西洋館
その昔、公侯伯子男の爵位のあった時代に某華族の別邸だったという洋館が、岬の上に建っている。
今は住む人もなく、かといって折々に業者が手を入れるから荒れることもなく、重厚な佇まいを見せている。何でもその偉い人の子孫は東京にいて、昭和30年代までは偶に里帰りすることもあったらしいが、それもとんと絶えて久しいとか。今や臨海市の生字引ともいうべき古老すらその家名を口に上すこともない歳月が流れた。
邸は高い塀と柵に囲まれているため、近づくことさえできないけれど、その高台からは街は勿論のこと、遥か大洋をも見渡すこともできる。
毎朝夕、そのお邸を見上げつつ通学する小学生がいる。少年の名は片倉達磨といい、スポーツの得意な6年生。達磨はダルマではなく、タツマと読む。祖父の命名だ。
一風変わっているのは、その年齢にして早くも将来の職業を決めていること。その仕事とは、建築士。それも自分で設計した建物を、自身で施工すること。昔ながらの大工の棟梁みたいな仕事である。
(あんな館を建ててみたいなあ。きっと名のある人だろうな。あんな重厚で、しかも洒落た洋館を建てる才能は、ザラにいないぞ)
見上げる度に、そんなことを思うのだった。
そんな達磨少年の希望を家族も承知していて、事あるごとに算数の勉強をしろ、画も習え、運動ばかりして遊び惚けていたら、とても建築士なんてなれないぞと、尻を叩く。
足は速いし、身も軽い。肩も強けりゃ、キック力もある。おまけに体格もクラスで一番ときたら、誰も放っておかない。
学校が終われば、彼方此方から誘いの声が掛かる。サッカー、野球、バスケット等々。とても付き合いきれない。
幼い頃から習っているのは、古武術。祖父から手ほどきを受けている。彼是6年になる。恥ずかしいのと武道の訓戒から、誰にも内緒の、秘密。友達に知れたら、フル~と笑われそうだ。
そのお祖父ちゃんが大工の棟梁で、屋号は片倉工務店。会社は町外れにあって、達磨の家からは小学校を挟んだ真反対になる。
秋も盛りの頃。
市内の野球大会へ駆り出された達磨が、練習で遅くなった帰り道。ふと見上げた洋館から、灯が洩れていた。
???。
眼をこすって、もう一度視る。すると、真っ暗。いつもと同じ。変だなあと思いながら、帰宅。
誰か戻って来るなんて話を聞いてるかと、訊いてみる。両親は知らないという。そんなことより、遊び惚けていると建築家にはなれないぞ、の叱責。言い訳をすると、ご飯抜きなどの罰が待っているから、沈黙。泣き寝入り。児童虐待だあ!と言ってみたい。
翌日も、その次の日も、何事もなく日が経って、野球大会の日曜日。この日は決勝戦だけだったので、割合早く試合が終わり、昼過ぎには帰途についた。
丘の上へ続く岐路のところで、見知らぬ人に出会った。一人は車椅子に乗り、それを押す若い女の人が一人。綺麗な人だった。
「こんにちは」
声を掛ける。達磨の小学校では挨拶運動を推進していて、友達だけではなく、知らない大人にも気持ちの好い挨拶をする習慣がある。
車椅子を押すお姉さんが明るい声で返してくれ、
「君は、ご近所の方かしら」
達磨は、眩しいくらい垢抜けて綺麗なお姉さんから『方』なんて言われたものだから、真っ赤に頬を染め、
「方なんて者じゃないけど、すぐその先です」と、答える。
お姉さんは達磨の格好を見て、野球少年なのねと、言葉を継ぐ。違うよ。偶々今日は試合があったので、借り出されただけで、部にも少年団にも入ってないと、強調。
「あ、自己紹介もせずにごめんなさい。私は上に越してきたイマデガワキョウシ、よろしくね。今出川は、京都御所の北の通りの名と同じよ。キョウシは、かおりの香に、子供の子と書くの。よくきょうこって間違えられるけど、気にしないの。ところで、君は」
達磨も名乗る。
車椅子の蔽いが上がって、色白の弱々しそうな女の子が顔を出した。
「わたしはイマデガワカオルコ。かおるこは、難しい方の薫。草冠の下に、重を書いて、点四つ。それに子。分かるかしら」
キョウシとかカオルコとか耳慣れぬ名前に、ハテナマークが飛び交う、達磨。
