第19話 ソファー争奪戦後編
ソファーではなく信司に抱き付いて止めようというのが二人の魂胆であった。それは勝負に勝てなかった故に選ばざるを得なかった一手であり、二人にとっては嬉し恥ずかしの最終手段であった。最終手段にしておきながら合図もなしに呼吸を合わせたように勢いよく立ち上がる姿は寧ろこれがしたかったのだと言っているようなものだった。
果たしてその好意が溢れ出た行動選択は極めて信司に有効であった。信司は無防備にも抱きついてくる妹達を無碍に扱うことは出来ないだろう。抱きつきを許してしまったら二人の間にソファーを置いたまま情報交換に臨むことになるだろう。
居間の中を二人が諦めるまで逃げ回るか? いやそれは時間がかかり過ぎる、ソファーを戻されて仕切り直しになる可能性も高い。諦めて二人の間に座るか? それだとソファーを争った意味がないし、ミレーヌとフィオが落ち着けない。となると取れる手段は……、仕方ない、こちらもルールを一つ破って決着をつけさせてもらうとしようかな。
信司は二人の前へと素早く足を運ぶ、その動きは光と陽菜には速過ぎて捉えることが出来なかった。
「「えっ?」」
突然目の前に現れる信司、二人は立ち上がってから近付こうと一歩目を踏み出し、床に足が触れるか触れないかのタイミングであった。
信司の動きはステータスが適応された影響で既に一般人の出せる速度を越えていた。二人の足が床に着くまでに二歩進んで目の前に移動していたのである。
光と陽菜が反応出来たのはそこまでだった。信司は二人の前に移動するとサッと手を伸ばした。右手は陽菜の柔らかそうな銀髪の上へと降ろされ、左手は運動したせいで少し汗ばんでいる光の脇へと差し込まれる。光が逃げないように脇腹をしっかりと掴んだ上でまずは右手に集中する。
「うぐぅ。」
脇腹を掴んだ瞬間、光が何かを押し殺したような声を上げた。まだくすぐっていないのに掴んでいる手には緊張して痙攣気味な感触が伝わってくる。そういえば今日は既に一度くすぐり倒していたなぁ。それならすぐに終わりそうだ。
信司は階段下でダウンさせた光の姿を思い出して心の中で頷いた。
陽菜は頭を優しく撫でるとふにゃっと蕩けたような表情を浮かべる。体からは力が抜け、ただ頭から伝わる優しい感触に身を委ねていた。
「んっ、お兄様……」
陽菜は小さな声でそう呟き、そのまま信司に近付いて抱きつくと胸の中へ顔を埋めた。暫く経つと満足した顔を信司に向けてから自分のソファーへと戻っていき、ボフッと座る姿が確認出来た。
連れ戻すことを諦めてくれたようだ。
「さて……」
次はお前の番だと言わんばかり光に目を向けると怯えるような視線とぶつかり、左手で掴んでいる光の脇腹がビクッと震えた。
「お、お兄ちゃん、お、女の子の脇腹を掴むのは、よ、良くないと思うなぁ……」
光は何とかしてこの窮地から逃げ出そうと兄の左手を精一杯押してみるがびくともしない。体を捻ってみても、踏ん張ってから慎重に後退しようとしても、そのまま勢いよくジャンプしてみても信司の手が外れる気配は無かった。このままだと不味いと先程から光の勘が警報を鳴らしている。光の体感ではパトカー10台分くらいはある大音量だ。緊張のあまり体中から汗が吹き出している。
「あのぅ、た、たまには陽菜にするみたいに頭を撫でてくれると嬉しかったり…して……っ!?」
逃げることはどうやら無理そうだと気付いた光は物理的な逃走から交渉による和解へと切り替えて活路を見出そうとするが、提案を話し終える前に反対側の脇腹を掴まれ中断を余儀なくされた。
陽菜がリタイアしてしまったため一人で信司と対峙しなければならない。両側から掴まれて既に痙攣しかけているお腹に力を込めて抑えようとするが流れる汗の勢いが増すばかりである。
「お、お、お兄ちゃん、一旦落ち着こう? 夕方にお兄ちゃんにくすぐられてからまだ半日も経ってないんだよ。今くすぐられたら私、し、死んじゃうかもしれない……、だ、だからどうか、くすぐりだけは!」
逃げること叶わず、提案は物理的に中断されて今にも信司の指が動き出しそうな雰囲気が漂う中、光は許しを乞う。
光の言っていることは事実で、今、夕方の時のようにくすぐられればもしかしたら死んでしまうかもしれない……。実際にそう思わせるほどに光はくすぐりに弱かった。夕方にくすぐられて一度失神してからそれほど時間が経っていないため未だにダメージが抜けきっていない。そのため今の光はこれまでの傾向から判断すると、くすぐられると30秒も保たないと予想できた。
