第19回ハイドラはどこに消えた? 「そういうところだけは強引ね」
「『解放』を寄越せ」
エレベーターが動き出すと徐にジャボが言った。
「『凍結』を使うのは勿体無いし、何より『解放』なら『凍結』とドアの錠二つが一度に解けるからな」
「私がやるわよ」
「ダメだ」
「私がボスよ。命令は私が下すわ」
「俺たちの関係は上も下もない共同経営者のはずだったが?」
「実質私が命令を下してたじゃない」
ジャボはため息をつくと、
「だったら先陣は俺が切る。大将は後ろにいるもんだぜ」
と言って奪うようにして『解放』を取り上げた。
「そういうところだけは強引ね」
「お前には何かあった時に紙牌を切るという役目もあるからな。役割分担としてはこれが正常なんだよ」
「別に代わってあげてもいいのよ?」
「ボス面したいならそういうところ割り切れよ」
ハイドラは腕を組んで背を壁に預けた。
ジャボにはその姿が不貞腐れているように見えた。
「この際だから言っておくが、もし俺に何かあってもつまらん真似はしてくれるなよ」
「どういう意味よ」
「つまりさっさと逃げろってことだ。逃げて態勢を整え直せ。足を止めて嘆いたところで奇跡は起こらないからな。出来そうか?」
「まあね」
「頼むよ」
チャイムが鳴り、二人は銃を抜いた。
エレベーターからソッと顔を出すと、長く伸びた廊下に人の気配はなかった。冷んやりとした空気が奥の方から流れてきて、二人の頬を撫でて行った。
1933号室まで来ると宣言通りまずジャボが先陣を切った。
口を真一文字に結びそっとドアに耳を当てるジャボを見つめながら、ハイドラは高鳴る鼓動を感じていた。
一秒、二秒と時が経ち、時の長さに異質な感覚を覚えた瞬間、パッとジャボの顔色が変わった。
「逃げろ!」
同時に業火が彼を襲った。ドアが焼かれそこから吹き出したのだ。
火だるまになったジャボは床を転げ回りながら火を消そうと試みていた。
ハイドラも慌てて上着を脱ぐと、それを叩きつけて消火を手伝った。
「逃げろ……」
火炎が消えて煙の中から人影が見えた。
「逃げてくれハイドラ」
「逃げるなよ」
ウルフパックの声がした。
「そいつが死んじまうぜ」
「言ったろ? ハイドラ」
ジャボの懇願するような言葉にハイドラは顔を背けた。
それから一転、駆け出した。
ジャボは残りの力を振り絞ってウルフパックに銃口を向けた。が、直ぐに山猫に右手を踏まれた。
「油断のない奴だな」
山猫が呟いた。
「でももう終わりだ」
「これで残るはハイドラただ一人か」
ウルフパックが銃を抜き彼女の背中に向けた。
「他にもいるはずよ」
とリサー。
「どうせ雑魚だろ」
その時、ジャボの左手が動き出し、山猫に踏まれた自分の右手に何かを添えた。
山猫がふと気付いて視線を落とす。
と、そこには……
「解放」
と書かれたカードが置かれていた。
「クソッ!」
「実装。弾薬を……『解放』しろ」
破裂音と共にマガジンに詰め込まれた全ての銃弾が飛び散った。
ウルフパックとリサーが耳を押さえ顔をしかめた。二人はそれで良かった。
問題なのは山猫である。彼はもろに爆発の衝撃を足に受けたので、結果苦痛で顔を顰めながら床を転げ回ることとなった。
「畜生! こいつ、痛え!」
「大丈夫か?」
「大丈夫な訳ねえだろ! 足が、俺の足が。このクソ野郎に!」
ジャボは力尽きたようにグッタリとしていた。
「どうするの?」
リサーが困惑気味に尋ねた。
「何が?」
「治してあげないの?」
「俺は医者じゃない」
「『再生』のカードがあんだろ!」
山猫が血だらけの足を抱えながら叫んだ。