「静養に来たの。アトピーや呼吸器喘息が酷くて、東京にいない方が良いってお医者様に勧められてね。片桐さまのお邸が空いてらっしゃるからと伺って、やって来たのよ」
達磨は、何とか爵の貴族の館という持主を始めて知った。その貴族さんから簡単にこの邸を借りたという二人は、一体何者なのだろう。それに二人だけであんなデカい館に住むなんて、掃除だけでも大変だし、ご飯の用意にしたって、街とは離れているから不便だ。そんなことを思った。
「達磨さんは何年生?わたしと同じくらいかしら」
それは鈴の鳴るような声だった。今まで耳にしたこともない響きに、ポーとなる。
「そうなの。わたしと一緒ね。でも、わたしは学校にはいけない体だから・・・・・。羨ましいわ」
薫子との会話も、全く記憶に残らなかった。総てが上の空。あれこれ話したことだけは、しっかり覚えている。それと、お休みに暇があったら遊びに来てね、だけ。
家に帰って汗を流し、食事をしたのも覚えがない。母親から、頭にボールでも当たって可笑しくなったのかと皮肉を言われても、へらへら。茫然、放心の態。
「全く、変な子だよ、この子は。ぽわ~んとして」
(薫子さんに、香子さんか。綺麗な人だなあ。あれはこの世の人じゃないみたいだな。気品があって、清らかで。遊びにいらっしゃい、て。ぶるぶるぶる。堪んない)
少し冷めてはいたけれど、お茶を一息に飲んで、あちちちちちっ。
「何だよ、お母さん。いつもの麦茶じゃないじゃないか」
お母さんも達磨のボーがうつったみたいに、お父さんの食後のお茶と間違えて淹れたのだ。
「もう、死んだらどうするの」
「死にやしないよ、そのくらいで」
けろりとしたもの。謝りもしない。
「お、早かったな。どうだった、試合の方は」
「負けちゃったよ。エラーでさ。それよりお父さん、片桐さんて貴族だったんだろ」
「貴族っていうか、戦前は華族制度ってのがあってな、確か子爵だったはずだ。それがどうかしたか」
「今出川てのも、それかな」
「今出川?京都の、今出川か。何っ、片桐さまの館に、ご姉妹で借りてお暮しになられる。そりゃ正真正銘の貴族じゃねぇのか。でなけりゃ」
達磨は父親が余りに仰天するので、ビックリ。父は蘊蓄を傾けて、歴史を語る。
「へぇ、そんな高貴な姉妹だったのか。それなら誘われたからといって、気軽に遊びに行っちゃいけないね」
「そうだ。それが利巧てもんだ。庶民には庶民の付き合い、分相応てのがあらぁ」
それで、この話は決着。
その晩、机に向かいながら達磨の思うよう、
(あの子は学校にも行かないで静養するって言ってたけど、どうするんだろう。学校へ行かないと勉強もできないし、先々困るはずだけど。それにしてもあのお姉さん、奇麗な人だったなあ)
明日は、運動会。
その準備で遅くなった。最高学年の6年ともなれば、色々役もあるし、況してやスポーツにかけては学校一を自認する達磨のこと。先生もあれこれ言いつける。ライン引きから、万国旗を吊るすことまで、手伝わされる。
そんな帰り道。
片桐館への進入路の手前に、1台のワンボックスカーが停まっていた。スモークガラスというのか、中がまるきり見えない。不審に思いながらも、家路を急いだ。
館に暮らす人たちのこともかなり分かってきて、あの今出川姉妹のほか、何人も使用人が住んでいるという。殆んど女の人らしいが、執事というのか、年配の男性もいるらしい。
噂によると、大層なお金持ちらしく魚肉野菜などの食料品も吟味して、最高の物しか買わない。農薬などには殊の外厳しく、その保証のない品は絶対に使用しないほどだ、そうだ。
達磨にはよく解らないが、アレルギー症には食物の影響が強いと聞いたことがあるから、あの子のために召使?が気遣っているのだな、と思った。
その夜半、パトカーのけたたましいサイレンに目を覚まされた達磨一家。何だ、何事だと出てみれば、あの片桐邸の入口に警察が陣取っている。
「泥棒だ。お父さん、それに違いないよ」
斯々云々と、夕方の光景を語る、達磨。野次馬宜しく、押し掛ける。既に先乗りがいて、5人組の強盗が押し込んだ、の話。
