燃える街
イリアと二人きりになると、リースは慎重にその名を口にした。
「ジョバンニ・クエント!」
イリアは今までの穏やかな口調とは裏腹な激烈な口調でその名を繰り返した。
バルディスの時と同じ反応だ。
「イリアは、彼と同じ研究所で働いていたと聞いている。詳しいことを教えてくれないか」
「お話しようかどうか迷っていたのですが…」
彼女はそう前置きをして、しばしの沈黙の後、
「やはり今回の事件には彼が関わっているようなので、お話しいたします」
決意を秘めた瞳でリースの顔を見た。
「カロリーナ様のことは聞いておられますか?」
「カロリーナ?」
「はい。バルディス閣下の妹君です」
「バルディスの、妹?」
聞いていない。とリースは首を振った。
「カロリーナ様は、当時、王立医術研究所の研究助手をされていました」
「え?」
思わぬ言葉に、リースはマグカップを落としそうになった。
「ナシエラの研究所で、私はカロリーナ様とご一緒しておりました。夏にカラキムジア大学に戻ることが決まっていて、わずか半年間ではありましたが。彼女とは10歳以上も年が離れていましたがすぐに意気投合し、とても親しい友人でした」
イリアが、ギュッと拳を握りこんだのがわかった。
ゆっくりと息を吐き出し、封印していた記憶を静かに思い起こそうとしていた。
「カロリーナ様はとても有能な方で、そのために、当時まだ15でしたが、最先端の研究をしていたジョバンニ・クエントの助手に選ばれたのです」
それは、初めて聞く真実だった。
バルディスに、姉と弟がいるのは知っていたが、妹がいるとは知らなかった。
そして、イリアが話したその後の言葉に、リースは呆然と聞き入った。
「なんてこと……」
あまりの話に言葉を失っていた。村ひとつを人体実験の実験場に使うなんて、あっていいはずはない。
「どうやって撒いたかは推論に過ぎないのですが、空気に触れると長くは生きられないウイルスだったようですから、恐らく水に混ぜたのだと思います。水に触れても徐々に病原性は薄くなるけれど、それでも数日くらいは病原性を持ちます。村に唯一の井戸でしたし、水を飲まない人なんていないですから確実だったと思います。7日後。ウイルスが感染した人間は強制的に休眠状態に入ります。いわゆる蛹の状態です。そして丸3日の休眠の後、化け物に変態する」
ゴクリ
リースは唾を飲み込んだ。爪が食い込むほどに握りしめていた両手に、汗が滲んでいた。
「カロリーナ様は、自身が関わっておられた研究でしたから、ウイルスが火に弱いことを知っていた。感染の伝播と化け物の恐怖から国を守るためには、皆が休眠状態に入ったときに火を放つしかなかった。そうしてナシエラの村は焼き払われたのです。そこに暮らしていた何百人もの人達と一緒に」
「そんな…」
絞り出すように言った後、きつく奥歯を噛みしめた。バルディスの妹が、『ナシエラの火の惨劇』に関わっていたなんて。それどころか、彼女がその火を付けた当人だったなんて。そんな重要なことを、どうして誰も教えてくれなかったのだろう。
「当時カロリーナ様は、ジョバンニと、親密なご関係でした。あぁ、これは、カロリーナ様の亡くなられた後、彼女が残していた日記によって明らかになったことです。それなのに…、それなのにジョバンニは、そんな彼女にまで、ウイルスを感染させていました。カロリーナ様は、ジョバンニの行っていた実験に関する全ての資料を密かに持ち出し、手紙とともに国王陛下にお送りしたのです。ナシエラの研究所に着いたバルディス閣下に、カロリーナ様は……自らの処分をお願いされたと聞きます」
イリアは、悲しみに満ちた沈鬱な表情をして俯いた。
「自らの、処分…」
言葉の持つ意味の重さに、リースは目眩すら覚えた。
ウイルスに感染した我が身を、焼却処分する嘆願。それを、実の兄に…。
「妹君を斬られた後、バルディス閣下は軍をお辞めになりました。次の生き甲斐を見つけるまで」
「次の、生き甲斐…」
リースの脳裏に、すぐに答えはひらめいた。
「はい。リサフォンティーヌ姫、あなた様の、剣術指南です」
*****
燃えるような夕焼けだった。
真っ赤な火球が空を焦がすように、西の空を赤橙色に染めていた。
街の外壁の見張り塔の屋上に、リースは腰掛けていた。有事の際にのみ使われるこの見張り塔からは、街全体を見渡すことが出来た。
街全体が夕焼けに包まれている様が見渡せた。
街の中央に聳える教会の時計台も、まるで、燃えているかのようだ。