「……大丈夫。それくらいじゃ死なない」
ウルフパックはチラリと見ると言った。
「直ぐにホテルの奴らが来る。医者を呼んでもらえ」
「警察も呼ばれちまうだろ!」
「それは頑張って誤魔化しとけよ。後で必ず迎えに行くからさ。ほら、行くぞリサー」
生返事のリサーを引っ張って走ろうとした瞬間、前の壁に銃弾が撃ち込まれた。山猫だった。
山猫は震え手でウルフパックの背中に銃を向けた。
「さっさとカードを寄越せよ。『再生』でも『万物』でもどちらでもいいからよお。何この後に及んでケチくせえ真似してんだよ。俺の命が懸かってんだぞ。殺して奪ってやろうか!」
「……分かったよ」
ウルフパックは肩越しに言うと、諦めたようにカードを一枚放り投げた。『万物』のカードだった。
カードの効果は直ぐに現れた。ウルフパックたちの目の前で山猫の足は綺麗に修復されていった。
「二千万ディルの薬だ。とんでもねえ高価だよ。病院に行けばその百分の一もかからないってのによ」
ウルフパックは山猫に聞こえないようにブツブツ文句を言った。
山猫が立ち上がってまずしたことと言えば、何度も何度もジャボを蹴飛ばすことだった。その目は怒りと狂気に満ち溢れていて、ウルフパックでも簡単には口出しできない有様だった。
「死ね、おら、今直ぐ逝け!」
とは言えいつまでもこんな茶番に付き合うわけにもいかなかった。
「おい、もういいか?」
適度なところでウルフパックは山猫の肩に手をかけた。
「よくねえよ。こいつが俺の足を——」
「ハイドラがエレベーターで逃げちまったよ。さっさと追わないと俺たち間抜けみたいに見えるぜ」
山猫が顔を上げるとちょうどその時エレベーターの扉が閉まった。
「……分かったよ。ボスはあんただ。あんたの命令に従うよ」
「ハイドラは何階で降りる?」
「見た感じ三階だと思う」
リサーの手から使いたての『走査』のカードが消滅した。
「よし、じゃあ追うから二人とも俺に掴まれ」
二人が肩に手をかけたのを確認すると、ウルフパックは『透過』のカードを取り出した。
「『透過』の実装」
すると彼の体が床へと沈みついでリサーの体まで沈んだ。これで一気に三階まで『透過』しようという算段だった。
「あれ、おい!」
その時ウルフパックがあることに気づいて声を上げた。
「なんで手を離すんだよ!」
山猫は寸前でウルフパックから手を離していた。
「あんたにゃもう付き合いきれねえよ」
山猫は冷たい目で言った。
「俺は抜けさせてもらうぜ」
ウルフパックが手を伸ばしたが、もうどうにもならなかった。
二人の体が沈んでいくのとは対照的に山猫の姿はどんどんと登っていき、最後には天井に遮られて見えなくなった。
「チッ、根性のない奴だ」
リサーが何か言ったが怒りに駆られた彼の耳には入らなかった。
途中の床をクッション代わりにして十九階から三階までたどり着いた時、今まさにエレベーターを降りたばかりのハイドラと対面した。
「お次はどっちだ。右か左か?」
ハイドラはきっとウルフパックを睨みつけた。
「好きな方を選べよ。どこまでも追いかけてやるぞ」
ハイドラは右へと進路を転じた。
「レストラン饗宴」
そこが彼女の逃げ込んだ場所だった。
「果たしてそこで良かったのかな? 『饗宴』に裏口はねえぞハイドラ。出入り口はたった一つだけだぜ」
ウルフパックは不敵に笑った。
ハイドラの影を追って「饗宴」までやって来ると、ラストオーダー寸前の店内にはまだ大勢の客が残っていて、それぞれ優雅に料理や酒を楽しんでいた。