「おい、お前の言う通りだったな」
と、お父さんが口走ったので、達磨は警察から色々事情を訊かれる破目になる。
車の形、色、ナンバー、車種等々。訊かれても、ほんの通りすがり。薄暗かったし、先を急いでいたので、しっかり見ていない。
ワゴン車だったこと、ボディが灰色だったこと、スモークガラスで中は見えなかったことぐらい。同じことを入れ代わり立ち代わり何度も訊かれて、嫌になった達磨。
堪忍袋の緒を切って、
「僕、今日、運動会があるんだ。早く寝ないと差し支えるんだけど」
ぶすっとして、言う。聊かご機嫌斜め。まるで犯人の仲間みたいに扱われては、上機嫌でいられるはずがない。
「おお、もうお前は帰れ。どうせ関係ねぇんだからな。大人のことに関わるんじゃない」
お父さんの助け舟。
家に戻って、再び寝床に入っても、変な妄想が浮かんで、眠れない。あのお姉さんや女の子が強盗に脅されて、縛られた姿。ああ、厭だ、嫌だ。
金を出せなんて命令されて、黙っていると殴られたりするなんて、可哀想。そんなこんな想像が次々浮かんで、結局寝たのは明け方近く。
それでも元気よく出掛けたのは、日頃の鍛錬の賜物か。
学校でも強盗事件のことは話題になったけれど、直ぐに運動会へ気持ちが切り替わり、勝負。徒競走では勝てなくても、障害物競争では秘策があるとか、負けん気をのぞかせる友達もいる。
入場式、体操、校長先生の訓示やPTAの人のお話があって、選手宣誓。これは運動能力ではなく、勉強か人望かよく分らないけれど、児童会長の役目。
両親、祖父母も到着していて、所定の位置にシートを敷き、応援の準備万端。
臨海市立松風台小学校は1学年4クラス。学年を紅白に分け、対抗戦もある。聞くところによると、都会の小学校などでは駆けっこでも順位を決めないとか。臨海市では、そんなことはない。どちらかといえば、昔気質が残っていて、決着は最後まで着けなきゃいかんと、引き分けを許さない発言をする人もいるほど。そんな軟弱な育て方をするから、世間を甘く見る若者ばかり増えるのだと、憤慨するPTAもいる、とか。
そんな一人が、実はお祖父ちゃん。大工の棟梁で、古武道の達人。
日頃、口酸っぱく諭されるのは、『やさしさ』のはき違え。猫可愛がりするのが優しさだと勘違いしている向きが多いが、真の『やさしさ』とは相手を一人前の人として遇することだという。
例えば、病気や怪我で具合が悪いときは一人前ではないのだから、手を差し伸べて助けてあげるのが優しさだ。或いは、幼くて物事の判断がつかない児も同じ。そうでないのに横から手助けしようというのは、要らざる差し出口、お節介。むしろ成長の阻害になるの、主張。
又、云う。勇気を持て。機を見て為さざるは、勇なきなり。人が困っている時に拱手傍観するのは、真の勇気がないからだと。武術を学ぶのは、己の心身を鍛えると同時に、いざという時役立てるためだ。『つよさ』の真の意味を悟れ、と。
そんな薫陶を受けている達磨は、少々睡眠不足であろうが、弱音を吐かない。
ダンスだけがちょっぴり照れくさいが、目一杯頑張る。徒競走、障害物競走、対抗リレーと大活躍。家族も誇らしげ。
この日、例の館の買物が派手だから、強盗を呼び寄せたのではないか、の噂を耳にする。食料品に限らず、様々な日用品にしても、どうやら高級品しか使わないとか。流石は貴族の出だ、とか。
あんな若い女性二人暮らしなのに、どうしてそんな浪費をするのか不思議に思う、達磨。皆はあれこれ噂するけれど、実際にあの洋館に住む人を見た者はいない。達磨だけ、のようだ。
病気の女の子の静養に来ているのだから、余り出歩かないというのは分からないでもないけれど、深窓のご令嬢というのはそうしたものなのか?普通、いつかみたいに気晴らしの外出くらいするだろう。それなのに誰も会ったことがないというのは、何か変な感じがした。
その日の帰り。館への進入路のところで、下りてきたワゴン車と出くわした。声を掛けてきたのは、あの綺麗なお姉さん、確かキョウシさん。何とサングラスをかけて、運転している。
