エーデルバッハの猟師
朝靄が晴れると、上ったばかりの朝日が街の中に射し込んだ。
「キールからの返信、まだ来ないな」
馬の背に鞍をつけながら、フレデリックが言葉をかける。
「いいのか? 連中と一緒だと、増々ペースが遅くなるぞ」
「まぁそう焦らんでも。この時間に出れば、日が暮れる頃には、エーデルバッハには着けるだろう。返信も、その間に街に着いているかも知れないし」
軽やかに馬の背にまたがって、アレキサンドロスは爽やかに言った。
「のんきだなぁ」
何かと心配性の幼馴染みが不安に思うのも当然だ。
カイザースベルンの王都ディアトゥーヴを出て2日。20数名の兵を率いて、アレキサンドロスはキール王国との国境の街、エーデルバッハに向けて馬を進めていた。メイヤーリンゲンの街からエーデルバッハまでの道程は、ひたすらに深い森の中を行く道となる。それでも、キールの王都マロニアまで一番近い街道であるため、普段は人の行き来は頻繁だ。
しかし、さすがにここのところの化け物騒ぎで、街道への門は厳重な警備がついて常時閉じられていた。よほど緊急の往来が必要な商人以外は、森を回り込む別の街道へ出るか、ここに滞在して状況を見ようと考えているらしく、その門をくぐって出ていこうとする人間は、腕に自信がある者と命知らずの者、日に数人だと、警備の兵士が言っていた。
この日。
アレキサンドロスの一行には、そんな「様子見」をしていた人達が大勢加わっていた。
商人も旅人もいる。女も子供もいる。カイザースベルンの人間も、キール、ドレイファス、そしてその他の外国人も数人混じっている。
軍が行くのならば彼らを同行させてはもらえないだろうか、と、昨夜のうちに市長直々に願い出てきたのだ。騎士とともに行くのなら安心だ。しかもその隊長が、カイザーベルンの獅子と言われるアレキサンドロス王子ならなおさらだ。臣下に下って、母方の姓ライデルを名乗ってはいるが、その人気たるや兄のマキシミリアンに勝るとも劣らない。この時とばかりに、大した用のない市民までもが旅支度をした、という声さえも聞こえた。
しかし、もとより、そういう願いを無碍にするようなアレキサンドロスではない。快く引き受けて、自分たちの出発予定さえも2時間も繰り上げ、なるべく日のあるうちにエーデルバッハに着けるようにと、夜明けを待ってすぐに街を出た。馬や馬車に相乗りさせての旅とはなるが、ペースダウンは否めない。
「すごい大キャラバンだな」
後ろに続くにぎやかな人の列を、フレデリックは大袈裟な身振りで振り返った。
「大部隊の隊長になったみたいで気持ちがいいだろう?」
嫌味を言う親友をさらりとかわして、アレキサンドロスはレディーキラーな笑顔を浮かべた。この爽やかな笑顔に触れれば、どんな女性も恋に落ちる。女だけではない。男にだって有効だ。とフレデリックは親友の爽やかな笑顔に見とれた。こんな笑顔を向けられたら…。
「囚われて離れられない」
「うん? なんか言ったか? フレッド」
「いや、なんでもない」
心の声が音となって漏れだして、フレデリックは焦って視線を逸らす。
「アレックス、お前、本当に見合い断ったのか?」
無難な話題を見つけだして、すかさず口にした。
「今時、政略結婚なんて、流行らないだろ」
「ただのお見合いだろ? 会うだけでもあってみればいいのに。美人だって言うぜ」
「会ったら最後、結婚までカウントダウンスタートだよ」
前を向いたまま投げやりな感じでアレックスが応える。
「そんなものなのか?」
「そうさ。そもそも、親同士が勝手に盛り上がって話を進めているだけで、当の本人達には、結婚の意志なんてないのさ」
「キールの姫も?」
「あぁ。直接俺の所に、謝罪とお断りの手紙が来たよ」
「そうなのか!?」
フレデリックはアレックスの馬に並びかけ、
「なに?『今度の話は父が勝手に進めていることです』って?」
「あぁ」
「へぇ〜。やるねぇ〜。さっすがキール王。女だてらに一国を統治しているだけはあるね〜」
随分とその話が気に入ったようで、フレデリックは大きく頷きながら、「感心、感心」と、繰り返している。