街が燃えるというのは、こんな光に街全体が包まれると言うことなんだろうな。と、リースはぼんやりとそう思った。
研究所から戻って、リースは真っ直ぐにここに来た。
何となく高いところから、街全体を見渡していたくなったのだ。もう何時間、ここに座っているのだろうか。
「こんなところにいると、風邪をひきますよ」
聞き慣れた低い声が、階段の方から聞こえてきた。
「バルディス」
「ただいま戻りました。遅くなってすいません」
下からもらってきたらしい、熱い紅茶が入ったマグカップをリースに差し出す。
「宿に帰ったらいらっしゃらなかったんで。研究所にも行ってみたのですが」
「すまない……探させてしまったな」
重苦しい声で応じながら、リースは無理に作り笑いを作ってみせた。
「いいえ。実は大して探しませんでした」
バルディスはそう言いながら、リースの隣に腰掛けた。
「あなたは、こういう高いところから街全体を眺めるのがお好きだから」
「お見通しって訳か…」
すっかり冷え切った両手で、マグカップを抱えて、紅茶を喉に流し込む。
「聞かないんですか? 俺達がどこに行っていたか」
リースは、徐々に彩度が落ちていく空を見ていた。聞かなくてもわかっていた。ここからナシエラの廃墟までは、たったの片道2時間だ。
「私は、そなたに謝らねばならない」
ここでずっと考えていた言葉を、慎重に口に出した。
「なにをです?」
「私は、何も知らなかった。『ナシエラの火の惨劇』のことも、ただの歴史の1ページに過ぎないと思っていた…」
視線を動かすことなく、絞り出すように言葉にする。
「私は何も知らないのに、そなたに……」
バルディスの逞しい腕が肩に回され、リースは体ごと、強引にバルディスの方に引き寄せられた。
「リサ。俺の教えたこと、もう忘れたのか」
彼の声が、直接体に伝わってくる。
「『歩き出したら振り返るな。ただ前へと道を切り拓け』一国の王が、些細なことで振り返って悩んでいるんじゃない。あれは、ドレイファスの歴史だ。俺個人の歴史だ。俺達は今、キールという国の歴史を作っているんじゃないのか。悲劇や惨劇のない歴史を、お前は作ろうとしているんじゃないのか。そのためにお前は、騎士にまでなったんじゃないのか」
魂すら揺さぶるような彼の力のこもった声は、剣を交える時の、あの、厳しい師匠の声だった。
リースの目から、なぜだか涙が溢れてきた。研究所でイリアに、『ナシエラの火の惨劇』の話を聞いてからずっと、ずっと探していた答えが、ようやく見つかった。
「騎士が、人前で泣くな。情けない」
「はい……」
俯いて小さく返事をして、リースはギュッと唇をかんだ。
「研究所でイリアに会った。こんな事になっているだろうと思った」
前を向いたまま、師匠は弟子に諭すように言う。
「個人の感情に翻弄されているようでは、まだまだ一人前とは言えないな」
こんな時。
お前はまだまだ未熟者だ、と叱ってくれる人がいてくれて良かった、とリースは思った。臣下は例え不条理な命令でも、それが王の命なら従わねばならない。完璧な人間などいない。しかし王である以上、それを目指さねばならない。自分の決断が、歴史すら変えてしまうのだ。小さな火の粉を見逃せば、それがいずれ大きな炎となって、国中を焼き尽くすだろう。
空からはすっかり色が奪われ、辺りは夜の闇に飲み込まれようとしていた。
「姫に救われなければ、俺はとっくにこの世を捨てていたでしょう」
「?」
「だから俺は、この命を姫のために捧げようと心に誓っています。姫と共に作る新しい歴史のために。こんなところで立ち止まっている暇はないはずですよ。GMモンスターが既に国内に持ち込まれているとなると、のんびりはしていられません」
さぁ。と、バルディスは立ち上がった。
「とにかく、夕食でも食べに行きましょう。アランが腹を空かせて、ほら、迎えに来てますよ」
バルディスが顎で差した石畳の道の上で、
「お〜い! リース閣下! バルディス閣下!」
と、アランが大きく手を振っていた。
「トリステルの名物、シャイヤーブラッテベーデンでも食べに行きましょう。アランが、美味い店知っているそうですから」
「バルディス……」
階段に足をかけ始めた相棒を、いつもの冴えた声が呼び止めた。
「私はきっと、立派な王になる」
「もちろん。そうあっていただかなくては。そのために、全力でお仕えいたしますよ」
彼は右手を心臓に当てて、その忠誠を、若き王に改めて誓った。