「あ、お姉さん。何ともなかったんですか」
「え、ありがとう。脅されて、縛られて、怖かったけど、此処には金目の物なんて持参してないから。被害は殆んどなかったの」
「僕がいたら、そんな奴等やっつけてあげたのに」
「まあ、頼もしい。ですって、薫子さん」
この自動車も中が透けて見えない窓だったから、女の子がいることに気付かなかった。すっと窓が開いて、
「よろしかったら、遊びにいらして。かおる、退屈してるの。お友達もいないし」
「うん。けど、高貴な方に近づいちゃいけないって言われてるし。僕、下々の者だから」
「おほほほ、そんな。達磨さん、今何時代だと思ってらっしゃるの。おかしな人。民主主義の世の中よ」
「だって・・・・・」
「ご遠慮なさらないで。学校にも通ってないし、薫子はお友達もいなくて寂しいの。でも、具合が悪いから行けないし」
「勉強なんか、どうしてるの」
お姉さんが個人教授で教えているから、心配ないとのこと。今は、昨夜の騒ぎで家にいても落ち着かないから、気晴らしのドライブに行くという。
「じゃ、行って来るわね」
「行ってらっしゃい。気を付けて」
予行演習、運動会と休日に出た関係で、続く月、火曜が代りの休み。何処か遊びに行きたいけれど、ウィークデーだから両親とも仕事。留守番役。つまらない。
達磨は朝食の後、また一眠りして、起きたのが昼前。お湯を入れるだけのカップ焼きそばを食べ、テレビを観たり、マンガを読んだりしていると、玄関に客。出てみると、目つきの鋭い男。警戒しながら、
「誰、どなたですか」
「片倉達磨くんだね」
「そうですけど、何か用ですか」
「君、一昨日の夕方、この先の道路に停まっていた車の中を全く見なかったのかい」
「何ですか、藪から棒に。おじさん、一体誰ですか」
ちらりと何か手帳状の物を見せて、捜査していると言った。
「警察の人ですか」
その男は、声に出して返事しなかった。
達磨は、怪しいなと感じた。それで黙っていると、
「この間の夕方、あの事件があった日の夕方だね、君は片桐邸へ通じる道に自動車が停まっているのを目撃したんだね。それで中の様子は、何か変わったことは見なかったかね」
「全然。黒い、中の見えないガラスだったから」
「他に、気付いたことはなかったかね。どんな些細なことでも良いのだが」
「オジサン、本当に警察の人かい。全部、何度も話したことだよ、それ。一体、何度同じことを尋ねたら気が済むんだい」
「ああ、ごめんごめん。実は、オジサンはここの警察じゃないんだ。東京の、知ってるかなあ、警視庁って」
驚いたの、なんの。こんな田舎へ警視庁の人が来るなんて、信じられない。
「おじさん、もう一度、警察手帳ってやつ見せてよ。本物だろう。てか、僕には本物か偽物かの区別はつかないけど」
オジサンは仕方なさそうにもう一度取り出すと、しっかり見せてくれた。テレビのヤツとそっくりだった。
「ねぇ、中にはどんなことが書かれてるのさ。いつも表紙しか見せないから、何を書いてる手帳なのか興味があるんだよ」
身分証があり、服務規程などが記されている。そんなことをオジサンは説明した。
「それにしても、わざわざ東京から強盗事件のことを捜査に来るなんて、そんなにヒドイことがあったの?キョウシさんもカオルコさんも、そんな話はしなかったけどねぇ。気晴らしにドライブに行ったくらいなんだから」
「なんだって!じゃあ、あの二人はもう邸にいないのか」
ことばの意味が全く理解できない。ドライブに出掛けたのは、昨日の午後の話。幾らドライブ好きだって、一晩中走り回る人はいないだろう。況して元気な男性ならともかく、若い上品な女性が、そんなことするはずがない。
オジサンは、いきなり駆け出した。
「おじさん、おじさん、どうしたんだよう。何処へ行くんだ。僕が、何か変なこと言ったかい」
達磨は、警視庁の人を追った。おじさんは駆けに駆けて、洋館への道を急ぐ。それを追いかける達磨。