「でもそういう強気の女、好きなんじゃないの? アレックス」
「バカ。それはお前の趣味だろう? 勝手に人の趣味を決めるな。第一お前にそんな話、したことないだろう?」
「言わなくても分かるよ〜。お前のことならなぁんでも。だって幼馴染みだし」
幼馴染みだからって、人の趣味までわからないだろう。と、得意げな顔の親友の顔を睨む。
「ま、そういうのは強気じゃなくて高飛車って言うのかもねぇ。十八かそこらで一国を立派に統治できちゃう女王様なんて、よっぽどの傲慢ちきな鉄の女か、もしくは」
「もしくは?」
ぶっきらぼうに相づちだけ打ってやる。
「美貌で男をたぶらかす魔性の女♪」
「はぁ?」
「いいね〜、魔性の女♪ 俺もたぶらかされたいよ〜」
「はいはい」
すっかり暴走をはじめた親友に大きなため息をつく。
「美人で高飛車な魔性の女を組み敷いて自分の物にするなんて、男のロマンじゃないの〜。あ。ちょっとは乗ってくれてもいいんじゃない? お前だって、そういうの……」
「そんなの俺には興味ない。それに、キールの王はそんな人ではないよ」
執拗に絡んでくるフレデリックにいいかげん辟易としながら、空を流れる雲を見上げた。
「なに? 魔性の女じゃないの?」
「そんな悪女なら、あれだけ人望が有りはしないだろう。キールでは、国民誰もが、姫の話をする時は誇らしげで幸せそうだ」
アレックスは、騎士として、一人の剣士として、時々諸国を旅して廻っている。隣国のキールは、どこよりも旅しやすく、どこよりも自由を感じられる国だった。それはきっと、国王の姿そのものなのではないか、と彼は思う。
「美人なだけじゃないってか? ならどうしてお見合い断っちゃたのよ? いくら結婚の意志はなくっても、そんな素敵なお姫様なら一気に恋に落ちるかも知れないし。それとも何? 好きな女でもいるの? 俺に内緒でそんな女……」
「いないよ」
被せるような即答が来た。
「それに、たとえいたとしても、お前に教えてやる義理はない」
「なんだよ、それ。俺はお前にいっつも真っ先に教えてやっている、っていうのに」
「俺は頼んだ覚えはないよ」
不平に口を尖らせている親友に、冷たい一言を浴びせかける。
「ひっどい奴。じゃぁなによ? 俺には内緒にしているけど、好きな女がいるって言う訳か? どんな子だよ。この際だから暴露しちゃいなって、アレックス」
「いないよ、そんな人」
「なになに? ここまで引っ張っておいていないなんて、そんなつれないこと言わなくてもいいだろう?」
「本当にいないんだから、つれないもつれなくないもない」
陽の光を受けてキラキラと輝くその横顔は、爽やかで魅力的で、こんな格好いい男を見て恋に落ちない女はいないだろう、と、フレデリックはまた思った。まぁ、それでもこいつの理想の高さは俺が一番良く知っているけどな。と、自分に納得させるように頷いてみる。
「じゃぁなに?」
アーモンド色の瞳の奥に映る真実を探り出そうと、フレデリックはアレックスの顔をのぞき込んだ。
「自信がないんだよ」
ぼそり、と。呟くような、実に意外な答えが返きた。
「うん?」
「もしキール王がそんなに立派な人間ならば、俺などとても……」
獅子の名にはふさわしくないような弱気な言葉。信頼している親友にだからみせる、彼の本心の一端だった。
「よせよ。お前ほどの男が不釣り合いだっていうんなら、キール王は一生結婚できないぜ。いや、待てよ…。キール王にもいるのかな、思いを寄せる相手が。だから断ってきたんじゃないか? なぁ、アレック……」
突然、アレックスが馬を走らせた。
「アレックス!」
フレデリックが慌てて後を追う。
「アレックス閣下!」
兵士達が数人、その後を追ってきた。
少し先の道ばたの大きな岩の影に、アレックスが跪いていた。
「これは?」
血だらけの男が、たった今息を引き取ったところだった。岩の向こうに倒れていたのは、猟師と思われる大男だ。獣の皮で作られた毛皮を身に纏っている。胸に着けられた徽章から、エーデルバッハの猟師であることが分かる。背の矢筒には既に矢は一本もなく、左の肩から腰に至るまで、袈裟懸けに深い切り傷が走っている。この傷では助かりようもなかっただろう。筋肉組織どころか、内臓までのぞいている。