小さな頃から光が何かやらかす度にくすぐっていたせいなのか、遊びの最後の締めにくすぐっていたせいなのか、ご褒美の代わりにくすぐっていたせいなのか、どれが原因となったのかは分からないが光は年々くすぐりに弱くなっていった。
昔は喜んでいたのだが高校に入った頃を境に嫌がるようになってしまった。当時はついに光が反抗期になってしまったのかと落ち込んだものだ。嫌がるわりには昔よりも隙だらけだったため、嫌よ嫌よも好きのうち、光も難しい年頃になったのだなぁと若干寂しくなったりしたものだが、逆に気にしてスキンシップが減るのもどうかと思い気にせずくすぐることにしたのだった。
今度は光の発言を遮らずに聞いた上で行動する。
さて、どうくすぐるか……。このままくすぐってもステータスが適応された影響でいつも以上に激しくくすぐることが出来るからその反応を楽しむのも悪くはない、だがステータスが適応されたからこそ出来るくすぐり方の方が面白そうだな。
信司には最初からくすぐる以外の選択肢しか存在していないということを光が知っていればまた別の結末があったのかもしれない。
信司が動いた。
「なっ!?」
光は驚愕の表情を浮かべ思わず声を上げた。衝撃のあまり体は震え硬直してしまっている。口は声を上げた形のままで閉じられる気配がない。
信司はまだ光をくすぐってはいない、くすぐるのはこれからだろう。
光はこれ以上状況は悪化しないと思っていた。体は固定されて逃げられず、対話の余地もない。許しを求めてはいるがおそらく、くすぐりの敢行という結果をもって返答とされるだろう、そんな未来が容易に想像できた。既に選択肢はなく、次の瞬間にでも襲ってくるかもしれないくすぐりに対して身構えることしかできない現状は最悪以外の何物でもなかった。
だが、しかし、どうやらその最悪のもうワンランク上の最悪が存在したようだ。
光の視界には先程まで見えていなかったものが映っていた。それはどこか微笑ましいものを見るような視線を送るミレーヌであり、構って欲しそうに、いいなぁ……、と呟くフィオであった。もう少し視線を右に向ければ生暖かく見守っている両親の姿も見えたはずだ。
しかし光は予想外の事態に視界に映っている情報を処理出来ず、口を開けたまま固まっている。
新しいくすぐり方法ですね、と恐ろしいものを見てしまったかのような表情を浮かべた陽菜はゴクリと喉を鳴らした。その光景を見て思わず呟いてしまった陽菜は自分が当事者じゃないのに汗を滲ませていることに気付く。仮に自分があの場所にいたとしても同じ状況に陥るだろうし、これから光が辿るであろう結末をなぞることしか出来ないと感じたためだ。光には申し訳ないが自分があそこにいないことに心底ほっとしていた。陽菜は祈るようにゆっくりと両手を合わせると、どうか安らかに……、と小さな声で呟くのだった。
光は空中にいた、驚いた表情を浮かべて、小さな口大きくを開いたまま、体は光の感情を表すかのように硬直して固まってしまっている。地から離れた足も体に合わせるかのようにピタリと制止していた。
信司に持ち上げられてから10秒は経っただろうか。ようやく光は現状が把握できたらしく、体の硬直が解けたようだった。しかし、その顔色は相変わらず悪いままである。今の状態を鑑みればこれは当然の反応といえた。
信司に持ち上げられた光には最早取れる手段はない。兄を攻撃するという暴挙でも起こさない限りは詰みである。勿論光はそんな方法を選ぶ気はなかったためこれは最早詰みであった、あとは少しでも早くくすぐりから解放されるように祈るばかりである。
空中に浮かんでいる光の全体重は信司の腕に支えられておりそこから繰り出されるであろうくすぐりの威力は誰にも想像がつかなかった。何せ逃げ場がない、そのくすぐりには自身の体重分の威力が乗せられるのだ。踏ん張ることも、逃げることも出来ず、家族に加えお客さん二人の視線が集中する中で処刑されるのだ。
恐怖か羞恥心か、それともまさか期待なのか、必死に震える体を抑えつけて流れ出した汗に濡れた服を揺らす、大きく見開かれた瞳を涙で潤ませて、小さくな唇を動かして、どうか許してください、と兄の名前を呼───。
「お、お兄ち───」
信司が指を動かしたのはそんなタイミングだった。言葉を紡ぐために脇腹から力が抜けた瞬間に襲われたのだ。ただでさえ低い防御を貫かれ、容易に信司の指が脇腹へと沈み込む。
そしてみんなの視線を一身に集めながら、光は居間の中心で家の外にまで聞こえそうな奇声を上げることになった。
17秒───それが渡里光が意識を手放すまでに耐えた時間である。




