赤犬 (万作と庄屋 3)
雨の降る寒い日。
万作が晩めしのしたくをしていますと、だれやら入り口の戸をたたく音がします。
――こんな時分にだれじゃろう?
戸を開けてやると、ここらでは見かけない男が立っていました。
男はブルブルと震えており、雨の中を歩いてきたのか体は泥まみれです。
「早く火にあたって、あったまるといい」
万作は男の腕を取り招き入れました。
「すまねえ」
安心して気がゆるんだのか、男は中に入るなり倒れこんでしまいました。
男の太ももには血が流れ伝っていました。
「ケガをしとるやねえか」
「それが、なんも覚えてねえんで。気がついたら、こん雨の中で、このざまだ」
男が痛そうに顔をしかめます。
万作は傷口に手ぬぐいを巻いてやってから、火のある囲炉裏のそばに座らせました。
「せわをかけるな」
「気にすることはねえ。じっとしておれば、じきに血も止まるだろうよ」
男が体をかわかしている間に、万作は晩メシをこしらえてやりました。
「食うがいい、元気が出るぞ」
「ありがてえことだ」
よほど腹をすかせていたのか、男は湯気のたつ雑炊をガツガツと腹の中にかきこんでゆきます。
「そん傷じゃ、歩くのは難儀やろう。今晩は泊まっていくがいい」
万作は男を泊めてやることにしました。
その晩。
男はメシを食い終わると、そのまま囲炉裏のそばで寝入ってしまいました。
翌朝一番。
万作は腰を抜かさんばかりにおどろきました。なんと囲炉裏のそばで、狼ほどもある赤毛の犬が寝ていたのです。
あわてて家内を見まわすに、泊めたはずの男の姿はどこにもありません。
――あんケガでどこに行ったんや? それに、ゆうべは犬なんぞ……。
忍び足で近寄ってみると、赤犬は男の着物にくるまるように眠っていました。さらに足には、血のにじんだ手ぬぐいが巻かれてありました。
――いってえ、どういうことなんや?
万作は入り口の戸を見やりました。
カンヌキはおりたままです。
――あん男が……。どう考えても、ほかに考えられねえ。こいつは庄屋さんに……。
赤犬を着物につつんで荷車に乗せると、万作はすぐさま庄屋の屋敷へと向かいました。
「庄屋さん、こん犬のことなんやが……」
万作は昨晩のことを話して聞かせました。
「傷口も手ぬぐいも同じというわけか。おそらく、その男と思ってよかろうな。だが、なんとも奇妙なことがあるもんじゃ」
「庄屋さんも、やっぱりそう思うんで」
「このケガでは、しばらく動けんじゃろう。傷が治るまで、ワシがめんどうをみてやろうな」
「よかったのう」
万作が耳元で話しかけるも、赤犬は鳴くことも顔を上げることもありませんでした。
「もとの男にもどるんかのう?」
「そのうちもどるやしれん。だが今は、とにかくケガを治すことが先じゃ」
庄屋は土間のすみにゴザを敷き、その上に赤犬を寝かせてやったのでした。
一日、二日と、なにごともなく過ぎました。
その間の赤犬、与えるメシを食うほかは、ただひたすら眠っていました。
それが三日目の朝のこと。
屋敷に着くやいなや、万作は庄屋に土間に呼びこまれました。
「あの犬が男にもどったぞ」
土間のゴザには、あの男が横たわっていました。眠っているのか目は閉じられています。
「朝メシをやろうとしたら、犬にかわってこの男がおっての。どうじゃ、まちがいないか?」
「ええ、こん男を泊めたんで」
話し声に目をさましたのか、男がうーんとひとつ声をあげます。それから顔を上げ、おどろいたふうに土間を見まわしました。
「ここはどこで?」
「庄屋さんの屋敷や」
「庄屋の?」
犬になっていたことを、男はまったく覚えてないようです。
「ワシんことを覚えておるか?」
「いや……」
「まことだろうな?」
庄屋が念を押すように問います。
「ああ、なんも覚えてねえ」
「では、足のケガも覚えておらんのじゃな」
「こんなケガ、いつ?」
男は傷を見て首をかしげました。
「三日ほど前じゃ。この万作に、オマエは助けられたのじゃ」
犬になっていたこと。庄屋はそのことについてあえて話しませんでした。
「そうでしたか。覚えてねえこととはいえ、たいそう迷惑をかけちまったようだ」
男がふかぶかと頭を下げます。
「気がついたということは、傷が良くなっていることの証じゃろうよ」
庄屋は男の足をのぞき見ました。
傷口は痛々しく見えるも、それでもずいぶん治っているようです。
「ええ、たいして痛くねえ。こんとおりです」
男は立ちあがると、ためすように足を動かしてみせました。
「それで、これからどうする?」
「迷惑はかけられねえ。こんとおり歩けるし、すぐにでもここを出ますんで」
「なら、メシを食ってからにするがいい」
庄屋は男をしばし引き止め、朝めしをこしらえてやったのでした。
男が屋敷を去ってから、万作は気になっていたことを庄屋にたずねました。
「あん男、いつかまた犬になってしまうんかのう?」
「そいつはわからん。だがな、どうなるにしろ、どうしてやることもできんかった」
「なったんが犬やからか?」
「じつはそのことで、あの男にひとつ聞こうと思っていたんだがな。なにも覚えておらんので、そいつは聞けなかったが……」
庄屋が首をふってみせます。
「それで、なにを聞こうとしたんで?」
「足の傷のことじゃ。あれはケモノから受けたものじゃった。で、なにかわけあって、赤犬にかまれたものではないかとな」
「あん男、赤犬にかまれたんで?」
「ああ。以前に同じような、なんとも奇妙な話を耳にしたことがあるのでな。その昔、赤犬にかまれた女が赤犬の子を産み落としたと」
「恐ろしいことやのう」
「赤犬にはいにしえから、犬神の魂が宿ると言われておるのでな」
「犬神?」
万作はその言葉さえ知りませんでした。
「もとは赤犬が食った小さなケモノの魂でな、そのケモノの魂が赤犬にとりついたものらしい」
「じゃあ、ケモノん魂のせいで?」
「おそらくな。ただ、なぜそんなもんが、あの男にとりついたのかわからんが」
「あん男、どうなるんかのう?」
「どうなるんじゃろうな?」
二人は男の去った方を見やりました。
その後。
あの男が、そして赤犬が、どうなったのかはわからないままでした。