「誰が、いったい……」
背後で呟く兵士を、
「皆を止めろ。子供に見せるな」
フレデリックが怒鳴るように言って振り返った。
「皆の目に触れないように収容してやれ。エーデルバッハの猟師だ。街まで運ぶ」
アレックスはそう言いながら、猟師の遺体の右腕から血にまみれた何かを抜き取った。それは、分厚い革で作られた肩あてに、食い込むように刺さっていた。
「なんだ?」
「歯だ……グリセラトプスの」
「それじゃまさか?」
バサバサバサバサバサ
右手の遠い森の奥で鳥が一斉に飛び立つ音が聞こえて、バキバキと木の枝が折れる音がそれに続いた。
「フレデリック! 皆を頼む! なるべく急いでエーデルバッハまで皆を連れて行け!」
乱暴に馬に飛び乗ると、アレックスは既に、猟師の血の跡が続く森の中へと馬を走らせていた。
*****
倒木が至る所に転がっている森の中を、巧みな手綱捌きで駆け抜けていく。
血の跡はまだ続いている。
これだけの距離を、あれだけの傷を負ってまでも歩いていった猟師の生命力に、彼は感嘆した。そうまでして街道に出たかったのだろう。そうまでして誰かに伝えたかったのだ。自分を殺したモノの正体を。
アレックスは、握りしめていた手の中の歯を、胸のポケットに落とした。
腰の剣に手をかける。
森の中から、こちらに近づいてくる気配がしたのだ。彼の体が緊張する。全ての神経を、音の聞こえる方へと集中させる。
「フレッド?」
木々の間から走り出てきた意外な男に、責めるような声音で呼びかける。
「お前、なんで来た? 皆を連れてエーデルバッハへ急げと言ったはずだぞ」
「ちゃんとご命令通り、オリバーにそう指示しておきましたよ、隊長」
「俺はお前に命じたのだ、何を考えている!」
命令を無視して勝手についてきた部下に、アレックスは怒りをぶつけた。
「オリバーの剣の腕は俺以上だ。信頼できる。それに部隊はみんな精鋭ぞろいで…」
「そういうことを言っているんじゃない!」
バサバサバサバサバサ
ギェッ〜ギャ〜ッ
悪魔の咆吼が深い森から響く。
「お前は戻れ、いいな!」
馬の首を巡らして走りはじめたアレックスに、すぐにフレデリックの馬が並んだ。
「フレッド! 俺の命令が……」
「聞けませんね。確かに市民も大事ですけどね。俺にとっては、あなたの命の方が大事なんだ。俺はマキシミリアン殿下から、あなたを守るように命令されてますからね。こういう時、あなたの命令は聞けません」
付かず離れずして森の中を疾走しながら、フレデリックは叫ぶように言った。
「全く、兄上も…余計なことを……」
兄が練武場に来た理由は、俺に会うことよりもフレデリックに会うことだったのかも知れない、と2日前のことを思い出した。
「だから、たとえ地獄まででも、あんたの後をついていきますよ」
「わかった! 勝手にしろ! その代わり……勝手に死ぬなよ」
「了解です、隊長」
幼馴染みの二人は、互いの絆を確認し合って、一気に山道を駆け上った。
急に森が開けて、追跡を続けていた二人は、ほどなく見晴らしの良い丘の上に出た。
眼下に広がっている森は、既に国境を越えたキール王国の森だ。
「アレックス、あそこ!」
フレデリックが指差す先に、不格好な鳥が飛んでいた。
「なんだ、あの鳥は!?」
ユレキニアくらいはある巨大な鳥は、ユレキニアの足元にも及ばないような無様な姿で、眼下の森めがけて飛んでいた。
いやむしろ。
飛んでいるというより、ただ重力に引かれて落ちているだけのように見える。
「あれは鳥じゃない……あれは……」
アレックスは、瞬きすら忘れてそれを睨み付ける。
認めたくない。
グリセラトプスに羽があるなんて。
猟師に出会ってここまで、認めたくないと否定し続けてきたものが、間違いなく視界の中を飛んでいる。
「あれは……グリセラトプスだ!」
アレックスが、押し殺したような声で言った。
飛ぶはずのないその異様に大きい生物は、森の中へと吸い込まれるように落ちていく。
「どうする? アレックス?」
答えるまでもなく。
二頭の馬は、迷うことなく眼下の森へと走り出していた。