いつもは閉じているゲートが、なぜか開いていた。しかし疑問に思うより、警察さんの方が気になる。絶対に離れちゃいけない。何かがそう命じているように、付いていく。
館は遠目にも人の気配がなかった。窓も閉じたままだし、ひっそりした佇まいに感じられた。
分厚いドアの前に仁王立ちした、警察屋さん。
「う~む、くそ、逃げられたか。今度こそ、捕まえたと思ったのだが」
ギリギリと悔しそうに歯噛みするのを見て、
「おじさん、あの二人は何かの犯人なのかい。悪いことするような人には見えなかったけど」
「そこが、天才的詐欺師たる所以さ。簡単に見破られるようなら、とっくに逮捕してる」
達磨は驚きの余り、呼吸を忘れた。詐欺師、サギシだったなんて、そんなバカな。信じられない。
「て、言うと、あの強盗事件も嘘なのかい」
「いや、あれは本物の強盗事件さ。何処かのバカが噂に釣られて、下らんことを企んだだけさ。けどそのお陰で、こちらは奴らが此処に潜伏して次の仕掛をしてることを掴んだわけだがね」
「それじゃ、イマデガワキョウシとかカオルコなんてのも、嘘?」
刑事さんは頷く。それにしても上品そうな物腰と、口調だった。あれで偽物なのだろうか。
「君、京都には今出川という地名は確かにあるし、昔今出川家というのもあったよ。しかし、今はそんな家はないのさ。菊亭家ならあるけどね」
そんな!何と、手の込んだ。お父さんもすっかり騙されたくらいだから、ひょっとすると。
「これからその捜査をしなきゃいけないんだが、強盗に押し入った連中が何か重要な情報を持っていないか、そちらも調べなきゃいけない」
ははあ、なるほど。それで極秘に手掛りがないか、訊きに来たのか。やっと合点。
「あのさ、あの二人は本当の姉妹なの。似てるといえばそうかなあとも思うけど、余り似てなかったような気もするんだよね」
そのあたりになると捜査上の秘密といって、ノーコメント。
突然蘇る、記憶。自動車のナンバー。み333の621。
「あ、思い出した」
つい声に出した。ジロッと達磨を見た刑事さんは、
「何を、だい?」
「ん、おじさんには関係ないよ」
口笛を吹こうとして、音が出なかった。動揺してた、みたい。
「君、何か捜査に関係したことで情報を隠すと、捜査妨害で罪に問われるよ」
実はそんな義務はないのだけれど、小学生の達磨には解らない。どきっ。
「いや、だから関係ないって。お父さんの誕生日なんて」
穴があくほどオジサンは達磨を見詰め、
「君は、お父さんの誕生日を忘れるような子かい。怪しいな。誕生日がどうしたんだね」
心の奥まで見透かすような、怖い眼。
「ん、いや、車のナンバーがお父さんの」
「誕生日は何月何日なんだい」
話してしまった。しかし急に悔しくなって、
「オジサン、ずるいよ。自分ばかり訊いて。僕には何も教えてくれないくせに」
まだ思い出したナンバーが強盗犯だったか、お姉さんだったかは告げてない。そこで、駆け引き。さっきの質問に答えてくれないなら、教えない。
刑事さんは脅したりご機嫌を取ったりして聞き出そうとするが、頑として口を割らない。そうそう引っかかって堪るものか。僕にも男の意地がある、ってもんだ。それで渋々、本当に出し惜しみの極みたいに、連中の正体が掴めていないと言った。しかし、それでは答えにならない。
「ちゃんと分かってることを教えてくれないなら、もう何も話さないよ。僕は、帰って家の留守番をしなきゃいけないんだからね。じゃ、さよなら」
狼狽えたオジサン。達磨が強く出たものだから、ちょっと怯んだ感じ。実際、彼方此方で事業資金の出資を募る名目で、金持ちから騙し取っていたらしい。
あの香子を名乗ったお姉さんも、実際は30を過ぎているのではないか。薫子だって、20歳前後ではあるまいか、の推定もあるという。あの声。どう考えても同級生みたいだった。とても信じられない。
だからといって、此処へ来てほんの十日余り。悪いことをする時間はなかったのでは・・・・・。それならどうってことはない。なんて考えていたら、オジサンの催促。
「ナンバーは、強盗の方だよう」
