司へと視線を向ける。視線の先には紅鮭の塩焼きと呼ばれていた料理を口元へ運ぶ信司の姿があった。
では私も紅鮭の塩焼きをいただきます……!
ミレーヌは最初に食べる料理を信司と同じ紅鮭に定めた。
しかし、これはどんな動物の肉なのでしょうか。
紅鮭がどういう生き物なのか想像出来ないミレーヌはそんな疑問を抱く。仄かに焦げ目のついた切り身は外側に皮、内側に骨があり、そこまで大きな生き物ではないことを伺わせる。しっかりと火の通った身は鮮やかな色合いをしており、記憶しているどの肉の色とも一致しなかった。
疑問の解けないミレーヌだったが眺めていても料理が冷めてしまうだけだと思い直し、紅鮭の身に箸を突き立てる。驚くほどの柔らかさで紅鮭の身に箸が沈み込み、その身をスムーズに切り分ける。箸によって切り崩された断面からは、ふわっと湯気が立ち上り、その香りの中に含まれた旨味の気配にミレーヌの箸を持つ手が震えた。ミレーヌは溢れ出す唾液を飲み込むと落とさないように気をつけながら紅鮭を口に放り込んだ。
「っ!?」
紅鮭の身を口に入れた瞬間、ミレーヌの身体に電流が走った。あっさりとしていて、それでいて濃厚な味わいが口の中一杯に広がった。紅鮭の脂身が溶けるように舌の上に広がり、それを引き締めるように塩がアクセントになっている。紅鮭の身は噛めば噛むほど旨味を舌に伝え……気がつけば口の中から無くなっていた。ミレーヌは慌てて皿の上の紅鮭の身を再び崩して口に運ぶ。
あぁ……何時までもこの味を味わっていたい……。
再び広がる紅鮭の旨味にミレーヌは頬を蕩けさせた。
そんなミレーヌの様子を見ていた信司は、ミレーヌが紅鮭を食べ切ってしまう前に声を掛けた。
「ミレーヌ、紅鮭と一緒に白米も食べてごらん」
我を失ったかのように紅鮭を貪っていたミレーヌは信司の声を聞いてその動きを止める。残っていた紅鮭は三分の一程度であった。
「一緒にですか?」
「あぁそうだ。焼き魚というのは基本的に白米とよく合う。塩焼きならその塩辛さと合わさって最高に美味い」
「……!? そうしてみます!」
ミレーヌは紅鮭が魚だったことに衝撃を受ける。でも今はそれよりも、信司の言った食べ合わせが気になったため、食べることを優先した。
ミレーヌは白米の入った器を手に取ると顔に近づける。地球、もといヌホンでは主食として食べられていると聞いていた白米は、自分達が主食としていたパンとどう違うのか。もう見た目からして乖離していることは一目瞭然だが、仄かに漂ってくる穀物の香りが気になり、白米を目の前に大きく息を吸い込んだ。
あぁ……なんて優しい香りなんだろう……。
ミレーヌの脳裏に麦畑が浮かび上がった。ルミルの庭の人達の主食にされているパン、その原材料である麦。麦とは違う香りであれど、白米から放たれる強烈な穀物の香りはミレーヌに命の源である麦の実る原風景を思い起こさせたのだ。
ミレーヌは名残惜しむように顔から少し白米を鼻から遠ざけると、少量の白米をつまみ上げ口元へ運んだ。
柔らかい……それに暖かい。
口内に飛び込んだ白米はミレーヌに秋をもたらした。濃厚な穀物の香りは瞬く間に口内を満たし、行き場をなくした香りは鼻へと抜けていく。それは例えるなら秋の豊穣を祝う収穫祭、穀物の香りにしっとりと水分を含んだ白米の確かな弾力。
これが白米……何時までも噛んでいたく……なっ!?