キャッシャーの前に立ち勘定中の団体客、女たちをはべらかす男性客、身なりのいい家族連れ、様々な種類の人たちがいた。
一見したところハイドラの姿は見当たらなかった。
「あれ、いないよ。どこ行ったんだろ?」
リサーが首を捻ったがウルフパックの余裕は崩れなかった。
「そう来ると思ったよ。あいつはなあ、恐らく『幻惑』でこの中の誰かに化けている。その為にここを選んだんだ。俺たちを撒くためにな」
「じゃあ早速一人一人『幻惑』で照合する?」
「いや、それは流石に面倒だ。ここは一つ『観察』で行こうぜ。あれならいっぺんにチェックできるからな」
ウルフパックは『観察』を取り出すとすかさず実装した。
「さあて、化けの皮剥がしてやるぜ蛇女め」
ウルフパックは獲物を探す狼のように、目を皿のようにして店内を彷徨いた。
リサーは入り口に立ち彼の行動を見守った。
直ぐに終わると思いきや、彼の口からは中々歓喜の言葉は漏れて来なかった。
ウルフパックは諦めきれずホール以外にも厨房やトイレ、果ては掃除用具入れまでも見て回った。
「どう? いた?」
帰ってきたウルフパックに言葉はなかった。
「どうなのよ」
ウルフパックは焦り気味に再度店内を見渡すと、
「クソッ!」
と言って両目を手のひらで抑えてよく揉んだ。
「おかしい。こんなはずはない。何か見落としているはずだ」
「えー、いなかったの。もっとよく見てみたら?」
「言われなくてもよく見たさ! ……よく見たんだがここには『幻惑』で化けてる人間はいなかった」
「もしかして透過で逃げたのかな?」
「そんな時間的余裕あったか?」
「うーん、タイミング的には微妙かもね」
「仮に『透過』を使ったとして、そんな目立った真似したら必ず客が騒ぐはずだ。人一人が壁なり床なりに消えちまうんだぞ。なのに見ろよこの客たちを。これが今さっき『透過』の効果をその目で見た客の姿か? ガキなんて初めて見るだろうから大騒ぎしてもよさそうなのに」
「確かにね。誰も話題にしてない」
「そもそも『透過』を持っていたらエレベーターになんて乗らないだろ。あのゴリラの悪あがきがなかったら、背後から撃たれていたんだぞ」
「だったらどこに消えたのよ」
「……取り敢えず俺はもう一度店内を探してくるから、お前はそこで見張ってろ!」
ウルフパックはリサーを残して再度店内を駆けずり回った。更にはすれ違う店員たちを捕まえてはハイドラのことを尋ねて回ったが、誰一人として彼女の姿を見たものはいなかった。
「そんな馬鹿な。あいつは確かにここに逃げ込んだ。他のどこでもない。この『饗宴』に逃げ込んだんだ」
疲れがドッと押し寄せて物が霞んで見えた。
「それがどうだ。煙のように消えちまった。嘘みたいな話だ。幻みたいな……おいおい、まさか『幻惑』にかけられているのは俺自身なのか? 今見ている世界こそが幻でリサーがハイドラだったというのか? あの惚けた女だったらやり兼ねないぞ」
ウルフパックは念のため自分に逆位置にした『幻惑』を当ててみた。が、直ぐに自嘲気味に笑いながら首を振った。
「馬鹿だね俺も。そもそも『観察』を使った時点で俺自身にかけられた『幻惑』も解けるはずなんだぞ。それに『幻惑』をかける為には俺に触る必要がある。俺がいつ触られた? 指一本だって触れられちゃいねえぞ。……ダメだ。疲労で頭が回らなくなってる」
疲れ切って戻ってくると今度はリサーまで消えていた。一度見回してこちらの方は簡単に諦めた。今の彼に彼女を探す気力はどこにも残っていなかった。
「どいつもこいつも俺の前から消えやがって……」
ブツブツ言いながら店を後にした。