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【忘】朱の学び舎【却】

「あ」

 しまった。と気づいたときには、日は大きく傾いていた。


 午前だけで入学式は終了した。学校案内などのイロイロは明日改めてとのことだ。

 そのまま花恋とお昼ご飯を食べ、帰宅したのが午後一時。現代っ子らしくだらだらネットサーフィンをして、気づけば湯水のように時間が流れていた。


 午後四時二十分。

 大変に遅蒔きながら、学校に忘れ物をしていたことを思い出した。


 嗚呼──と。後悔しても既に遅し。というか正直

「めんどくさ…」


 いくら往復二十分程度とはいえ、もう体は完全なリラックス状態である。非常に面倒。


「あれ無きゃ明日がなあ」

 忘れ物は、連絡物が入ったファイルだ。ついでに生徒手帳や、明日まで提出の書類も入っているため、先延ばしにするのは無理だ。


 暗くなる前に、さっさと取りに行ってしまおう。


「よっこいしょっと…」


 普段の重さの何倍にも感じられる身体を無理矢理ベッドから引き剥がし、一応制服に着替えて学校に向かうことにした。










 ──窓から覗く空は朱。



 やはりまだ春で、日暮れともなると、吹く風がわずかな寒さを感じさせる。


 急くように校舎に入った時、ふと気がついた。


「……あれ?講堂ってどこだっけ?」


 確か入学式のときは人の流れに身を任せて来たような。コンプレックスである小柄な身体も災いした。さっきは見渡す限り人だかりで、どんな外観だったかも記憶していない。


「えーと、こっちかな?」


 慣れない場所とあって、キョロキョロと辺りを見回しながら進む。


 職員室、掲示板のあった大ホールと、人の居そうなところは覗いてみたが、誰もいなかった。今日に限っては大半の人が早く帰っただろう。


 薄暗い学校で、誰にともなく呟きながら行く。

「あそこ…かな?多分そうだよね、ここまで一本道だったし」


 自然早足になる。そうして大きめの扉を肩で押し開け、その場所に入ると──。




 目の前に、空があった。視界を遮る物は何一つない。浮かぶ夕日が綺麗だ。


 足下は、崖だった。もうつま先から半分位は空中にはみ出ている。


 思考停止。ちょっとよく分からない。


「ちょっと貴女、危な――」


「え?」


 いきなり声をかけられたので、驚いて振り返る。とっさの事態にバランスを崩す両足。後悔する時間はもうない。


「あ…やば」


 言うが早いか、私の躯は徐々に傾いていき──ー


 ──ふわっ、とした感触とともに、ゆっくりと落下し始めた。


 ドン、と鈍い感触。それを最後に、意識が途切れた。










 先ほどより僅かに温度の下がった風と、それに乗った甘い香りが、私の意識をくすぐった。

「………っ、ん…」


 ゆっくりと、目を開ける。まだ赤々と照る太陽が眩しい。


 段々と視界がはっきりしてきた。目の前に見えるのは、髪…だろうか。きめ細やかな黒が、頬の辺りに軽く触れる。

 透くように白い肌。小ぶりな鼻と口。頬は少し上気している。髪と同じ色の大きな瞳。精緻、精巧で整った顔がこちらをのぞき込んでいる。

「あ、起きた。良かった…」


「えっと…?」

「貴女はそこの崖から落ちて、それで…」


「私を、助けてくれたんですか?」


「ええと…うん…あの、大丈夫?」


 見れば私は、酷い格好をしている。制服が泥だらけ木の葉だらけである。この調子だと顔も似たような有様なんだろう。


 そういえば私は横になった姿勢で話しているが、この、後頭部に感じる好ましい感触は何だろうか。柔らかく、暖かい。いつまででもこうしていたい気もする。これの正体は──。


「うわあ膝枕とかしてもらっちゃってすいません!?」


 見ず知らずの人(多分先輩)にもの凄いことをさせてしまった罪悪感やら羞恥心やらが綯い交ぜになる。多分にパニック。


「ううん。むしろ、変に声をかけてしまったのは私の方だもの。ごめんなさい……」


「いえ、そんな! 私が間抜けだっただけで」


 ええと、名前は──。『疼木和香奈』と名札には記されている。


「疼木先輩こそ、お怪我ありませんか?…顔に傷が付いてますよ!すいません、私の所為で……」


 女性の頬を傷つけてしまった。


「良いの。別に見る人だっていないんだし」


「そんな」


 唇に、差し出された人差し指が曖昧に触れる。


「良いって言ってるんだから良いの。ね?」


「む、ぅ……はい。」


 そう念を押されてはぐうの音も出ない。


「それに貴女だって汚れちゃってるじゃない!泥だらけじゃあ、綺麗な顔も台無しになっちゃう」


 昨晩雨だったのが災いした。


「き、綺麗かはともかく、制服は早いうちに洗わないとですね…」


 ご存じの通り学校の制服というのは扱いが面倒くさい。無駄に汚れやすいし、洗濯機だけでは歯が立たないだろう。


「困ったわね…クリーニングに出すにも明日までは出来ないだろうし…」

 お人形さんみたいな顔面の上部にある、これまた形の良い眉を顰めて言う。きょろきょろ首を左右に動かし、染みの具合を確認しているようだ。

 小動物みたいだ、と何となく思った。

「そうだ…先輩、よかったら家に来ませんか?ここの寮なので近いですし。私洗いますよ。」


「え…?」


 優しげな、少しばかりの垂れ目が、ぱちくりと見開かれる。


「大丈夫です、こう見えて家事全般、独り立ちに際して叩き込まれてますので!」


 この時の妙なテンションや、自宅?へ誘ったこと。


 それは申し訳なさとかの、徳の高い感情なんかじゃない。




 期待してたんだ。


 こんな所で何をしていたのか、とか。身を挺してまで何故庇ってくれたのか、とか。聞いてみたいことが頭の中一杯にあった。


 そして、大変に不躾、失礼ながら――この人は、私の怠惰な毎日を刺激してくれるスパイスになり得るかもしれないと。

 そう感じたんだ。



 だから「じゃあ、お言葉に甘えて…」の返事を貰った時は、意味もなく、喜んでしまったのだろう――――






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