穀物の香りを楽しみながら白米を噛んでいたミレーヌの舌に予期せぬ味が襲来した。白米が形を崩しその体積を小さくすればするほど確かな甘みが感じられた。噛んでも苦味しかないルミルの庭の麦とは雲泥の差だった。
ミレーヌは白米の味を知った。ミレーヌにとっては白米だけでも十分なご馳走だ。そこに紅鮭の塩焼きが加わったらどうなってしまうのか。ミレーヌは信司の助言を実行するべく紅鮭へと手を伸ばした。気が逸るあまり紅鮭が上手く掴めないミレーヌだったが何とかつかみ取ると白米の上へ運ぶ。無事、白米の上に紅鮭を乗せたミレーヌは両者をうまい具合につまみ上げるとパクッと口の中に閉じ込めた。
「んー!?」
ミレーヌの口からくぐもった声が漏れた。ミレーヌの口内は未知の美味しさに襲われていた。白米の無垢な味わいに紅鮭が自らの旨味をすり付け色を付ける。紅鮭の持つ塩気が身から染み出し、白米の一粒一粒すら引き締めて両者の味を混在させたまま調和してみせる。口内で入り乱れた二つの料理の香りは融和を果たし新時代の到来を告げていた。
美味しい……美味しいという言葉しか浮かび上がりません!
ミレーヌは食べた。ただひたすら黙って食べた。それは紅鮭と白米の姿が見えなくなるまで続けられ……いつしかミレーヌの頬に涙が流れていた。
こんなに満たされた気持ちになったことが今まであっただろうか。
つまむように食べていた動きはいつの間にか、かき込むような動作に変わり、幸せの味を求めてしっかりと鮭と米を噛み締めた。
カツンと澄んだ音が響く。空になった器に箸がぶつかる音で、ミレーヌは紅鮭と白米を食べ終えてしまったことに気付いた。途端に悲しい気持ちが溢れるミレーヌだったが、その様子に気付いた信司がミレーヌの空になった器を引き取り口を開いた。
「白米と味噌汁はおかわり出来るから気にせずに食べなよ、ミレーヌ」
その言葉と共にミレーヌの前へ先程よりも多めに盛られた白米が置かれた。ミレーヌの心は湯気を上げる白米と同じように息を吹き返した。
「はい!」
あぁ……まだこの香り高い白米を食べることが出来る……!
ご馳走されている身でありながらミレーヌは心が弾むことを抑えきれなかった。信司と陽菜も嬉しそうに食事をするミレーヌを見て自然と笑みが零れた。
ミレーヌは次の標的を信司の言葉にあった長葱の味噌汁に定める。濁りを持った不思議なスープはその表面に新緑を思わせる瑞々しい色合いの野菜を浮かばせ、白色の角張った物体と濃い緑のひらひらを湖面に沈ませている。どんな味がするのか全く予想がつかない見た目をしている長葱の味噌汁を前にして、ミレーヌはまずスープを味わってみることにした。味噌汁の入った器を口元に近づけるだけでも芳醇な香りが鼻腔をくすぐり、口に入れるまでもなく、これは美味しいだろうということを確信させる。ミレーヌは器にそっと口をつけると少量の味噌汁を口内に流し込んだ。
「っ!? とても濃厚な味……!」
今まで飲んだことのあるどんなスープよりも濃厚な味わいと複雑な香りがミレーヌを襲った。塩とは全く違う、後を引くようなしっとりとした味わい。旨味に慣れていないミレーヌの舌は歓喜の悲鳴を上げる。それでいて複雑な風味はあっさりと鼻を抜けていき、すぐに次の一口が欲しくなる魔性を秘めていた。スープと一緒に口の中に入ってきた新緑の野菜は、一噛みする度に小気味良い音を立ててじんわりとした甘味と独特な香りを滲ませ、よりスープを美味しくさせる。
これは堪らないとばかりに、ミレーヌはすかさず味噌汁を流し込んだ。するとスープが減ったことで濁りの中に潜んでいた白い物体と濃緑のひらひらが顔を見せる。姿を隠すことが出来なくなった白と緑は逃げ場を無くしてミレーヌの口へ連行された。
これは……不思議な味ですね……。円やかな味なのにスープに負けない強さがあります。濃緑のひらひらにはそっとスープを後押しするような素朴な味わいが感じられます。
そしてミレーヌの箸は先程と同様に止まらなくなった。白米を口に含んでは少量の味噌汁を流し込む。味噌汁の具も一緒にかき込むとそれぞれの素材の味が調和して魅惑の世界を作り出す。
もうミレーヌは周りの人の食べ方を見る必要はない。陽菜の作った料理の本質を身体が見抜いたためだ。それぞれの料理が他の料理の風味を阻害せず、それどころか互いに手を取り合い至高の旨味を引き出し合う。一つ一つの料理が素材となり、食事という一つの大きな料理を作り上げているかのようだった。そう感じたミレーヌは目眩く美味なる世界へ飛び出していった。