達磨は大急ぎで駆けながら、オジサンに教えた。
それから二、三日経った晩。夕飯を食べながら、詐欺事件の話になった。
「とんだ食わせ者だったらしいぞ、館の連中。勝手に入り込んでたってさ」
「そうなのよ。先生の奥さん、もう少しで引っかかるところだったんだって」
先生というのは、お医者さんのこと。お母さんは美容室に勤めているので、色々街の噂話を拾ってくる。それによると、この街へ来るや、先ず小児科、呼吸器科、皮膚科などで診察を受け、暫く静養のため逗留するのでよろしくと言って回ったらしい。
問診の際に出た名前が、それぞれの医師は当然知ってはいたけれど、一般の人が知る由もない偉い先生の名前や業績など、それはそれは詳しかったそうだ。だから、コロリと信じ込まされた。といって、医師をペテンに掛けたわけではない。情報収集というのか、市の有力者、お金持ち連中のことを聞いただけだ。ただ、中には紹介状を渡した人もいたらしい。
それから東京の某大手銀行部長だの、大手不動産業のお偉いさんを名乗る男がやってきて、香子名義の口座をこの街の支店に開設させた。その日のうちに1億円もの振り込みがあったから、行員もあっと驚いた。
それから1週間もしないうちに、丘の片桐屋敷の買物の噂は街中に広がったから、皆が皆、流石は旧家のご令嬢のすることはと、信じた。
そして極々限られた、この街の上流階級の人が晩餐会に招かれた。東京から招かれたシェフの料理のもてなしを受けたお歴々、すっかり恐縮の態。
そこで執事らしい人から出された話が、途方もなく大きなビジネス。山手線の内側、先ず一等地と呼べる場所のオフィスビル丸ごと一棟を売る、買う話。そのビルには大手金融機関の支店も入り、超一流とはいえないけれど、番付をつければ結構上位に入る企業が名を連ねている。ん百億の買物話。
幾ら金持ちといったところで、所詮は田舎。それほど巨大なビジネスを行なった試しがない。度肝を抜かれた。
結論を急ごう。要するに、最終的にはそのお金持ちたちは、それぞれ数億円のお金を巻き上げられたのである。
僅か1週間ほどで土地の名士に名を売り、且つすっかり信用させて億単位の金を騙し取った手口は、鮮やかという他ない。
数百億の小切手を目の前で切ってみせ、お近づきの標にと名士連中に小切手を切らせたのだが、その前の今出川香子と父という人の電話の遣り取りなど、悠揚迫らぬ話しぶりと所作は本物の上流貴族の末裔としか思えなかったという。詐欺事件として、新聞・テレビに報道された経過だ。
達磨が騙されたとて、無理はない。というところか。
それからひと月ほど経って、丘の洋館で大捕物があった。
例の詐欺グループが忘れ物をしたらしい。そんな噂が達磨の耳にも届いた。何でも、見せ金用の1千万を暖炉の部屋に置き忘れた、というもの。連中、新規銀行口座へ1億の金を振り込んだくらいだから、それくらいの現金は持っていても不思議ではない。
今回引っ掛かったのは、例の強盗団。
警察へ、これこれの夜に泥棒が入ると予告があったという、実しやかな噂も流れた。そして実際、強盗団が忍び込んだところを御用。一網打尽。
達磨の思うよう。これは、あのお姉さんたちのグループが仇を取ったのだ。脅されたり、縛られたりして、怖い思いをさせられた仕返しをしたのだろう。
こんなことがあって、街にまた噂が流れた。持主である片桐さんが、あの洋館を取り壊すらしいという。無住の館を放置しているから、そんな事件が起こる。それなら壊してしまおう、というのだ。
達磨は、勿論反対。そんなことをされたら、夢がなくなってしまう。冗談じゃない、壊さないでください、の嘆願書を集める役も買って出る。建物に罪があるわけではなく、放置していることに問題があるのだから、誰かが管理するようになれば、問題は解決する。いきなり壊してしまおうというのは、乱暴過ぎる。
そんな達磨の願いが叶ったか、子孫の人から市へ館を寄付する申し出があり、記念博物館として残されることになった。
貴重な明治の建物として保存されることが決まって、達磨の建築士志望の夢は続く。